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獸(第2章/BEAUTIFUL DAYDREAM)に宛てて "もう一つの身体”


はじめに

以下のテキストは現代美術家・GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAEが主催するアートプロジェクト「獸」の第3回目、2024年の4/27〜5/6に渡って日本橋のまるかビルにて開催された「獸(第2章/BEAUTIFUL DAYDREAM)」を鑑賞しながら考えたさまざまな事について記したテキストである。

「獸」とは何か

そもそも、「獸」とは何か。2021年、多摩美術大学日本画専行を卒業した現代美術家のGILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE(以下、ギロチン)とアートディレクター/デザイナーの八木幣二郎によって立ち上がった、「現代美術の展覧会とライブを組み合わせた7年にわたるプロジェクト」。つまり、東京という都市を生きる青年を主人公に見立て、彼ー”黒い獸”の人生の物語を7年間・全七章からなる展示と音楽のライブで描く、という他に例を見ない試みだ。
展示の詳細や作品の様子、その盛り上がりなどはTwitterで「獸(旧字体)」と検索すればすぐにヒットする。2500人を動員して美術手帖の展覧会ランキングでも首位を獲得したこの展示は一体どうやって作られたのか?

今回、ギロチンはギャラリー(CON_/NEORT++/parcel)という権威化された場所の外壁を全てメッシュシートで覆い、ビル一棟を「自分(達)の都市」にして、そこに物語を描いた。青年の、誰もが通るあの時期の物語だ。さらには「獸」ビル付近に位置する違うビルの地下では展示初日にオープニングパーティーとしてライブイベントが開催された。
初日のライブも併せて3回ほどこのビルを訪れた私は、「獸」とそれを主催するギロチン、そしてその周囲を具に観察することで、「獸」という催事・祭事を紐解きたいのだ。
作品のクオリティと照らし合わせながらこのイベントを「学生ノリ」「文化祭性」のような単語で批判する人もチラホラ見かけたが、今回は個別の作品やアートの文脈に乗せて批評したいわけではなく、「獸」というプロジェクトが今どれだけユニークなものとして東京で存在する意味があるか、それを可能にしているもの、そしてそのムーブメントをポジティブに評価したい。そしてそれをテキストとして残すことでまだ分かりにくさが拭えない「獸」というプロジェクトと、それを将来必要とする人たちの一つの接点になれば幸いだ。私は今回の「獸」から多くのものを受け取った。
自分にとってアートとはどう言うもので、良い表現とはどんな形をしているか、そんなことを改めて考える契機になった。そう言った機会は、今都市で展開される遊びの中からは滅多に見つけることはできない。そう言った意味でも私にとって「獸」は稀有な"遊び"であった。

「獸」ビル

祭としての「獸」

私は今回の「獸」を、主催のギロチンやその周囲のアーティスト/クリエイターたちが開催前からSNS上でスニペットし始めていた3月頃からその動向をつぶさに観察していた。舵をとっている主催の人間だけではなく、なんらかの形で「獸」に巻き込まれた人々が、皆このプロジェクトを大切に思い、同じくらいの熱量を持ち込んで近い将来それを目撃する事になるであろう鑑賞者たちをエンターテインさせるために全力を尽くしていた姿をインスタグラムやTwitterを通じて見ていた。獸とはつまりはギロチンがつくる一つの都市の中で行われる年に一回の大きな祭なのだ。

"良い祭"〜全感覚祭/Kanye West「DONDA」リスニングイベント〜

ところで、あなたにとって良い祭とはどのような形をしているだろう?文化祭、地域のお祭り、音楽フェス、アートイベントetc…
形態やジャンルを問わず、良い祭とは誰かの純粋な願いや祈りを足場にして組み立てられたものではないだろうか。私にとって印象深い祭りはいくつかある。小学生の時に行った博多の伝統的な祭りや高校の文化祭。なかでも一番印象深いのは日本のロックバンド・GEZANが不定期で開催しているインディペンデントなフェスティバル「全感覚祭」だ。2019年彼らが自分たちで見つけ出した千葉県印西市の会場で開催する予定だった「全感覚祭」は当初予定されていた日程に大型台風が直撃し止むを得ず中止、しかしそこから急ピッチで体制を整え、当初の予定日から2日後の夜に渋谷全域のライブハウスを借りてサーキット形式で新たな「全感覚祭」を開催した。その時のGEZANとそのサポーターたちの熱は今までに訪れたどんな祭よりも狂気的だった。至る所で入場待ちの列が出来て、深夜にも関わらず数千人が渋谷に集った。私は当時未成年でどう頑張っても入れなかったのだが、そこに入れなかったことが悔しかったと他人に伝える時に今でも少し誇らしく思うような、そんな祭だった。
コロナ禍による中断を経て、「全感覚祭」は昨年OLAibiというメンバーの死を契機に、4年ぶりに開催された。今回もとてつもないスピード感で祭の準備は進んでいた。私は当日足を運び、誰かを悼む、偲ぶ、祈るというごく個人的で何よりも純粋な願いの数々が熱や音、光に姿を変えて寒空に溶けていった光景を見た。その時「祭」というものの本質をまたそこに見たようで思わず涙が溢れた。2021年のKanye Westによる「Donda」のリスニング・イベントシリーズもそうだが、誰かの覚悟や願いを足場にして組み立てられた祭は、いつも大切なことを教えてくれる
今回の「獸」からは、そんな祭の片鱗を見たのだ。


では、この「祭」はなぜ起き得たのだろう?もちろんXでのバズ、三浦大地や千原ジュニアの来場...そういった外れ値的な要素が盛り上がり、話題を生んだ側面も当然あるとは思うが取り敢えず後回しにして、より本質的な、その「成り立ち」の部分を考察していきたい。

「獸」を形成しているもの

例えば、ギロチンと同じようなステータス(年齢や経歴、技術など)の人がいたとして、その人はギロチンと同じことをできるだろうか?彼に憧れる美大生が100人いたとして、「同じこと」をできる人は何人いるだろうか?

答えは0人だ。彼は彼にしか出来ない表現をやっていて、彼にしか歩めない道を歩んでいる。
ギロチンという作家とその周囲で育まれるコミュニティ、彼の実践を助ける場所としてのCON_、彼をサポートするマネジメントチーム(CANTEEN/CON_)、彼のイメージが出力されていく際に右腕となって支え続けるアートディレクター/グラフィックデザイナー八木幣二郎、そしてそれらが一同に会し、彼自身や彼の世界観、彼の周囲の豊か(で魅力的)な環境を”外部”にプレゼンテーションするための機能を持った「獸」というプロジェクト。外から観察していると、ギロチンという非常に稀有なプレイヤーを起点として特別な要素が様々に加わり、この「祭」が成立しているように思える。
それぞれの要素について一つ一つ、丁寧に考察してみたい。

コミュニティ

彼の周りには、もちろん美大生、アーティストも当然多いがそれ以外の人物も多いように思う。漫画家や植木屋、教員などステータスを問わず様々な人物がいるようだ。そして彼は特定のコレクティブやクルーを作るわけではなく、彼とコミュニティ、コミュニティと外部の境界線を敢えて曖昧にしている。バランスがとれた、風通しの良いゆるやかな「集まり」は彼を支え、奮い立たせ、安心させているように見える。無論、共通言語の多い、仲の良い友人達のただの集まりにラベルを貼ることは野暮なことのように思える。だが今回の「獸」の盛り上がりを助けていたのは、彼の強烈なファンダムや外れ値的な要素というよりも、彼の「コミュニティ」によるところも大きいように思う。

場所

CON_

アーティストが「場所」を持つ(運営する)際に通常スタジオやアトリエ、倉庫、レジデンシーといった自身の制作に直結するような場所を選ぶことが多いが、ギロチンは馬喰横山にあるギャラリー・「CON_」の共同運営者としてクレジットされている。若手作家がギャラリーの運営側に回ることは非常に珍しい例だろう(少なくとも日本では)。CON_は立ち上がってからまだ2年しか経っていないにもかかわらず、前衛的な展示の数々を展開し、それだけではなく「EAST EAST」「DIESEL GALLERY」「MEET YOUR ART」などの大型アートイベントや敷居の高いギャラリーへの出展を果たすなどその快進撃は続いている。そこへのギロチン自身の寄与がどの程度であるかは未知数だが、運営を行う側としても数々の展示やイベントを近距離で経験していることは、きっと彼の制作やプロジェクトへ大きな影響を与えているはずだ。
大きな催事を成功させるためには適切なスキームやロジック、予算や人手、信頼関係など様々な条件が必要になってくる。事実、今回の「獸」の規模感を見ればそれは明瞭で、一人の作家や一つのギャラリーの力だけでは成立しないことは確かである。

マネジメント

CON_のco-founderとしてクレジットされている遠山啓一氏の言葉をいくつか引用しながら、マネジメントサイドのアーティスト(ギロチン)への向き合い方を考察してみたい。

「どれだけの卓越性を持ったアーティストや作品であっても、何か1つで誰かの人生や社会を変えることはできない。しかしそれらが身体性をともなった一回性の高い解釈を生み、それが新たな創造に繋がるとき。その解釈や創造が束になりムーブメントとして社会に刻まれるとき。その動きが数ヶ月や数年のトレンドとして消費されることなくエコシステムとして機能し始めるとき、自分たちの作っている音楽やアートが東京という都市や一つの時代の文化へと昇華する」

(“「踊ってしまう」音楽から生まれる文化|遠山啓一”)

「小さな集まりのなかで「売れなくてもいい」、「理解されなくてもいい」というようなアンダーグラウンド志向の態度が形成されてしまうことがある。(中略)それに対して、弱い文脈や、その束を作ろうとするオルタナティブ志向の試みは遅く、不確実性がつきまとう。作品を個々のオーディエンスが主体的に解釈し始めるまでは時間がかかるし、異なる作品の解釈が流通することはアーティストにとってリスクがある。しかし、そのリスクを適切にコントロールしながら、少しずつ歩みを進めていけば、コミュニティの外にまで作品を伝えることができるかもしれない。これは良し悪しではない。アンダーグラウンドであることと、オルタナティブであること、どちらを重視するかは価値観の問題だと思う。ただ、僕は後者に賭けたいと思っている。」

(“「踊ってしまう」音楽から生まれる文化|遠山啓一”)

「制作には確かにお金がかかる。金は稼がないといけない。しかし、金を稼ぐことがビジネス的な美徳へのオブセッションになってしまいがちなのが本当に問題な気がする。稼ぐことは稼ぐことでしかない。今の社会においては、金がないと作れないことが多いという、ただそれだけのことなのであって、稼ぐことと作ることは本質的には関係がない。資本主義社会においては、確かにそれらは混ざりやすい。だからこそ、それらを区別するための問いとして、「自分が本当に愛しているものを生み出せ/支えろ/消費しろ」と問うべきだ。その問いには、「自分は何を本当に愛しているのか」「本当にそれを愛しているのか?」という自問自答が含まれる。(中略)その愛や責任やプライド、その価値観を、クライアントが認めてくれるのであれば、マーヴィンの言うようにそれがブランドだということだ。」

(メディアのブランドとプライド──ICCシンポジウム「アジアのカルチャーシーンをつくるには」感想 後編)

「いま日本で、東京で毎日を過ごしていると、こんなにも暗い時代はないなと思う。自分に対して正直である=リアルであることと、目の前の現実=リアリティと向き合うことが、こんなに両立しにくい時代は今までにあったんだろうか。どの時代の人も自分の生きる時代についてそう思っていたのかもしれないが、いずれにせよ信じたいことは本当にいつも信じにくい。何かに対峙するたびに少しずつその思いは強まっていく。しかし同時にこうも言えるだろう。信じにくさは、リアリティの壁にぶつかりながらも、なお信じたいと思っている者にしか生じない。信じにくさ、もどかしさを抱えながらも、それでも信じにくいままでやっていく。」

(texiyama | 信じたいことは信じにくいから)

「大きな目的や「正しさ」を追い求めることは必要だ。(中略)しかし人々の生活に溶け込む想像力は、大きな目的や「正しさ」からは生まれない。それは日々の暮らしや小さな幸福感を生活の中で享受し、自分に素直に生きる人だけが作れる詩的な感覚から生まれていた。」

(“アアルトのデザインから感じた詩的な優しさ「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」展を見て|遠山啓一”)

東京という都市において良質な文化を生み出し、育み、遺していくためのファーストステップとして、とにかくプレイヤー(アーティスト)が、自分が自分でいること=リアルであること、そしてそんな自分を信じ抜くことに重きを置いているように思う。アーティストをマネジメントすること、それは当然金儲けの道具として使うことでも、ただ調子の良いことを言うだけの仲良しのケツ持ちになることでもない。自分を信じて人生を賭けた夢を見ることのできるアーティストを、自分の人生を賭けて守り導くこと。そんな遠山氏のパッションや覚悟、知性に、彼が手がけるCANTEEN(音楽マネジメント)、volvox(マーケティング/クリエイティブコンサル)と言った別事業から得たノウハウも加わって、ギロチンはマネジメントされているのであろう。ギロチンの作る展示や作品からは、いつも彼の自信を感じるし、私も勇気をもらうことができる。彼と併走する人間の思想を見れば、その理由は明らかであるように思う。

アートディレクター/グラフィックデザイナー・八木幣二郎

 八木弊二郎さん

日本では特に見落とされがちなように思うのだが、アーティストにとってアートディレクターやグラフィックデザイナーの存在は非常に大きい。SNSが普及しきった今、展覧会に先立ってその情報が載った広報物を目にすることが殆どだ。つまり、グラフィックデザイナーはアーティストイメージが社会的に構築されていくプロセスにおいて大きな役割を担う。八木のインタビューを読めば明らかだが、グラフィックデザインの未来、イメージを作るという仕事について新しい切り口から相当な覚悟を持って挑んでいることが分かる。今回、「獸」の入り口にはチョークでステートメントが手書きされた黒板があった。それが今回の展示の導入に緊張感を持たせていたし、鑑賞者と「獸」の世界観を共有することに一役買っていた。あれは八木の仕業だろうか。彼のアートディレクターとしての手腕を感じるに十分な仕事だ。

「獸」と"東京"

東京で生きていると、みんなが何かをしていて、クールっぽい何かをしていないと息ができないような気味の悪い緊張感が存在する。この「クールっぽさ」の幻想は個々人の大切なアートから目を背けさせ、クールであることが目的の何か、印象、スタイルやパッケージ、見栄え・見られといった外側の部分にフォーカスさせるような圧力を産む。だが、自分にとって明らかにクールな、かっこいい何かに出会った時、大切なことはそれを単に(豊かな生活やその印象のためのスパイスとして)消費するだけでは、あまりにも勿体ないだろう。なぜそれが自分にとってクールにうつったのか、自分にとってのアートはどういう形をしているのか、そのクールな何かを自分の文脈の上でどう昇華させていくか、じゃあ今本当に自分は何をやってみたい?といったように、自分の内側の部分との対話を促していく力が、良い芸術や作品には存在する。自分にとって今回の獸が、明確にそれだった。
私が散見していた今回の獸に対する批評のうちで特に好きだったもので、以下のせしもさんのツイートを引用したい。

今近所のラーメン屋で有線から流れてくる曲は、正直に言って耳を覆いたくなるものも多い。広告は完全に麻痺していて、本質的に良くない商品やサービスを、あたかも良いもの、特別なもののように見せて、顔の見えない誰かに向かって無責任に喧伝し続ける。

誰しも身近な誰かのやった何かに憧れて、何かを始めるのだ。
その起点になるかもしれない覚悟、もしくは誰か/何かを顔の見えない人たちの「身近」にさせてしまうかもしれないという責任をみんなどこまで感じているだろう?
私は、そういう覚悟や責任を伴った表現を、真に優れた芸術と呼んでみたい。

スターの真髄

思い返せば彼との出会いは2021年の五美大展まで遡る。あの無駄に広い会場で、一際異質だったギロチンの作品が一番良かったとは正直今でも思わない。その異質さ故の今とも思わないが、3年経った今、一番あそこから遠い場所に辿り着けているのは彼なのではないか。それは、単に芸術的な素養や技術だけによるものではない。自分を信じ抜き、好奇心や探究心を忘れず、自分の世界観を拡張していくことにひたむきに取り組んだ彼の実直さや誠実さ。そして台風のように人、権威、機会や運を巻き込んでいける求心力が彼を一際特別なアーティストにしているように思う。

偶然にも展示の最終日に「獸」に来ていたと思われるアーティスト・Tohjiにまつわる話で私が好きなものの一つに、「Tohjiは客がまばらにしかいない会場でも、自分が一番輝いていると信じることができる」という言説がある。その真偽は分からないが、スターがスターたる所以をよく現している言葉だな、と思う。恐らくギロチンは、電車を乗り継いで学校に行き、教室で居眠りをしながら白昼夢を見て、机やノート一面に絵を描いて、宝町団地を抜けて、タコ山公園で友達と遊び、家に帰って映画を見てから寝るまで、ずっと自分の描く物語を信じて疑わなかったのではないか。


おわりに〜もう一つの都市、もう一つの身体〜

東京という都市の中を移動しながら、映画・漫画・小説・インスタグラム、詩...といった他者の創出した様々な物語と同時に往来することによって、ギロチンの鼓膜に焼き付いた景色と立ち上がった心象風景は複雑に混ざり合い、強烈なイメージを伴って今私の前に現れた。それはある種現実と空想の境界線を見誤りそうになる白昼夢のような体験であった。まるで都市の内側に作られたもう一つの都市との出会い。その静かに熱を帯びたコンクリートと机が軋む音、過剰なスモーク、山手線が天使の体を貫く轟音、ズボンの裾を濡らした子供。ビルに入った時はただの鑑賞者であった私は、若干25才の青年が作り出す風景や物語の中で踊り、階段を登り、なんと机にも登り、水と煙に注意して進んだりしながら外に出て、狭い通路を抜けて出口を出た時、すっかりその物語の一員になったような気がしたのだ。歩を進めるたび少しグラつく机の上で、気まずそうに顔を見合わせて笑い合った他の鑑賞者たちは、まるで喋ったことのないクラスメイトのようだった。ビルとビルの地下によって拡張された私の身体は、展示・ライブ・パーティー...そのどの言葉にも当てはまらない複雑な体験の数々を経て、東京という巨大な都市の中に作られるもう一つの現実、もう一つの都市の中で生きるための身体を与えられたのだ。

そしてその都市’の中での暮らしは、私が現実に戻った今でも続く。続いている。この都市’で生きる私は人間とか、大学生とか、東京育ちとか、男とか、そういうラベルを失った一つの獸としての身体である。この身体で私は今日も街を歩く。

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