見出し画像

塔の中の姫君【短編小説】

 <月曜日>
 “良い魔女”は、どことなく目の焦点が定まらぬ様子で、何かをずっと考えているようだった。ラプンツェルは、彼女が窓に目をやるたびに、胸の中に蟠るもやが次第に色を濃くして、しまいには息を詰まらせるような気がしたけれど、それを口に出すと不安がはっきり形をとる気がして黙っていた。
 良い魔女はそれに気がついたのかどうか。にっこり笑うとラプンツェルの長い黒髪を丁寧にブラシでとかしながら歌うように言うのだ。
「今日はどの本を読もうか? 将棋でもいいし、絵を描くのも、折り紙やリボンで何かを工作するのもいい。どうしようかな」
「ねえ、今日は何か違う。何かとくべつなの?」
 ラプンツェルは思いきって聞いてみた。良い魔女は優しく笑い、ブラシを置くとラプンツェルを抱きしめた。
「あとで分かる。でも今は、何か楽しいことをしましょう。この世で一番大切な、私のかわいい塔の姫君」
 彼女は子供の頬を両手で挟んでじっと見つめた。ラプンツェルの胸の内の違和感はますます膨らむ。思わず、口に出していた。「たくさん三つ編みをこしらえてリボンで飾りたい。全部違うリボンで」ラプンツェルは腰まである自分の髪の毛を一房手に取り、指ですいた。少しでも長く母に触れて貰いたくて。

 ありったけのリボンと、色紙を切り抜いて作った花で長い髪を飾り、昼にはキノコのパスタを作って食べて、将棋を何局か指した後、お互いに絵本を朗読し合い、切り絵を作って壁を飾り、夕食の下拵えをした。ラプンツェルが一番好きな煮込みハンバーグ。今日はラプンツェルが肉を捏ねてフライパンで焼くところまでをやり、母がソースを作って仕上げをした。
「もうひとりでも出来るね」
 部屋の小さなテーブルで、二人で食事をとりながら、良い魔女は微笑んで、でも寂しそうに、小さな声で言った。ラプンツェルは思わず彼女の手を取り、握りしめた。
「どこにも行かないよね?」
「行くところなんてないよ、かわいい子」
 良い魔女は笑い、空いている方の手を伸ばしてラプンツェルの頭を優しく撫でた。


<火曜日>
 ラプンツェルが目覚めると、部屋に母の姿は無く、隣の台所にもいなかった。こんなことは初めてだ。テーブルの上に手紙が置いてあった。

『お昼すぎには迎えが来ます。何も怖くないから心配しないでね』

 迎え?なにが迎えに来るというのだろう。昨日、母の様子がおかしかったのはこのせいか……母は帰ってくるんだろうか。もちろん帰って来るに決まってる。今まで帰ってこなかったことなんか無いんだから。ラプンツェルは気を鎮めようと何度も深呼吸を繰り返し、一人で台所に立って朝食を作った。それを食べ、食器の片付けまで終えると、今度は雑巾で部屋の掃除をした。
 台所には窓はなく、部屋の窓はたったひとつ。縦横二本の格子がはまった窓には、九枚の色ガラスが使われていた。滲んだような色合いは、桃色、薄荷を濃くしたような緑色、黄色、菫色、目玉焼きの白身のような乳色。小さな気泡がたくさん入っていて、日がさすと部屋をさまざまな色合いで照らした。白と薄い生成り色と優しい茶色、うす緑と桃色で部屋は柔らかく彩られている。ラプンツェルはガラスを拭きながら外を眺めた。厚いガラスは光を通すが、外の様子はほとんど見えない。

 昼が近づくにつれ、ラプンツェルは落ち着かなくなった。お昼ご飯の支度をしなければ。でも、到底そんな気にはなれない。
 突然、部屋の隣の台所のドアが開く音がして、そこから入って来たのは背の高い男と、自分と同じくらいの背丈の若い男の二人づれだった。ラプンツェルは驚きすぎて彫像のように固まった。母以外の人間を見るのは初めてだったのだ。相手も同じくらい驚いているように見えた。背の高い方の男は「叶恵(かなえ)!」と叫びながら部屋に入って来ると、ラプンツェルを抱きしめたので、子供は悲鳴を上げた。若い方の男が「父さん、この子、びっくりしてる。何も知らないんだ。ちょっとお互い落ち着こう」と声をかけ、背の高い男は苦しそうな表情で、相手の身体を離した。そして
「叶恵、私はお前のお父さんだよ。覚えてないか、まだ赤ん坊だった。あの女……許さない」と、吐き捨てるように言った。乱暴な物言いに、ラプンツェルはますます縮こまった。
 若い男はもう一人の男を連れて台所まで行き、二人はこちらの方を見ながら何か話をした。その後、背の高い方は名残惜しげに台所のドアを出て行き、若い方はラプンツェルに向き直るとまた部屋に入ってきた。

 ラプンツェルは混乱の極みにいた。何が起こっているんだろう。良い魔女によればこの世界には自分と彼女しかいなくて、ここは高い塔の上で、外に出たら落ちて死ぬのだと。私を産んだ父と母は既に亡くなっていて、自分が母代わりにラプンツェルを守っていると言っていた。でも二人はドアから入って来た。箒に乗って飛んできたのかな。最後の生き残りの魔法使いかもしれない。でもお父さんって、何のこと?
 男の子は目の前まで来ると微笑んだ。
「こんにちは。僕の名前は叶多(かなた)です。君さ、名前呼ばれて驚いていたよね。ここではなんて呼ばれてたの?」
「ラプンツェル」
「ら……なんだっけ。童話の主人公?」
「ねえお母さんはどこ?」
「あの人はね、君のお母さんじゃないよ」
「知ってる」
「へえ。じゃあなんでお母さんなんて呼んでる?」
「良い魔女は、お母さんの代わりに、私を守ってくれるから……」
 男の子はラプンツェルの長い髪の毛と、所々に絡まった赤やピンクのリボンの切れ端、ふわりとした若草色のワンピース姿をまじまじと観察して
「……色々と説明する必要があるみたいだ。まずは、座っていい?」
と言った。

 二人はテーブルを囲んで腰を下ろした。ラプンツェルは彼を見つめて
「あなたは王子さま?」
 と訊いた。男の子は吹き出した。
「惜しい。僕はおうじさまじゃなくて、お兄さま、だよ」
「おにいさま?」
「僕と君はね、双子なんだよ。つまり歳が同じで、同じ父と母から生まれたってこと……さっきまで居た男の人が父。母もちゃんと生きてる」
 ラプンツェルはまた混乱してきた。父と母は生きていた?……良い魔女は嘘をついていたのか?

 男の子は話した。
 ラプンツェルの本当の名前は西野叶恵(にしのかなえ)。赤ん坊の頃に、良い魔女と名乗っていた女に拐われた。叶多の両親は手を尽くして探したが、二人は長らく行方不明だった。十三年が経って、犯人の女から連絡があった。女と子供は国内の、とある島で暮らしていたらしい。彼女は病にかかり、長く生きられないと悟って連絡してきたのだった。驚いた父と息子は、確かめるためにここに来て、子供を見つけた。
「今頃、父さんは母さんに連絡しているだろうね。母さんも多分、ここに来るだろうな……けど僕が今、心配してるのは別のことだ。今度は君の話を聞かせてくれるかな。君が現状をどう認識しているのか、知っておきたい」
「ゲンジョーヲニンシキ?」
「良い魔女は、この世界の事をどう言ってた?」
 ラプンツェルの説明を聞いて、叶多は頭を抱えた。
「悪いけど、魔女の説明は全部嘘だから。ここは塔の上なんかじゃない。僕と父が入って来たドア、あそこから出ていける。僕らは泊まってる旅館から車でここまで来たし、外の世界には、僕達の他に沢山の人が生きてる」
 ラプンツェルは絶句し、驚きすぎたせいか頭痛がしてきた。どちらの言うことが本当なの?彼か、それとも良い魔女か?
「ここを出てみれば分かるよ。僕の言うことが本当かどうか……いや待てよ、外に出たことがないって? なら靴も無いのか。じゃあさ、僕がおんぶするよ。行こうか」
 立ち上がった彼を見て、ラプンツェルは目を見開き、首を振った。
「いや! ここでお母さんを待つ。帰ってくるもの、絶対に。私が居なくなってたら、きっと悲しむから」
「魔女の行方は、これから警察が探すことになると思うよ。まずはさ、外に出よう」
「絶対にいや!!」
 ぎゅっと目を閉じて座り込んだラプンツェルを見て、彼はため息をついた。
「……わかった。落ち着く時間がいるよな……僕と父は、いったん戻るよ。で、僕だけまた来るね。君を一人でここに置き去りにできないし」
「もう来ないで」
「そうはいかない」
 彼はそのまま部屋を出て台所に行くと、しばらくそこで何やらゴソゴソと動き回り、ドアから出ていった。聞き慣れない物音がして、あたりは再び静まり返った。

 ラプンツェルは考えようとしたが、頭痛が酷くなるばかりだ。良い魔女は嘘をついていたらしい。両親と、お兄さまは生きていて、子供の帰りを待っている……。良い魔女。どこに行ってしまったの。もう会えないの?そう考えると胸が引き裂かれるように痛み、その場に蹲るしかなくなるのだった。戻ってきて。いつものように優しく私に触れてこう言って欲しい。悪い夢を見たんだね、王子さまはいつか来るだろうけど、それは今日じゃないよ。

 いつの間にかうたた寝をしていたらしく、ドアをノックする音で目が覚めた。ラプンツェルは勢いよく起き上がり、ドアに駆け寄った。取手に触れる前にガチャリと音がして、叶多が入って来た。ナップザックを背負い、手には白いビニールの手さげ袋に入った大きな荷物を持っている。ラプンツェルはその様子を見て呆然と呟いた。
「来ないでって言ったのに」
「放っとくわけにはいかないよ」
 叶多は台所にナップザックを下ろし、ビニール袋から野菜や肉などの食材を取り出して冷蔵庫に入れ始めた。
「僕はしばらく、ここで過ごすことにした。僕らはもっと話す必要があると思う。だって十年以上も離れてたんだから」
 それが済むとナップザックを抱えて部屋に入り、着替えと寝袋を取り出して床に放り出した。他にも、何やら色んなモノをテーブルの上に置く。
 ラプンツェルはのろのろと部屋に歩み入り、ストンと腰を下ろすと「良い魔女はもう帰ってこないの……?」と消え入りそうな声で呟き、静かに泣き出した。叶多は側に座り、泣いている双子の片われに手を伸ばしたが、触れることなく引っ込めた。そして無言のままじっと見つめた。


<水曜日>
 ラプンツェルが台所に立って、流しで野菜を洗っていると、叶多が起きてきて、欠伸混じりに「おはよう。何作ってんの」と言った。ラプンツェルは作業しながら
「起きたなら手伝って。目玉焼きを作って」
と、二人分の皿に野菜を盛りつけながら答えた。
 着替えてコンロの前に立った叶多は目玉焼きを作ろうとして卵の殻を握り潰し、ベーコンを焦がした。慌てふためく彼の姿を見てラプンツェルは小さく笑い、叶多は「料理なんてしたことないし」と顔をしかめた。見た目も味も悪いベーコンエッグを二人はどうにか食べ終え、叶多が持ち込んだ粉をお湯に溶かして飲んだ。恐々口をつけたラプンツェルは目を見張った。
「スープみたいな味がする」
「インスタントスープ飲んだことないの?」
「インスタントスープって?」
 叶多は「そこからか」と手を額に当てた。

 叶多は昨日持ち込んだ物を、ひとつひとつラプンツェルに説明した。新品のシンプルな運動靴、動物と植物の図鑑、本数冊、お菓子。
「取り敢えず、島で手に入るモノ持って来た。本当はタブレット端末使えたら良いんだけどね」
 叶多は話して聞かせた。世界のこと。日本のこと。そして図鑑を開き、動物や植物のことも、ページを捲るごとに詳しく説明していった。ラプンツェルは驚き、食い入るようにそれらを眺め、次々と質問を叶多に浴びせた。叶多は答えに詰まると手のひらサイズの板を取り出してそれを眺めた。
「だめだ、繋がらない……ネットが繋がらない環境って僕も初めて。なんか、途方に暮れるね」
「ねっとが繋がらない?」
 叶多は、これはスマートフォンと言って、電話できるパソコンの端末と説明したが、ラプンツェルには理解不能だった。そもそもこの部屋には電話もない。
「魔女が電話を使ってないわけないんだ。台所に宅配の領収書があったよ。食材を注文してた証拠だ。ゴミだって出していたはずだし。多分、君が眠っている間にそういう作業をしていたんじゃないかな」
 叶多はさらに、ここで食べているものが何なのか、食べ物はどうやって作られ、ここに配達されているかを話した。
「魔女は食べ物のことをなんて説明していたの」
「魔法だって言ってた」
「魔法なんて無いよ。僕は見たことない」
「……生き物を殺して食べてたなんて思いたくない。魔法の方が良かった」
「肉だけじゃないよ、野菜だって生きてるよ。殆どの生き物は、生き物を食べないと生きられない。そして死ぬと、小さな生き物の餌になって食べられる。そうやって循環してるんだ」
 ラプンツェルは両手で耳を塞ぎ、俯いた。先は長いと叶多は思う。彼は周りを見回した。テレビもラジオも、新聞も雑誌もない。世界の姿を見せずに、二人きりで十三年も。魔女なりに愛情を注いでいたんだろう。でも間違っていたんだ。ここを出れば、長年行方不明だった子供の生還を世間は放っておかないだろう。叶恵は沢山のものと出会い、闘っていくことになる。
 本当に外に出すことが良いことだろうか。一瞬、そんな言葉が彼の頭に浮かび、そうに決まってる、と彼は自身で言葉を打ち消した。

 昼食後、叶多はラプンツェルが器用に紙を切り抜いて切り絵を作るのを感心しながら眺めた。そういえば魔女はデザイナーだったらしい。出版社が抱える商業デザイナーのひとり。人付き合いは苦手そうだけど、読者からの支持も根強い人気デザイナーだったと。
 資産家の親族から多額の遺産を受け継いで会社を辞め、それを現金化し、叶恵を拐って行方をくらませた。父との間で何やら男女関係がゴタゴタしていたらしい。叶多は詳しく聞いていないし聞きたくもなかった。親のプライベートな揉め事の話なんて気が滅入るだけだ。叶多が本を読みながらゴロゴロしているのを見てラプンツェルは尋ねた。
「どうしてお兄さまは、ずっとここに居るの?」
「僕の学習は同世代の子より先行してるんだ。飛び級してるから。学校には事情を説明してあるし、自分で対応できる範囲でやってるから心配ない……それよりさ、外に出ても大丈夫って分かったでしょ? 靴もあるし、ちょっと一緒に散歩に出てみない?」
「行かない」
「どうして?」
「必要ないから」
 それを聞いて叶多は身を起こした。
「あのさ、君がここで暮らしてるだけでお金がかかってるんだよ? 食費、光熱費、家賃。ここは魔女の持ち家じゃない。毎月の家賃も色んな出費も全部、彼女がお金を払っていたんだ。でも、もういない。どうしたっていずれ僕らと一緒にここを出ていかないといけないんだ」
 ラプンツェルは蒼白になった。叶多は、尚も話を続けた。
「君のことはさ、僕ら家族だけで決められない。誘拐事件だもの。多分これから先、沢山の行政の人間が関わって進めていくことになるんだろうけど、まずは僕たちの家に帰って、それから……」
「私はどこにも行かない」
「いや、だから」
「行かないってば!」
 二人は黙り込んだ。沈黙の中、切り絵を再開する姿に、叶多は気が重くなる。両親よりはまだ、自分の方が冷静に対処できるだろうとここに来たが、見通しが甘過ぎたかもしれない。叶多は立ち上がり、部屋を出て台所に入った。電話があるはずなんだ、どこかに。探さないと。

<木曜日>
 昨日、叶多は埃まみれになりながら置いてある家具をどけ、物入れや引き出しを開けて、電話を探した。そして今日になってようやく、作り付けの戸棚の一番上の開戸の中に固定電話を発見した。電話は箱に入っていて、外から一見しただけでは電話と分からないよう偽装されている。電話のケーブルは冷蔵庫の裏に大部分が隠されて、目立たない。
 彼は脚立に登った状態で箱をできるだけ手前に引き出し、蓋を開けて父の携帯の番号をプッシュした。すぐに父が出た。叶多からの連絡をジリジリしながら待っていたようだった。叶多は、ラプンツェルが家を出たがらないこと、魔女の行方を知りたがっていることを話した。良い魔女の行方は警察が捜索中だという。
「警察はすぐにでも叶恵を保護して、事情聴取をした後、カウンセリングを受けさせるべきだと言っている。もちろんそのつもりだが、叶恵の意思を無視して無理矢理あそこから連れ出すことは、なるべくしたくない。説得するのに時間が欲しいと言ってある。土曜日の朝に、お母さんと一緒に担当の警察官が島に来ると言ってたよ」
「明日中に説得できなければタイムオーバーってわけ。分かった……できるだけやってみる」
「叶多、無理はするな。今から叶恵と話してみることはできるかな」
「電話のことを今まで知らなかったみたいだから、すぐは難しいかも。明日の午前中に連絡するよ。スマホが圏外だから、この固定電話の番号を登録しておいて」
 叶多は電話を切るとラプンツェルを台所に呼んで、電話機を見せた。ラプンツェルは目を見開いたが何も言わず、手を触れようともしなかった。
「お昼はホットケーキにするね」そう言うと、冷蔵庫から小麦粉とベーキングパウダー、卵と牛乳を取り出して、計量を始めた。そして叶多に向かって「手伝って」と言った。

 昼食後、叶多は外に散歩に出た。十月の中旬で気温は快適だった。叶多は振り返ると、自分が出てきた家を眺めた。こじんまりした一軒家で、周りには広い原っぱと畑が延々と続いている。遠くに古風な瓦屋根の大きな家がポツポツと見えるが、近くに人家は無い。ここに子供だけで住むのは、不用心といえば不用心かもしれない。
 空は雲で覆われている。あまり遮るものもない風景は、所々に茂っている樹木と広がる畑、ビニールハウスの連なり。遠くになだらかな山並みが見え、白い空がどこまでも続いている。
 少し歩くと、空と地面のシンプルな景色の中に、紺色の海が入って来た。叶多は道の端に近づくと、慎重に下を覗き込んだ。傾斜の急な崖には草が生い茂り、遥か下に波が打ち寄せているのが見える。かなりの高さに思わず首をすくめた。ここから小一時間ほど歩くと港の近くだ。
 叶多はのんびりと歩いた。少しずつ建物が増えてゆく。軽トラックや歩いている人の姿もチラホラ見えてきた。

 港の近くまで行くと手元のスマホにネットニュースが表示された。叶多は心からホッとして、大きく息をついた。スマホを手にしてからというもの、こんなに長時間、その画面を見なかったのは初めてだろう。ネットが繋がらない環境で十何年も過ごすなんて、想像もできない。早速、天気予報を確認すると、今日の夕方から雨で、明日も丸一日、雨らしい。台風が近づいているらしかった。
 叶多はスーパーでまた食材を買い込むと、来た道を戻り始めた。頭上を海鳥が飛び過ぎてゆく。
 長閑なこの島で、まさか誘拐犯が子供と暮らしてるなんて、誰も思いもしなかっただろう。母ではなく魔女を名乗ったという事は、いずれ叶恵を僕らに返すつもりだったのかもしれない。自分で産んでいない子供を、誰にも会わずひとりぼっちで育てるって、どういう心境なんだろう……。
 叶多は、魔女が叶恵を拐った場面に想いを馳せた。彼が聞いたところでは、母親が家事で目を離した隙に、自宅に侵入して子供を片方連れ去ったらしい。拐う方は恐らく、どちらでも良かったんだろう。双子の赤ん坊なんて、どちらも同じように見えるだろうし。だとすれば、拐われた方が自分だった可能性もあるな。あの家を塔の中だと思い込み、世界で二人きりだと信じて……絶対にありえない。叶多は頭を振った。
 魔女は間違っているし、僕らが正しい。ラプンツェルも、外に出さえすれば、直ぐにそれが分かるはず。

 家に入ると叶多は、四方の壁が急に縮んで、囲い込まれるような錯覚を起こした。あ、これもしかして閉所恐怖症ってやつ?なんだか息が詰まる。家の中は、家具も敷物もカーテンも、茶色や薄いピンクやベージュ、モスグリーンの柔らかく眠くなるような色合いで、暖かく優しくてまるで……

────巣の中。
眠れ、ここで眠れ。外は地獄。見ようとしないで。考えないで────

 自分の両目を塞ごうとする白い手が見えた気がして、叶多はゾッと寒気を感じた。
 ラプンツェルは手に編み物を持って、部屋から彼を見ている。全くの無表情。目が合うと、すぐに視線を逸らして、赤い毛糸で編まれた何かに目を落とした。
 降って沸いたような苛立ちを叶多は感じ、それは急速に腹の底で怒りになって膨らんでゆく。食材を冷蔵庫に納めながら叶多は思った。わざわざ地の果てまで迎えに来てやったのに、当の本人は被害者の自覚が無いどころか、加害者を恋しがっている始末。ひとの気も知らないで。こんな頑固者、無理やり引きずり出してしまえばいい。何で一緒に暮らした事も無いきょうだいのために、僕がここまでしなきゃならない?
「こんな所、もう嫌だ」
 心で呟いたつもりだったけれど、声に出ていた。


<金曜日>
 部屋の窓から外は見えないものの、吹き付ける風と雨音、差し込む光の弱さで、強く雨が降っていると分かる。普段から、一つしか窓のない部屋はどことなく薄暗いけれども、雨の日はさらに陰気な雰囲気を倍増させ、気が滅入る。
 食事と家事以外は特にやる事もなく、行くべき場所もない。テレビも雑誌もwebも、情報のインプットが全くない。ここに居ると時間の感覚が麻痺して脳がどんどん退化していくような気がする、と叶多は思った。

 朝食を終えた後、叶多は父親に電話をした。そして受話器を外したまま台所を出て部屋に入り、ラプンツェルの手を引っ張って、電話機の側まで来た。
「これが電話。遠くの人と話せる機械だよ。さあ、お父さんと話をしてみて。聞いてるだけでも良いから」
 叶多は受話器をラプンツェルの耳元に当てた。ラプンツェルは青ざめた顔で、受話器の声を聞いた。
「叶恵? そこに居るのか? ……ちゃんとご飯を食べているかな。叶多はしっかりしているけど、料理はした事がないから、お前が教えているのかな」
「…………」
「叶恵、叶多から聞いたと思うけど、そこを出なくちゃならない。お前は戻らないといけないんだ。元々居たはずの場所に。お前には教育を受ける権利がある。それなのに、大事な機会をずっと奪われていたんだ。可哀想になあ」
「可哀想? 可哀想って言ったの?」
 ラプンツェルが出し抜けに言葉を発したので、叶多は驚いた。ラプンツェルは受話器を掴むと強い調子で言葉を続けた。
「私は可哀想なんかじゃない。お母さんはいつも優しくて、私達は幸せに暮らしてた。あの優しい人が私を攫ったなら、きっと訳があるんでしょう? あなたがあの人を苦しめたから? そうなんでしょ?」
「叶恵……」
「そんな名前で呼ばないで。私はラプンツェル。いつか王子さまが来ても……私は行かない。良い魔女と暮らすの。ずうっと」
 ラプンツェルの目から涙が溢れた。
「放っておいてくれたらよかったのに。良い魔女に会いたい。あの人が迎えに来てくれたら、一緒にここを出ていく。あなたたちの所には行かないから!」
 叶多は受話器を引ったくると、乱暴に電話機に戻した。ラプンツェルを睨みつける。
「なんてこと言うんだよ。両親は君の事を、十三年の間ずっと諦めずに探し続けていたんだよ。どれだけ逢いたがっていたか僕は知ってる。いや思い知らされてた、という方が正しい。誕生日が来るたびに親は君の話ばかり。周りの人間にとっても僕は、残った方の双子、だった。叶多個人じゃなくて」
 ラプンツェルの涙で濡れた顔は引きつった。叶多の心は自分の暴走を必死に引き止めようとしていたが、もう一人の怒り狂った自分が、相手に怒りをぶつけろ、と喚き散らしている。
「親には目の前の僕より、姿の見えない君の方が気がかりだったんだ、いつでも。どんなに良い成績を取ろうが、何をしようが、それは変わらなかった。なのに君はここでも魔女に大事にされて、世界一可愛がられていたんだろ? 何だよ、何なんだよそれ、不公平だ。なんで君ばっかり、いつも……」
 叶多は声を詰まらせ、拳で涙をゴシゴシと拭った。ラプンツェルは部屋に逃げ込み、ベッドに潜り込んだ。

 時間が経つと頭が冷えてきて、叶多は途方に暮れた。普段から気持ちを抑えるのが習い性になっていて、こんな風に激情に駆られて誰かに怒鳴ったり、喧嘩をしたことが無かった。穴があったら入りたい、ってこういう気持ちか……困った。掛け布団を被ったままのラプンツェルに、どう声をかければいいのか分からない。
 手持ち無沙汰なので、何となく部屋の隅にある本棚の本を、端から一冊づつ引き抜いて調べた。縦に細長い本棚で、収まっている本の数は少ない。その中に黒い布張りの本があった。背表紙には銀色の文字でLibertéとある。手に取って捲ろうとすると、ページがひとりでに開いた。無地の白い封筒が挟まっている。
 封筒を取り出してひっくり返すと、小さな手書き文字で“ラプンツェルへ“とあった。叶多の心臓がどきんと跳ねた。



 叶多は、分厚い便箋の束に目を据えた。ラプンツェルは彼の姿をじっと見つめている。彼は息を吸い込み、朗読を始めた。
「私のかわいい子へ。何を書いても、どう書いても、言い訳になってしまう……」

「……でも、起こったことの一部でも、書いておかなければ。そう考えて、ここに書き残してゆきます。
私があなたのお父さんと出会ったのは高校生の時で、恋人同士になりました。高校を卒業して大学に進学してからも、付き合いは続いていました。けれど大学二年になった時、私の子宮にタチの悪い病気があることが分かって、このままだと命に関わるということで、それを取る手術をすることになりました。私はそのショックで、精神が不安定になってしまいました。

私は両親を早くに亡くして、裕福な叔父夫婦の家に身を寄せ、大学に通っていましたが、女の子をいつか産みたいと強く思っていたのです。彼は懸命に支えようとしてくれましたが、治療のしんどさも重なって、辛く当たることが増えました。まだお互い若すぎて、現実の重さに耐えられなかった。二人は別れることになりました。そのまま私は大学を中退して、ある会社でアルバイトを始めました。
数年の時が流れ、アルバイトをしていた会社で、運良くデザイナーとして社員に取り立てて貰えることになりました。そうしていくつかの会社から注文を受けて仕事をしていた時、とある会社にお父さんが居て、偶然にも再会しました。

彼に会った途端、まだ気持ちが残っていることに気がつきました。でも、お父さんにはもう、結婚する予定の女の人が居ました。あなたのお母さんです。
私は二人の邪魔をする気はありませんでした。悲しいけど、私とお父さんとの縁はとっくに切れているのです。ほどなくお父さんはその女性と結婚しました。そのまま何事もなければ、私は今度こそ、彼を完全に過去にして、次の恋へ進めたかもしれません。

でも、そうはなりませんでした。病気が再発したかもしれない、と思える出来事があったのです。検査をして、その時は大丈夫でしたが、いつまた再発するかもしれない、とお医者さんに言われたのです。
残りの時間は思ったよりも短いかもしれない。そう思うと急に、どうして自分ばかりこんな目に遭うのか、と悔しくてしょうがなくなりました。病気のせいで、子供も産めなくなり、好きな人とも別れることになってしまった。私だけがこのまま、人生で欲しいものを何も得ることなく死ぬなんて耐えられない。私の心は、また不安定になっていきました。

そんな時に、あなたのお父さんとお母さんが双子の子供を授かった、と聞いて、嫉妬と絶望で目の前が真っ暗になりました。どうして私だけが不幸なの。私が何をしたっていうの。そういう暗い考えの迷路から抜け出せなくなってしまった。
悪いことは悪い時に重なります。私が以前、お世話になっていた叔父夫婦が事故で亡くなった時、私に遺産を遺してくれていたのです。贅沢をしなければ、かなり長い期間、働かなくても暮らして行ける金額のお金が、手に入ったのです。
私は背中を押された気がしました。抱いていた妄想が急に現実味を帯びてきました。双子のうちのひとりを、私が貰って育てるのはどうだろう。片方は残るんだし、彼らはまたその気になれば子供を産めるし、ひとりくらい私に譲って貰ってもいいじゃないか。

自分に都合が良いようにしか考えられなくなっていました。私は会社を辞めて、あなたのお父さんとお母さんの家の近くにアパートを借りて、彼らの一日のルーティンを観察しました。そして、お父さんが出勤した後、お母さんがゴミを出しに行き、その時に近所の人達とおしゃべりをすることがある、と気が付きました。ゴミを出すだけですぐに戻るから。そういう気持ちで鍵をかけ忘れているかもしれない。一度、確認したところ、鍵はかかっていなかった。私の勘は当たりました。私はあなたを拐ってから、どういうルートで逃げるか計画を立て始めました。

細かいところまで考え抜いて進めた計画はうまくいき、私は双子のうちの一人を拐うことに成功しました。長くなるので細かいところは省きます。拐ってから三日後には、この島に渡る港近くのアパートに潜伏し、密かに子育てできる物件を探すことにしました。外出しなくてもお金があれば暮らして行ける環境がある場所。とりあえず警察の目をくらますために、何年か息を潜めることだけを考えていました。

あなたは本当に可愛かった。乳児の世話は大変でしたが、あなたが笑ってくれるだけで、もう何も要らないと思えた。ずっと夢見ていたことが叶った。島にちょうどいい貸屋を見つけて移り住み、幸せ過ぎて他のことが何も見えなくなった。
でも、二年経ち、三年経って、将来のことが気になり始めました。島に小学校はありません。それに、あなたの就学の為に、自治体に手続きに行くことは、危険が大きすぎると思いました。
でもいつか、あなたを家の中だけに留めておくことは不可能になる日が来るでしょう。いずれ返さなくてはいけない時が来る。でもあと半年、あともう少しだけ。そうやって過ごしているうちに、何年も時間が経ってしまったのです。

あなたをラプンツェルと呼び、塔の上と偽った家で暮らしていた時、私は病気の検査のために時々、外出していました。そういう時は、あなたに睡眠導入剤を飲ませて、眠っていて貰いました。
ある時の検査で、また病気が再発した可能性がある、と医師から告げられて、私はようやく我に帰った気分になりました。やっぱり運命からは逃れられないのか。でもあなたと離れたくない。一体どうすれば良いんだろう。そんな時に、島の食堂で見たテレビの映像に衝撃を受けました。

テレビには、子供が山で行方不明になった母親が映っていました。母親はやつれて悲しそうで、行方が分からなくなった女の子の兄、という男の子と一緒でした。男の子は顔にボカシが入って表情は見えなかったけど寂しそうに「自分が居なくなった方が良かった」と言っていた。
私の中の底の部分に、気付かないままずうっと根を張っていた、怒りと憎しみの硬い枷がふいに緩んだ気がしました。私はようやく気がつきました。自分の人生が理不尽に損なわれたと思っていた、その何十倍もの深さで、あなたのお父さんとお母さんの人生を損なっていたのだと。そうしてあなたと、あなたの兄弟の人生もまた、損ない続けているのだと。
私はなんてことをしでかしたのか。謝っても謝りきれない。あなた方が喪った時間はもう二度と取り返せない。絶対に許されないことをした。せめてあなたを、元の家族に返してあげなければ、今度こそ。

これが、私とあなたと、あなたの本当の家族に起こったことです。
私の罪は大きすぎて、償いきれない。でも、私は自分の身勝手さの責任を取らなければならない。
私の望みはあなたが幸せでいること。
どうか幸せになってほしい。 

                魔女より」


 ラプンツェルと叶多は、テーブルの周りに座って、数分間、無言のままじっとしていた。叶多はきょうだいの表情を観察した。この告白を聞いて、ラプンツェルはどう感じたんだろう?魔女は今、どうしているんだろう。
「……良い魔女、可哀想」
 ラプンツェルはぽつりと呟いた。叶多は低い声で「“良い”魔女? 良くはないよ、すごく自分勝手だ。周りなんかお構いなしに、自分の気持ちだけで行動したんじゃない」と答えた。ラプンツェルは緩くかぶりを振った。
「だって、こうしなきゃ望みが叶わなかったんでしょ?……私にはすごく優しいお母さんだった。会いたい気持ちは変わらない」
「僕らの本物のお母さんなら、明日の朝イチの船でこの島に来るらしいよ」
 ラプンツェルは俯いたまま、目だけを叶多に向けた。表情が険しくなる。
「私をここから連れ出すつもりなんだ」
 叶多はしまった、と思ったが、どうせすぐに分かることだと思い直した。
「これで分かっただろ。魔女はもう戻って来ない。僕の家が、君の本当の家なんだって」
 ラプンツェルは眉間に皺を寄せ、ますます表情を険しくした。叶多は言い募った。
「君はここを出て新しい世界に行くんだ。それから新しい体験を沢山して、友達も大勢作るんだ。ここでずっと一人きりなんて良くないに決まってる」
「どうして?」
「えっ?」
 突然の問いに、叶多は双子の片われを見つめた。ラプンツェルは叶多の目を真っ直ぐに見た。
「どうしてひとりで居て、どこにも行かない事が良くないの?」
「それは、だって」叶多は言葉に詰まった。「ひとりだと寂しいから、とか」
「私は寂しくない」
「色んなことを知った方が良いから」
「なぜ。何も知らないで居ることは、どうしてダメなの?」
「えっ……と」
 スマホが欲しい、と叶多は強く思った。なんでも指先ひとつで答えを示してくれる機械が。彼らの間に沈黙が立ち込め、窓の外のびゅうびゅうという音が際立つ。ラプンツェルは立ち上がり、叶多を見下ろした。
「あなたの言ってること、私には全然納得できない。両親が私に逢いたいなら、二人でここに来ればいいじゃない。住み続けるにはお金が必要? 魔女のお金がまだ残っているなら、無くなるまでここに居ていいんじゃないの? 警察のひとと話すことが必要なら、警察がここに来ればいい。私はどこにも逃げない」
「…………」
 叶多はラプンツェルの、思わぬ反論に言葉を失った。外に出て実際に体験すること、色んな物事を知ること、友達を作ること。その方が良いとされているのはどうしてか?単純に楽しいから。進学して就職するのに必要だから。人生を闘っていくために……でも本人が、ここに居るだけで充分満たされている、他に何も要らないと心から感じていたら?叶多は手探りするように、話し始めた。
「君が本当に……ここに居たいなら。僕たち家族は出来るだけ、その気持ちを尊重したい。けど……僕らが、君に、見てほしいんだ。外には……綺麗なもの、見たことないものが沢山あるから。僕らが君と一緒に行って、同じものを見て、触れて、綺麗だね、すごいねって笑い合いたいんだ」
「つまり、あなた達がそうしたいから。そういうこと? さっき、お兄さまは魔女のことを自分勝手だって言ったけど、あなた達も自分の都合の良いように私を動かしたいんじゃない。それは自分勝手じゃないの? 魔女とどう違うの?」
「一緒にするなよ。魔女は自分のためだけに君を拐った。僕らは違う。君のためにここまで来てあげたのに……」叶多は唇を噛んだ。そう、拐われた子供が一緒に来ることを嫌がるなんて予想外だった。僕達は助けに来たつもりだったんだから。でも放っておいてくれと言われて、今、どうすれば良いのか分からず途方に暮れているのはこちらの方だ。何が間違っていたんだろう?
 急激に身体から力が抜けてゆく。叶多はため息をついた。駄目だ、僕にはもう分からない。
「いや、うん……たしかに君の言う通りかも」叶多はラプンツェルを見上げた。
「これからどうするにしてもさ、明日うちの両親と会って、話をしてくれないかな。僕のお母さんも、この十数年ずっと、君に逢いたいと願い続けていたんだから。みんなで相談しよう、これからのこと。魔女のことも」
 ラプンツェルはおし黙り、再び床に座って、クッションを抱えたままごろんと横になった。濃い桃色のワンピースと、長い髪の毛がふわりと床に広がる。叶多はラプンツェルの絵本を手に取った。パラパラとページを捲る。

“『ラプンツェル、お前の長い髪を垂らしておくれ』塔の下から王子さまが呼びかけると、ラプンツェルは長い髪の毛を窓から垂らしました”

……僕は呼びかけ方を間違えたのかな?叶多は心の中で絵本の王子に問いかけた。ねえ王子さま、塔の上のラプンツェルは、僕の呼びかけを拒否しました。何が悪かったんでしょうか。出てきてもらう為に、僕はどうすれば良かったんでしょうか。

 夕飯はラプンツェルに教わりながら、煮込みハンバーグを作った。叶多は肉種を捏ねて、ハンバーグを焼いた。ハンバーグの形は不恰好になったけど、ラプンツェルの作るソースの味は、叶多の母が作る味に似ていて、美味しかった。
 明日は母と一緒に警察も来るという。すでに風の音だけで、雨は止んでいるようだった。朝にはそれも止みそうだ。電話を突然、打ち切る形になった父のことも気がかりだったが、とにかく説得は失敗したということで、叶多はもう考えるのを止めにした。ここからは大人に任せよう。
 スウェットの上下に着替えて、寝袋に潜り込んだ。明日の夜は久しぶりに布団で眠れる。
「おやすみ」「おやすみなさい」
 二人は言葉を交わして室内灯を消した。外の風の音が部屋の中で小さく反響して、精霊の悲しげな叫び声のように聞こえる……。


 叶多は自分の服装を見下ろした。学芸会の劇で見るような、手作り感に溢れた王子の衣装を着ている。そして目の前に聳え立つ塔を下から眺めた。八角形の白亜の塔で、丸い屋根は数年前に見た観音崎灯台そっくりだ。違うのは、灯火部分と参観用のバルコニーが無いことで、つるりとした白い壁には、長方形の小さい窓がひとつ空いているだけの素っ気なさだ。
 窓と地面を繋ぐように長い梯子がかかっている。彼は梯子を揺さぶってみた。塔の壁と接合しているのか、びくともしない。これなら大丈夫そうだと、梯子を登り始めた。窓が近づく。ようやく覗き込める高さまで登ると、注意深く中を覗き込んだ。

 塔の中には、黒いローブを纏い、頭から深くフードを被った、いかにも魔女といった感じの女性が立っていた。フードからのぞく顔に、どうしてもピントが合わない。ブレてぼやける顔の女性に叶多は呼びかけた。
「叶恵は、僕の片われはどこだ」
 魔女は窓に近づいてくる。叶多は緊張し、しっかりと梯子を握りしめた。窓のすぐ側まで来ても、彼女の顔はよく見えない。
「ごめんなさい」
 顔にあたる部分から声がした。想像より若い印象の声。声は言葉を続けた。
「あの子はここにはもう居ないの。自分で出て行った」
「嘘だ」
「疑うなら見てごらん、ほら」
 魔女は身体を横に向けて薄暗い室内を示した。八角形の部屋の真ん中に天蓋付きのベッドがあり、奥には九枚の色ガラスの嵌った格子窓が小さく見える。ベッドは空っぽで、確かに誰も居ないようだ。また魔女の声がした。
「急いで見つけて。あの子は陽の光を浴びると泡になって消えてしまうから」
「え、何その設定」
 魔女は突然、梯子に両手をかけると勢いよく突き放した。梯子はあっさりと壁から離れ、叶多は梯子に取りすがったまま、大きく弧を描くように空中を泳いだ。みるみるうちに塔の窓が離れてゆく。叶多は叫んだ。
「落ちるっ」


 はっとして目が覚めた。室内は暗い。叶多は枕元のスマホを手に取って、時刻を調べた。AM4:30。スマホを室内にかざした。液晶画面の光が部屋をぼんやり照らす。叶多は目を凝らした。上体を起こすと寝袋から出て、ラプンツェルのベッドに近づく。そこは空だった。
「どこいった?」
 思わず独り言が漏れる。暗い室内を手探りでゆっくり横切り、室内灯のスイッチを探り当てた。眩しい光が溢れ、叶多は目をしばたたかせる。部屋にラプンツェルの姿が無い。隣の台所に行き、そこにも電気をつけた。トイレのドアも開けてみる。
 ────どこにも居ない。

 少しの間、叶多はパニックに陥った。居ない?居ないって、どういうこと?外に出た?あんなに出るのを嫌がっていたのに?
 叶多は玄関に駆け寄った。新しい靴と叶多の靴はそのままだ。まさか裸足のまま出て行ったのか。ちょっとまて落ち着こう。叶多は何度か深呼吸した。
「叶恵!……ラプンツェル!おーい、居たら返事をして」
 実は隠し部屋があるかも、と思い、声に出して何度か名前を呼びかけてみた。微かに風の音がするだけだ。叶多はスマホをスウェットのズボンのポケットにねじ込むと、靴を履き、ドアを開けた。風が一気に押し寄せて、叶多の髪と服をはためかせる。彼はそのままドアを閉めて、家の外に踏み出した。

 辺りはまだ暗いが、既に夜明けの気配が漂い、地平線の辺りの空が微かに赤くなっている。まばらな街灯の弱い光は、遥かに広い闇の中に頼りなく浮かんでいる。叶多は分かれ道まで来ると、左右どちらに行くか迷った。そして、港方面に行くことにする。港付近を探して見つからなかったら、父に電話して、一緒に探して貰おう。
 木曜日にのんびりと歩いた道を、叶多は走った。強風で吹き飛ばされた木の葉が大量に道に落ちて、そこかしこで吹き溜まり、時々吹きつける強い風に撒き散らされている。走りながら、名前を呼ぶかどうか迷った。どちらの名前を呼べばいい?ラプンツェルか、叶恵か。
 決めかねて、あたりを見回しながら無言で走っていると、やがて建物が増えてゆき、港に近づいた。港に入ると、見たこともないくらい沢山の漁船がぎっしりと並んで、荒い波に揺さぶられていた。強風対策か、漁船は普段より厳重に係留してある様子だ。もしかすると、船のどれかの中に居るかもしれない。叶多は募る焦燥を抑えながら、船が並んでいる横を小走りで移動した。

 その時、目の端に動くものを捉えて、叶多は、港から沖へ向かう長い一本道のような、防波堤を凝視した。強風時には侵入禁止になっている筈のその場所に、人影が見える。細く小柄で、長い髪にヒラヒラした服を着ている。ラプンツェルだ。ああ、良かった無事だ。
 叶多は安堵のあまり、その場にしゃがみ込みそうになったが、ラプンツェルがいる場所は危険だ。のんびりしてはいられない。
 辺りは暗い上にまだ波は荒く、飛沫で防波堤は濡れている。叶多の足は震えたが、自分を叱咤し、立ち入り禁止の鎖の下を潜って、一歩一歩、防波堤の上を歩き、人影に近づいた。
「ラプンツェル!」
 叶多の呼びかけに、沖へと歩いていた人影は立ち止まり、振り向いた。あいだに三メートルほどの距離を挟んで、二人は向き合う。叶多は相手が室内用のスリッパを履いているのを見て、裸足でなくて良かった、と少し安心する。そして息を吸い込むと、声を張り上げた。
「外に出てみた感じはどう?」
 ラプンツェルは顔を紅潮させ、叫ぶように言った。
「風が! どこもかしこも、風ばっかり! どこまで行けば果てに着くの? 変な匂い。空気が塩味。足が濡れて冷たい。ねえこの黒い大きな水は何? 何だか……何だか……何もかもが」
 ラプンツェルの髪の毛は吹き飛ばされて乱れ、服の下に入り込んで暴れる空気を捕まえようとでもするように、服を押さえつける手の位置を頻繁に変えた。「……たくさんいっぺんに動きすぎて、ちょっとの間もじっとしていないのが。すごく、凄く、ちがう。中とは違う……うずうずしてくる……バラバラになりそう」

 ラプンツェルは泣き出しそうな表情で甲高い笑い声を上げた。突き上げる衝動を持て余すように。叶多はゆっくりとラプンツェルに近づいた。するとラプンツェルは、何かに気づいた様子で宙を見つめ「声が」と言った。そして、くるりと海の方向へ振り向き、いきなり走り出した。叶多は驚き、叫んだ。
「危ないよ止まって! 止まれっ!」
 叶多は全力で走り、ラプンツェルに追いついて手を握った。その時、強い風が吹き付けて彼らはよろめいた。大きな波が打ち寄せ、防波堤を乗り越えて二人に覆い被さった。水の圧力が有無を言わさず二人を防波堤の床に叩きつけ、端に近い位置にいた叶多は転がって下半身が防波堤の脇からずり落ちた。彼は慌てて防波堤にしがみつこうとするも、濡れたコンクリートに滑って踏ん張りが効かず、ズルズルと海の方へと落ちてゆく。
「叶多っ」
 ラプンツェルは這いずり寄ると叶多の腕を掴んだ。叶多は必死に相手の両手に取りすがった。既に胸から下は防波堤の脇にぶら下がっている状態だ。ラプンツェルは叶多を両手で引っ張り上げようとした。顔が真っ赤になっている。
 叶多はパニックになった。足をジタバタ動かし踏ん張ろうとして、靴が片方脱げて海に落ちた。その時、無情にもまた大波が二人に襲いかかり、頭から水をかぶった拍子にラプンツェルの片手が滑った。

叶多の身体がずるりと下がった。

(落ちる)

 その刹那、彼の片手首を頑丈な手が掴んだ。いつの間にか、そこに壮年の見知らぬ男がいて、強い力で一気に叶多を防波堤の上に引っぱり上げた。そして、そこに座り込んだ子供二人に向かって物凄い剣幕で怒鳴りつけた。
「馬鹿やろう! クソガキが、こんな所で死なれちゃ迷惑だっ! 死にたいなら家で首でもくくれっ」
「……す……みま、せ」
 叶多は、身体の震えが酷く歯の根が合わず、うまく話せない。その時、叶恵がキッと男を睨みつけ、叶多を庇うように前に出ると、強い調子で言い返した。
「迷惑かけてごめんなさい! 事情があるんです。でも私たち、死ぬつもりはないの。魔女を探しに行かないといけないんだから」
 男は怪訝な顔をした。
「はあ? 魔女?」
 叶恵は先に立ち上がると、叶多を助け起こした。濡れて貼りついた衣服が半ば透けた状態の叶恵を見て、男が素っ頓狂な声を上げた。
「なんだお前、男か!? なんで女装してる? 今時の、エルジービー何とかってヤツか?」
 男は叶恵をジロジロ見つめ「おいお前ら、こっちに来い! ここだと身体が冷える。いいか親に連絡すっからな」と、港の方向に向かって歩き出した。叶多は靴が片方しかなく、叶恵のスリッパもどこかに流されて裸足だった。頭からずぶ濡れで、手も足も擦り傷だらけだ。
 二人は顔を見合わせると苦笑した。そして手を繋ぐと、震える足を踏みしめてゆっくりと歩き出した。


 男は港湾関係者らしく、港の奥の建物に二人を連れてゆき、タオルと毛布を貸してくれた。二人は濡れた服を脱いで下着姿になり、タオルで身体を拭いて、毛布にくるまったまま椅子に座った。男は叶多から電話番号を聞き、父に電話をかけている。
 叶多はポケットにスマホを入れた事を思い出して、そこを探った。スマホは奇跡的にまだあったが、取り出してみると画面はひび割れて、電源も入らない。渋い顔をしている叶多を叶恵はマジマジと観察し、毛布の中の自分の身体を見下ろした。
「私、男なの?」叶恵の問いかけに、叶多は頷いた。
「君を見た時は正直びっくりした。けどさ、ここに来る時、叶恵がどんな状態でも、とりあえず受け入れようって父さんと話してたから……やっぱり、自覚なかったんだね。魔女がどういうつもりだったか分からないけど。ラプンツェルの絵本と比べて違和感がないように、そうしたのか」
「そう……」
「なんで、外に出る気になったの? あんなに嫌がってたのに」
 叶多は尋ねてみた。叶恵は何度かまばたきした。
「魔女の呼んでる声が聞こえたから」
「え?」
 叶恵は目を閉じた。「……今も、聞こえる。泣いてる声」
 叶多はまた耳をすませたが、潮騒と風の音、奥で男が話している声しか聞こえない。叶多は、目を閉じて一心に何かを聴いている彼を見守った。テレパシーみたいなものなのかな。他人には窺い知れない繋がりが、二人にはあるのかもしれない。叶多はそっと声をかけた。
「魔女はきっと見つかる。また会えるよ。けど、彼女はこれから裁かれて、刑務所に……檻の中に入ることになると思う」
 叶恵は目を開け、小さな声で言った。
「私が、そうしないでって頼んでも、捕まっちゃうの?」
「うん、たぶんね」
「そっか……」
 叶恵は俯いた。そして顔を上げて叶多の顔を真っ直ぐに見た。
「私、待つよ。魔女のこと。いつか檻の中から出て来れるよね? その時、誰も迎えに行かなかったら、可哀想だもの」
「やっと外に出られたのに? これから、物凄く沢山の人に会うことになるし、魔女より大事な人ができるかもしれない」
「良い魔女は私を姫君って呼んだけど、むしろ姫はあの人の方なんだって思って。心はまだ、暗い塔の中に閉じ込められたまま……だったら私は王子さまになってあげたいな。あの人は大好きなひと。それは変わらない。姫を迎えに行くのは王子の役割なんだから」
 叶恵は目に強い光をたたえ、口元に笑みを浮かべた。叶多もつられて微笑んだ。そして内心、決して諦めないところは、僕より親に似てるかも、と考えた。

 事務所の開け放たれた窓から風が吹き込み、陽射しが彼らを照らした。いつのまにか風が雲を吹き払い、澄んだ空気の中、夜明けの橙色が急速に薄れてゆく。
 叶恵はクリーム色の毛布にくるまったまま立ち上がって、外を眺めた。そして心から驚いたように叫んだ。
「凄い、空気の色が変わってく。この色なに?……きれい。見たことない色」
 叶多は驚き、ラプンツェルの、巣箱を思わせる部屋を思い起こした。そういえば見なかった気がする。
「青、って色だよ」
「あお」
 叶恵は顔に陽の光を浴び、目を輝かせた。ドアに駆け寄ると、それを開けて外に出てゆく。「えっ、ちょっと、どこに」叶多も慌てて立ち上がり、その後を追ってドアを抜けた。

 叶恵は毛布を両手で掴み、マントのように風になびかせ駆け回っている。下着一枚だけの裸身は陽の光を跳ね返して輝き、風にたなびく毛布は、白い大きな翼のように見えた。叶恵は上を向き、大きな声で笑っている。
 叶多は呆れた。小さい子供みたいだな。……そして思い直した。叶恵は外の空気の中で思い切り笑うのも、空と海を見たのも初めてなんだ。そりゃ走るしかないし、笑うしかないよな。
 叶多は、そんな風に世界を新鮮に味わうことのできる彼を、少しだけ羨ましく感じた。

……いつか叶恵は、僕よりもずっと遠くに行くのかもしれない。もう彼を阻むものは何も無いのだから。

どこまでも続く青い青い空。
遥かな高みを白い海鳥が羽ばたいてゆく。彼方へと。


自由。どこまでも。自由に。




(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?