見出し画像

変身

 フローリングの上にゆったりととぐろを巻いている蛇。
 鱗の色合いはベージュの地に、焦茶と黒のマダラ模様が入っていて、眼は琥珀色の真ん中に黒く縦の切れ目が入った、蛇の瞳。

 最近は合鍵で勝手に部屋に入っても、姉ちゃんはいちいち声をかけてこない。測ったことはないけど頭の先から尻尾までまっすぐ伸ばせば3メートルくらいありそうな蛇は、口を大きく開けて「しゃー」と音をたてた。寝ていたっぽいので欠伸かもしれない。蛇は目を開けたまま寝るし、まばたきしないので分かりにくい。
「そろそろ水、貯めてくれない?」
 蛇──姉ちゃんが俺に言った。蛇口をひねるのが難しいので、浴槽に飲み水を貯めておくのだ。俺はゲームの途中だったので「これ終わってからでいー?」と答えた。
「うん。あと掃除もお願い」
「あー、こないだ、なんか風呂場臭うなって思ったんだよな。姉ちゃんさ、あそこでおしっこしてない?」
「大きい方も出そうな時はトイレでしてるよ。流すのはどうにかできるし」
「やっぱな」
「水でサッと洗うだけでいいからさ」
「それだと匂い取れないじゃん。やなんだよ俺が」
「そう」
「……匂いとかわかんないの?もしかして」
「わかるよ。人間のときよりずううっと色んな匂いがわかる。けどさ、感じ方がたぶん違うんだよね。洗剤の匂いのがきつい感じすんの」
「そっか。じゃあ念入りにすすいどくわ」
 俺はキリのいいところでゲームをセーブすると立ち上がり、浴室の前に行った。ズボンを脱いで洗濯機の上に置き、靴下もその上に置いて袖をまくった。足元の開き戸から浴室掃除用スポンジと洗剤を取り出して浴室に入る。水が半分まで減った浴槽の栓を抜いて、シャワーで浴室全体に水をまいてから、洗剤を吹きつけた。

 マンションの十六階からは、10分歩いたところにある駅まで余裕で見渡せる。大学に入って家を出たとき、姉ちゃんがこの物件に決めた理由は窓だったらしい。広くて大きくて、夜は夜景が綺麗で、朝は半透明に透ける水色のカーテンが揺れる。直射日光のさす時間は短くてあまり室温が上がりすぎない。
 大学生の女の知り合いは姉ちゃんしかいないから断言はできないけど、学生がひとりで住むには広すぎる部屋だ。殺風景といってもいい。フローリングの床にはラグもなく、小さなテーブルと椅子が二脚、ベッド、テレビとテレビ台、俺が持ち込んだゲーム機、洋服と鞄をかけるハンガー、床に直置きしてある箱入りの靴が四足。冷蔵庫。それらがポツポツと置かれているようすは余白だらけのノートみたいだ。冷蔵庫のそばには箱買いしたミネラルウォーターがどんと置いてある。それはいま、俺がせっせと消費している。

 姉ちゃんは母親の再婚相手の連れ子だった。バツイチ子供ひとり同士の再婚。玉の輿婚というやつで俺の義理の父親は複数の会社を経営している金持ちセレブ、義理の姉は俺より三歳年上の、会った当時はバカ高い学費がかかることで有名な私大附属高校に通うお嬢様だった。俺の母親はシングルマザーとして長いこと苦労していたので、この再婚で、母がようやく自分の幸せを掴むことができた気がして嬉しかった。
 ただ、それまで庶民の、どちらかといえば貧乏な暮らししかしたことない俺と母は新しい暮らしに圧倒されっぱなしだった。だだっぴろい家にいると、モデルルームに居座っている場違いな客みたいで、自室にいても微妙にくつろげない。染みついた習性ってそう簡単には矯正されないらしい。大学に入ったら家を出るつもりだった。でも家を出たのは義姉の方が先だった。

 義姉の名前は菜々子ななこ。出会った当時は人間だった。もちろん。

 浴室の掃除が終わると近くのスーパーに行き、食料を買い込んでマンションに戻った。肩にかけたエコバッグのなかには惣菜のカツ丼弁当とペットボトルのレモネードと、鶏モモ肉の大きな塊が二つ入ってるパックが四個。肉は全部で3kgくらい。これで二回分で、一回の食事で三週間はもつらしい。
「ただいまあ」
 帰るとパックをふたつ冷凍室に入れ、残りのパックを開けた。それから俺は弁当をレンチンして、それを食べながらテレビをぼーっと眺める。
 座椅子の背後にするするすると擦過音がした。床のうえを姉ちゃんが近づいてくる音。右隣にぬっと蛇の頭が現れた。細長くて黒い舌が、すばやく口から出入りする。
「いつも悪いね」
「どういたしまして」
 俺は手元の、ふやけた揚げ衣と肉、卵とタマネギと調味料がまだらに絡まった飯を見下ろした。
「こういうさ、調理済みの肉って、もうぜんぜん食べたいと思わないの?」
「思わないなあ。肉に見えない」
「へえ……じゃあさ、俺のことは?肉に見える?」
 俺は姉ちゃんと正面から眼が合って、あっと思った。なにか気を逸らす話題を、焦るあまりに言葉が喉の奥につっかえて、思わず唾を飲み込んだ。姉ちゃんの舌がひらめき、目がわずかに細められた。
「ふふ、そんなに分かりやすく焦らなくてもー。普段はそこまで意識しないよ。けど、素っ裸で目の前を通り過ぎないことをおすすめする。チンコぶらつかせてたら咄嗟に食いついちゃうかも」
 ひい。声なき内心の悲鳴とともに一瞬、俺のアソコはひゅんと縮んだ。蛇の口元から微かにしゃーっと音がしている。笑っているのかもしれない。冗談だよね?と聞き返したかったけどやめた。カツ丼はまだ半分残っていたけど食欲がなくなって、ごまかすようにレモネードをあおった。

 鶏肉を湯煎で人肌程度に温めて、一枚の皿にひとつずつ載せる。
 姉ちゃんは皿に近づき、肉を見下ろすと吸いつくようにそれを咥えた。大きく開いた口の端がゴムのように伸びて、肉を包み込む。野獣が肉にかぶりつくのとは全く違う、咀嚼もなく静かでおごそかな嚥下動作。強力な筋肉が肉をなめらかに喉の奥へと引きずり込み、なかへ送りこんでゆく。一連の動作にはある種の優雅さがあって、いつも見惚れてしまう。
 四つの肉の塊が完全に飲みこまれると、俺は皿を片付けた。姉ちゃんは食事のあとは動かなくなる。俺は鞄を取り上げて声をかけた。
「んじゃ、そろそろ帰るね。今週中にまた来る」
 姉ちゃんは眼だけをわずかに動かした。
「夏休みでしょ、どっか遊びに行かないの?」
「別に。ここが落ち着くし」
「へんな子。三回しかない高校の夏休みを蛇と過ごすなんて」
 俺は聞こえないフリで部屋を出て、合鍵でドアを施錠する。
 暗くなった空の下、灯りと人があふれる賑やかな商店街を通って駅へと向かう。いろんな歳の、職業の、服装の人たち。この人たちは俺がついさっきまで蛇と居たって聞いたら耳を疑うだろうな。そう考えて、いや、と思い直した。今すれ違ったおばさんも、家に帰ったら元旦那の熊と暮らしてるかもしれない。前を歩いているスーツの男は、満月になると彼女が狼に代わるのかもしれない。
 クラスメイトに話してみようか。俺の義理の姉ちゃん、こないだから蛇やってんだ。へえそうなんだ、実はうちもさ、母ちゃん先週から猫になってて。飯にほぐした焼き魚を載せろ、骨は小骨も全部取れっていちいちうるさい、マジ面倒くさ。へえそうなんだ……想像に口元がほころぶ。思っていたよりもずっと、現実世界の輪郭は柔らかいのかもしれない。堅牢にみえる全てはあっさり姿を変え、今日がそのまま明日に続く保障はどこにもない。会社帰りのサラリーマンが出てくる流れに逆らうように、駅の改札を抜けた。
 俺が通っている高校は、ここのとなり駅が最寄りだ。義姉がひとり暮らしをはじめてから、母から様子を見に行くよう頼まれて学校帰りに訪ねた。それが、彼女の部屋を訪れた最初だった。


 三日後、夏期講習の帰りにマンションに寄ったときに事件が起こった。
 合鍵を差し込んで部屋のドアを開けた瞬間、通路のすぐ向こうにある非常階段に隠れていたらしい人物が、駆け寄ってきて俺の背中を強く押したのだ。俺は玄関前の床に膝をつき四つん這いになる。後ろの人物はそのまま玄関に強引に押し入るとドアを閉めた。慌ただしく廊下に踏み込もうとしたところで、俺は目に入った黒いスボンの片脚を咄嗟につかんだ。硬い手ごたえ、男か。男は盛大にすっ転んだ。ズダンと大きな音と地響き。男はうつ伏せのまま掴まれた足を強く引っぱった。俺は必死で離すまいとする。お互いの荒い息、男ふたりが取っ組み合うには狭い廊下で俺たちは夢中でもがいた。半袖の白いパーカーを着た若い男はもう片方の足で俺をめちゃくちゃに蹴りながら「離せっ、なんだよお前、菜々子!いるんだろ出てこい浮気女、くそビッチ!」
 と部屋に向かってわめき散らした。俺は自分の血のごおっという音と荒い息を遠くに聞きながら、なんとか組み伏せようともう一方の足を掴んで相手の身体にのしかかったところで、イヤイヤ待て待て今なんつった?もしかしてこいつ姉ちゃんの彼氏か?!と、かろうじて思考した。彼の顔に真っ赤な、鼻血、白いパーカーに鮮血が飛び散る。
「ちがうっ!」俺は至近距離から男に怒鳴った。「俺は違う!ゴカイだ、あんた姉ちゃんの彼氏?おれ弟ですから、菜々子の、お、と、う、と!」
 俺の下で暴れていた男の動きが止まった。血にまみれた顔がじっと俺の顔を見つめる。相手の息と血の匂い。
「……おとうと?」
「俺、瀬尾孝せおたかしっていいます、あの、義理の弟で、親が再婚したから、えっと」
「菜々子の、弟。……あ、そういや。写真みたことある……君が。そうか、ごめん俺、勘違い……」
「鼻血が。ちょっと待ってて」
 俺はどうにか立ち上がると洗面所に飛び込み、タオルを掴んで濡らして絞り、玄関にとって返した。
「これで!」
 冷たいタオルを差し出すと、男は受け取って顔を拭いた。青いタオルが黒く染まる。彼は上体を起こすとそこに座り込み、手についた血を拭って、また顔に布を当てながら、自分の血が盛大に飛び散った胸元を見下ろして、顔をしかめた。
「ああ、やっちまった」
「大丈夫すか?」
 男は俺を目だけで見上げた。くぐもった鼻声。「ありがと。君こそ大丈夫?えと、菜々子。ここにいるよね?」俺は言葉につまる。いや、いるけど。いるけどさ。
 するするする、と衣擦れのような音が、滑らかに床の上を流れてきて、短い廊下の先にある開けっぱなしのドアの向こうから、蛇が顔を出した。部屋の窓から差し込む光で、半分シルエットになっている。彼と蛇は見つめ合った。彼の目が限界まで見開かれ、顔にあてたタオルの下でひゅっと息を呑み込む音がする。
 蛇は顔を背け、またするすると移動して俺たちの視界から消えた。彼の視線が俺のほうに動いた。血の気が引いた顔。
「……蛇?え、なんで、蛇」
 ああうん、そうなるよね。急に強まる親近感。


 アイスコーヒー入りのグラスを目の前にして、テーブルで向かいあった。落ち着いてよくみると、軽くウェーブのかかった焦茶の髪に清潔感のある容貌で、派手さは無くてもなにげに付き合う女の子が途切れないタイプだなと感じた。姉ちゃんの彼氏か……俺は胸の奥の不快なざわめきから目を逸らす。彼は落ち着かない様子で、テレビの前でとぐろを巻く蛇を気にしている。彼の視線は蛇と俺の顔を行きつもどりつしながらも、口は滑らかに動いて、ここまでの顛末を語った。
 名前は桐生義春きりゅうよしはる。菜々子とは同い年で違う大学。数ヶ月間、海外に行っていた。帰国してから何度もLINEを送ったけどまったく返ってこない。電話しても出ない。あまり干渉するとウザがられるので我慢していたけど、自分も貰っていない合鍵で出入りする男の姿をみて頭に血が登った、申し訳ないと頭を下げた。
「叔父夫婦と従兄弟がドイツにいて」彼はコーヒーをひとくち飲んだ。「いつもはクリスマスの時期に行くんだけど、今年は、会社がスポンサーやってるイベントがあるから来ないかって誘われて。リゾートを貸し切ってやるとかなんとか。菜々子も誘ったけど断られてさ。あ、俺と彼女、親父同士が知り合いなんだよね、だから幼馴染っていうか。けど付き合ったのは高校生になってからで……」
 まだすこし興奮してるのか、早口で話している彼を、俺はちょっと引いて眺めていた。話の内容がドラマみたいだ、ほんとに金持ちって身内が海外に住んでるとかフツーにあるんだ、などと。
 彼の話は続く。昔の菜々子のこと、幼稚園から大学までエスカレーター式の学校で、高校から付き合い始めた。中学の彼女と菜々子が友達で、彼女を振って奈々子と付き合ったからしばらくは人間関係がゴタゴタした。菜々子が元カノからずっと嫌がらせをされていた事を、大学に入ってから友達経由で聞いて驚いた。問いただすと菜々子は平然と「部外者がなにやろうと気にならない。全然どうでもいい」と答えたとかなんとか。
 俺は妙に納得した。彼氏に心配かけたくない、とかじゃなくて、芯からどうでもよかったんだろう。姉ちゃんときょうだいになってから、まだ三年しか経ってないけど、彼女のつかみどころがない感じは分かった。相手の心の深い穴に向かって、どんなに声をはりあげて呼びかけても虚しくこだまだけが戻ってくる、みたいな。育ちが良いせいなのかな、と漠然と思っていたけど違うのかもしれない。目の前の彼氏さんは、姉ちゃんと同じ階層の人だけど、明らかにもっと……感情に生々しい起伏があった。姉ちゃんのことを心配していて、会いたがっている。そうだよな、これが普通だよな。
 蛇はというと、とぐろの上に頭を乗せてじっとしている。この会話を聞いているに違いない。久々に会った彼氏のこと、どう思ってんだろ……また胸の奥がチリチリした。心の中にいるもうひとりの俺が皮肉な調子で「今はこの男の方が部外者なんじゃね?なんといっても俺と菜々子は家族なんだから。こいつは彼氏っつったって、もう別れるしかないじゃん。だって菜々子は……人間じゃないんだからさ」そうだよな。いや突然また人間に戻るかもしれないぞ。なんだろう俺は菜々子に蛇のままでいてほしいのか?まさか。人間に戻って欲しい、いつかは。

 菜々子は旅行中で、その間ペットの蛇の世話を頼まれていると彼には説明した。桐生さんは気味悪そうに蛇の方を伺った。
「あいつさあ……よりによって蛇とか。しかも自分は遊びに行って義理の弟に世話丸投げって、ひどくない?」
「はあ。まあでもこのマンション、ペット可なんで」
「ペット可でもこんなでっかい蛇を、檻にも入れないで部屋で飼うのはまずいでしょ、普通に考えて」
「まあ、そっすね」
「いや君を責めてるわけじゃないけどさ……しかもスマホ置いて行ったって?なに考えてんだろな、まったく」彼は難しい顔でため息をついた。「マイペースなのはよおく知ってるけど。あの女、自由すぎてムカつくわ。こっちは振り回されっぱなしかよっていう」
「…………」
 じゃあ別れたらいんじゃないすか。と、心の中だけで返事をしながら手元を見つめて黙っていた。ああ、言ってやりたい……あまりぶっちゃけるのもどうかと。本人そこにいますから。そこに。蛇です。さっきからずっと俺らの話を聞いてますよ。姉ちゃんだって、なろうとして蛇になったわけじゃない。朝起きたら、なんでか蛇になってたんだ。本人も俺もびっくりしてんだよ。

(変身するなら蛇がいいな。大きな蛇とかどう?)

 耳元で蘇った声にはっとした。菜々子の記憶。終わったあと彼女の狭いベッドにふたりで横になっていた時だった。肌に触れる薄い水色のシーツの感触が蘇る。
 姉ちゃんの身体は手先と足先が冷たくて、サラサラしていてやわらかくて、首筋は水みたいな匂いがする。それと甘いパイナップルの匂い。パイナップルの匂いつきコンドームを取り出して開封し、俺につけてくれた、冷たいゴムと細い指の感触。オレンジ色の膜は引き伸ばされて黄色になる「これ?ヨシハルのお気に入り。はい、これでOK」シーツに横たわる白い躰に水の上の蛇を連想する。肌は乾いてひんやりしてるのに、彼女のなかは濡れていて暖かい。あたたかい水のなかを泳ぐみたいな。ふかいふかいところまで……気持ち良すぎて溶けそうで、同時に背中がすうと冷える。俺たちいちおう姉弟なんですけど、やばいよなこういうの。そういうと菜々子は楽しそうに笑った。
「バカだね。ほんとはダメだからいいんじゃな……っい、きもちい……うしろめたくないセックス、なんてつまん、ない……そうでしょ?」
──うん。うん、姉ちゃん。


 桐生さんのパーカーは脱いでもらって、代わりに俺の着替えの予備を貸した。本当は服を預かって、洗って返したいところだけど、姉がどこに洗剤を置いているのか分からないから洗濯できない、と嘘をついて、畳んだパーカーをスーパーのビニール袋に入れて渡した。
 俺のTシャツを着た桐生さんは袋を受け取り、玄関から出がけに振り向いた。そしてドアの内側に背中をつけてこころもち顎をあげ、見下ろすように、じっと俺の顔をみてきた。俺と彼は、2メートルの空間を挟んで見つめ合った。
 ふいに彼が言った。「君さ、菜々子とやった?」俺は凍りついた。そのまま立ちつくしていると彼はうすくわらった。「わかりやす」男の顔を覆っていた、硬くてツルツルした常識人の仮面がズレて、下から酷薄そうな顔がのぞいた。黙り込む俺を見る彼は、楽しそうですらある。
「幼馴染って話したろ。菜々子とは長いながーい付き合いなんだよ。だからよおく知ってるわ、きょうだいみたいなもん。血が繋がっていないきょうだい、君と同じだな……さっき話した菜々子のことさ、あれ半分嘘。俺があいつに告った時、本当いうとあいつから条件出されたんだよね」
 彼はドアに寄りかかって腕を組むと笑みを深めた。
「ミホと別れるなってさ。二股かけてくれって。流石にびっくりしたよ。俺もその時までずっと、あいつのこと勘違いしてたんだ……」言葉を切ると目線だけ俺に飛ばす。その目が語る、さあどうする続きを聞くなら覚悟しろよ、と。先を聞くのが怖い、でもどうしても聞かずにはいられない。「なんで、どうしてそんな」声がしわがれて、唾を飲み込んだ。目の前の男は首を僅かにかしげた。
「人のものこそ欲しがる、とか、マウント取るのが楽しいとか……菜々子の挙動、付き合う前はそんなふうに思ってたな。けどそうじゃない、むしろ逆だって気がついた。菜々子は人にまったく興味がないんだ。親にも友達にも男にも。誰にどう見られようと気にしないし誰のことも欲しがらない……」声に苦味が混じる。「あいつはただ、退屈が我慢できないんだ。シンプルにそれだけ。けど無自覚な超絶自己中人間が刺激だけを欲しがるって、けっこう厄介なんだわ。だろ?悪意があるわけじゃない、でも菜々子に近づこうとする人間は傷つく。わかってんだ、それでもさ、俺は」
 彼はふいに口をつぐんだ。面に初めて人間らしい苦悩が浮かんだ。
「本当は、菜々子はどこにいるんだよ」
「……あんたには、教えない」
「本音が出たな」
「もう来ないでください。ここには」拳を握った。「姉ちゃんは、いない」
 彼の顔に、また皮肉な笑みが浮かんだ。
「同病相憐れむ。……いっとくけどさ、よくあるんだよねこういうの。けど普通の人間は菜々子について行けなくなって脱落していく。あいつには俺しか……」
 俺はさえぎった。「血が繋がっていなくても、俺と姉ちゃんは戸籍上のきょうだいで、だから俺の方があんたより有利だ。姉ちゃんがどんな人でも、家族だからずっと繋がってる。そばにいられる、死ぬまで」
 俺たちは睨み合った。やがて彼は顔をゆるめ、ふっと笑った。いつの間にかまた、感じのいい若い男の仮面が表面を覆っている。
「まあ気楽にいきなよ。人類の半分は女だよ」
 桐生さんは背中を後ろから離して立ち、ドアを大きく開けた。そして外に出て、一瞬こちらに視線を走らせると、ドアを閉めた。


 ドアを内から施錠すると、ゆっくり部屋に戻った。蛇は先ほどと変わらずテレビの前にいる。
 俺はそばに寄っていき、すぐ傍の床の上に腰を下ろした。ひどく疲れていて、重力が倍になったみたいに感じた。そっと蛇の体に手を触れる。姉ちゃんはまだ動かない。鱗に覆われた表面を手のひらで撫でる。ほんのすこし力を込めて、精密な鱗の下に張りつめる硬い肉の弾力を感じ、ひやりとした温度を感じる。俺は姉ちゃんに訊いてみた。
「ねえ、寄りかかってみても大丈夫?」
「どうぞ」
 とぐろを巻いて重なった蛇の体の上に、そっと寄りかかってみる。頭と肩のしたに感じる、生き物の身体の不思議な感触。壁と天井が見える。視界に姉ちゃんの頭が入ってきた。鱗に覆われた小さな顎を、下の角度から見たのは初めてで、改めて実感する。わあほんと蛇だ、すげえ蛇を枕にしてるよ。
「重くない?」
「ちょっとだけ」
「姉ちゃんさ……俺のこと好き?」
 こんな問いには意味がないって分かってる。ずっと前からなんとなく分かっていた。なのになんで訊いちゃうんだろうな。
 姉ちゃんは頭を僅かに俺の方に向けたが、どこか遠くを見ている。
「わたしには好きがよくわからないな」
「……それは、蛇になったからってこと?」
「人間だった頃から、よくわからなかったな。好きに対して、みんなが泣いたり笑ったり怒ったりするのが。好きっていうのはさ気持ちでしょ。気持ちって変わるものじゃない。今はそうでも、一瞬あとには違うかも。たくさん種類があるようで、正解がまるでない。そんなあやふやな物を欲しがったり押しつけあったり。エネルギーの無駄使いだよね」
「そうか……」
 俺は目を閉じた。このひとの心を手に入れるのは、いわば……どこまで走っても、どこにも行き着かないレース。いやマラソンの方が近いかな。ゴールのないマラソン。偽物のゴールでテープを切って、ついにやったとその場限りのハッピーエンドを味わうけど、本心ではまったく信じていない。なんだそりゃ、控えめにいっても地獄。桐生さんの顔が浮かんだ。
(わかってんだ、それでもさ、俺は……)
「俺は姉ちゃんのこと好きだよ」
 蛇はしばらく黙ってから、静かに言った。
「夏休みが終わったら、わたしのこと捨ててよ」
 俺は上体を起こして姉ちゃんの顔を見た。
「は?何いってんの」
「いつまでも隠しきれるわけないでしょ。大学もずっと行かないとさすがに親に連絡いくし。試験もあるし。わたしのご飯もあなたのお小遣いでしょ」
「そんなんなんとでもなるよ!バイトするし。大学はさ、えっと、桐生さんにわけを話して協力して貰えないかな?試験とか代わりに受けてもらってさ」
「外に出たいの」
 俺は姉ちゃんの方に身体の向きを変えて詰め寄った。
「捨てるってどこに!?そんな、外に出たらすぐ捕まっちゃうって!したら研究所とか動物園とかに閉じ込められちゃうんじゃないの?」
「山とか、深いところに離してもらえたらすぐには捕まらないよ、たぶん」
「山に……もしそこで人間に戻ったらどうする?たぶん裸で人間に戻って、その時、山の中だったら遭難するって!」
「まあその時はその時だよ。なるようになるって」
「嫌だ!!」
 俺は怒鳴った。姉ちゃんの頭がすこしのけぞる。俺は昂る感情のままに強く床を叩いた。「じゃあしょうがない、義父とうさんに相談しよ!そうすれば安全に」
「それだけはやめて」
 姉ちゃんは強い調子でさえぎった。「あの人にバレたら、わたしはどこか狭くて外が見えない場所に閉じ込められて、一生幽閉される。絶対そうなる。わかるの長い付き合いだから」
「だって、でも……そんなの……」
「……」
 どう言えばここに留まってもらえる?何を、どういえば……虚しさの底なし沼に、なすすべなく沈んで行くような無力感を感じた。俺がどう足掻こうと翻意させることはできないだろう。姉ちゃんによれば、好きはエネルギーの無駄使いらしいから。
 悲しくてすごく虚しいのに、なおも治まらずにじりじり身体の奥を焦がす苦い熱がある。ベリーハードモードな初恋。なんど身体を重ねても、心は決して重ねることができない女で、義理の姉で、いまは蛇……涙が出てきた。
「……っ、……俺、姉ちゃんと離れたくないよ……待ってて高校卒業したら働くから……俺が姉ちゃんをまもるから……」
 姉ちゃんは、俺の涙を細い舌で味わった。琥珀色の艶やかな眼の表面に、俺が映っているのが見える。小さな囁き。
「ごめんね」




 山奥にある湖は、鏡のように鎮まっている。水平線は白い空に溶けて見えない。
 白い空間のはるか遠くに薄い灰色の山並みが、白い霧ににじむように浮かんでいる。あたりを覆う木々は黒い。まるでモノクロームの世界。

 足元から湖の波打ち際まで灰色の砂利が続いている。水深が浅いところでは透明なみずを透かして黒い砂利が見え、短い浅瀬の先は急に深くなるのか青みがかった水の底は見えない。

 木の葉が一枚、湖面に落ちた。波紋が限りなく拡がってゆく……。

 隣に並んだ蛇は、鎌首を持ち上げて湖を見つめている。

「いってくるね」 
 姉ちゃんの蛇は前を向いたまま、そういった。
「……いってらっしゃい」
 ほんとうは引き留めたかったけれど、俺はそう応えた。
 蛇は砂利のうえを進むと、湖の波打ち際から静かに水に入っていった。波紋が拡がる。蛇は水面に浮いた状態で身をくねらせて泳ぎ、静かな水面を切り裂いて進む。俺は岸に立ちつくしてそれを見送る。

 ずっと。

 姉ちゃんの姿が遠くにかすんで消え、波紋がすべて湖に溶けてなくなってもずっと。


(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?