見出し画像

【※ネタ記事注意】桃月はぐの朝活雑談の特異性及びリスナー心理に関する論考

はじめに

 桃月はぐ。彼女を知ったのは昨年12月頃だっただろうか。
 当時、白玖ウタノ→心羽白ぬいの→三日月ちゆるという順番でハマり、UniVIRTUAL沼に膝下ぐらいまで漬かってしまっていたところに、トドメを刺したのが桃月はぐだったかもしれない。

 その原因を掘り下げてみると、なんといっても彼女のメインコンテンツとも言える朝活雑談に思い至った。UniVIRTUALを追い始めた頃は、雑談配信というものにあまり興味を持てなかった私が、どうして彼女の雑談配信にのめりこんだのか。単に『推しだから』という以上の要因があるのではないか。

 この記事は、5/23の朝活雑談にて『主観しかない桃月を書いてほしい』とリスナーに呼びかけたことから、特に彼女のメインコンテンツである『朝活雑談』の魅力要因とこれに関わるリスナーの心理について、拙い知識で考察するものである。

 なお、この記事は大真面目にふざけることを目的としたネタである。学術的な見地や配信活動・リスナーの行動に関する批評の意図は全くない。
 
Vtuberの楽しみ方はリスナーそれぞれで違う。行動の解釈も人それぞれだ。バリバリの個人の主観であることを踏まえてお読みいただけると幸いである。


雑談配信の一般的性質について

雑談配信はなぜ成立するのか

 桃月はぐの朝活雑談の特異な要素を語るに当たっては、最初に雑談配信の基本的原則を先に整理しておく必要があるだろう。
 現在Youtubeなどで行われている雑談配信というのは、当然のことであるが、生配信とリアルタイムのコメントにより成立しているものだ。
 SNSが普及する前の従来のメディア(TV・ラジオ・新聞など)においては、専ら情報の発信元はメディア側であり、視聴者は受け手に徹するものであった。雑談配信と似たような言葉にTVのトーク番組が挙げられるかもしれないが、これもメディアの中の複数の演者が話しているのを視聴者が眺めるという形を前提としている。時には『視聴者からの質問・お便り』という形で視聴者側が参画する場合もあるが、メディアが恣意的に設定する以上、機会は非常に限定的であると言えよう。
 これが雑談配信になると、トークの性質は一変する。これには従来受け手でしかなかった視聴者側がリアルタイムでコメントできるようになったことに起因する。今までメディア→視聴者という一方向性の情報伝達のベクトルに、いつでも誰でもコメントという形で参画できることで、視聴者→メディアという逆方向のベクトルが加わったのだ。
 これによって、リスナーにはより能動的な選択肢が生まれた。配信というメディアに対してコメントという形でアクションを起こし、配信者の行動に
即時に影響を与えることで満足を得ることができるようになった。
 また、行動が変わったのはリスナー側だけではない。メディアである配信者側もトーク相手を必要としなくなった。リスナー側がその役目を果たしてくれるからだ。配信者はコメントの反応を通じて話題の内容を調整することができ、時に切り替えることができる。だから一人喋りであっても雑談配信は成り立つ。
 また、同じ配信であっても、歌枠やゲーム枠では必ずしもリスナー側の参画を必要としない。極端な話であるが、リスナー全員が従来のTV番組のように受け手に徹していても配信としては成立する。
 つまるところ、雑談配信というのは、現在のYoutubeなどの生配信のプラットフォームにおける双方向的な情報伝達(=コミュニケーション)があって初めて成立し、最大限に活用しているものなのだと考える。

双方向的コミュニケーションの限界

 さて、ここまで雑談配信における双方向的コミュニケーションを強調してきたが、現環境においては限界があることを述べる必要がある。リスナー側からのコミュニケーションを無制限に認めると、雑談配信は成り立たなくなってしまう。なぜならば、雑談配信という新しい形においても、従来のメディアのように『一対多』の構図自体は変わりがないからだ。
 例えば、配信者が『今日はいい天気だ』と話した。それに対してリスナー4人が①『暑いよね』、②『こっちは雨だよ』、③『ところで花粉症って大丈夫?』、④『〇〇っていうゲームおもしろいよ』とコメントしたとする。
 これらのコメントに対し、①→『本当に暑い』、②→『雨のところもあるんだ』などと返すケースはそれなりにあるだろう。しかし必ず反応されるとも限らない。③は次の話題に困ったら拾うこともあるかもしれないが、期待はできない。④に至っては反応する配信者はほとんどいないはずだ。1人の配信者が多数のリスナーを相手にする以上、全部を相手にすることは到底無理なのだ。ここから推測できる暗黙のルールが2つある。
 ①話題の選択主体は専ら配信者にある。
 ②どの視聴者のコメントを読むかは専ら配信者が決める。
 これも当然のことではあるが、先の双方向的コミュニケーションという意味では制限されていると言える。リスナー側からすると、投げたボールを配信者が受け取ってくれるとは限らないわけだ。
 また、リスナーが聴きたいのは基本的に配信者の話であるということも忘れてはいけない。リスナーの話題ばかりでは、本来大多数のリスナーが求めている配信者本人の話が進まず、冗長なものと感じやすいし、時間がいくらあっても足りない。雑談配信の秩序を維持するためには、コメントの取捨選択は悪ではなく、むしろ求められるスキルだと言えるだろう。
 つまるところ、どこまで行っても配信では『配信者が神』だ。どういう話題を選択するか、下々の民草(=リスナー)の声のどれを拾うかを決めるのは配信者だ。これは配信者自身を護り、長くリスナーを満足させるためにも必要なことだと考えられる。

桃月はぐの朝活雑談の特異性について

2024/1/1 朝活雑談の様子

衝撃のコメント読み

 前置きが長くなったが、ここから桃月はぐの朝活雑談の特異性について述べていこう。
 彼女の配信において私が最も驚いたのは、ここまで述べた当然ともいえる雑談配信の前提をギリギリまで切り崩しているということだ。
 『🌕おはもぐ🍡』と、リスナーが挨拶をコメントするのは、他の配信者の朝活でも珍しくない。しかし問題はその後だ。本来ならスーパーチャットでもなければ全文読まれることはないであろう長文が文字数制限ギリギリまで続く。しかもそれが一人や二人ではなく、配信前の待機コメントからずらりと並んでいるのだ。
 以下は私が初期に書いたコメントの一例である。

🌕おはもぐ🍡 新参ですが、今年はありがとうございました。ところで昨日、ふとお絵描きアプリを開いたんだ。絵心のなさに数年前に諦めたイラスト制作。久しぶりに推しのファンアートを描こうとラフを進めるうちに「なかなかいいんじゃない?」と筆が乗って約3時間。ここで初めてバランス確認でキャンバスを左右反転させたんだ。……全身が歪んだ化け物がそこにおった。そっと画面を閉じた年末でした。

 他の配信だったらこんなコメントを多発していたら無視されるのがオチである。場合によってはブロック・タイムアウトさせられる。だが、これでだいぶ薄味のコメントだ。長く桃月はぐの沼に浸かったはぐっこは、この100倍は濃いコメントを文字数制限いっぱいに書く。その内容も様々で、前日の配信の感想や次の配信への期待もあるが、全く関係のないリスナー自身の私生活の出来事だったり、ただただネタに走ったものだったりする。
 桃月はぐはこれらのコメントを許容し、『おはもぐ運動』と称して全部読む。そう、全部読むのだ。これが彼女の朝活雑談の最大の特徴であり、先に述べた雑談配信の一般論に照らすと、その特異性が際立つ。
 話題の選択権は配信者側にあることや、どのコメントを読む(掘り進める)かは配信者側が決めるという大原則自体は変わらないにしても、その話題のきっかけを作る機会をリスナーに与え、選別することなく採用しているのは特筆すべきだ。『🌕おはもぐ🍡』の後の内容は全部読むことで、『話題の提供』というコミュニケーションのイニシアチブを渡しているのだ。
 このことによって、そのコメントを読まれたリスナー個人の満足度は確実に向上する。アサーティブコミュニケーションの文脈でも『傾聴』と『共感』が話し手の満足度向上に繋がることはよく知られた話だろう。読み上げる=復唱するという行為は、最も強い『傾聴』の手法であり、その時点である程度の『共感』を示す行為だと言われている。
 また、これに加えて、彼女は全くと言っていいほどリスナーからの話題を否定せず、何かしら肯定的なコメントを付すことも多い。『共感』についてもしっかりと条件を満たしているのだ。

『脱線』の重要性

 ところで、先の原則は、配信の秩序の維持のために必要だと述べた。
 本来、これほどリスナーのコメントを読み続けていれば、配信者本人の話を期待するリスナーに飽きられてしまう。普通の配信者が真似すれば配信が崩壊しかねないことなのだ。
 これを可能にしているのが彼女のトークスキルだ。トークの技術と言ってもいろいろあるが、一般的な語彙力ではなく、ここでは『話題の転換力』に注目したい。そう言うと聞こえは良いが、平たく書けば『脱線』である。
 だが、この『脱線』が配信におけるリスナーの統治に非常に役立つものだと考えている。リスナーのコメントを読み上げた後、多少強引であっても微妙に関連付けながら自分の話に繋げることができるのだ。これはリスナーが気付くかどうかは関係がなく、実際のところ、「まーた脱線する」などというコメントはよく見かける。
 しかしながら、この微妙に関連させた話題の切り替えという手法は、効果が高いものだ。次のようなシーンを想像していただきたい。

一人が多くの民衆の前で懺悔する。
→神職者『貴方の願いは聞き届けました』
→神職者『ところで聖典にこのような一節がございます』
→直接関係のない聖典の話に繋げる。
→民衆全体がありがたいと思う。

 自ら体験はせずとも、映画やアニメのワンシーンで見たこともある方が多いのではないだろうか。
 つまり、この話題の切り替えによって、個人の願いが受け止められたという局所的な満足感は、本来求められている神の御言葉(=配信者自身のエピソード)に昇華され、全体の幸福に繋がっているものと考えられる。こうしてリスナー個人の局所的な満足とリスナー全体の幸福が共存する構図が成立しているのだ。

リスナー満足に繋がる諸要素

 上記に挙げた他にも、桃月はぐ自身の特徴的な言葉選びも、リスナーに満足感を与える一因だと考える。いわゆる『ずびべべ』や『わかりる』などだ。特定のコミュニティの中でのみ通用する言葉は聖句のようなものだ。一般にはわからないが仲間内で通用する言葉を使用するのは特別感があり、相手への声が届いている実感がわきやすい。
 また、彼女自身リスナーをいじるし、いじられるのにも大らかだ。珍獣とすら形容される一方で、リスナーに特殊な洗礼名をつける。堂々と下ネタをぶっこむリスナーもいれば、失言をして捻りつぶされる者もいる。
 この土壌ゆえか、オープンなコミュニティでありながら、リスナー全体の雰囲気も寛容だ。リスナーのおはもぐコメントがおもしろければ笑い、ツッコミを入れ、時には丁寧にアドバイスを返すこともある。こういった体験も、総じて言えば、桃月はぐの朝活でしか経験できない満足感だ。これがファンの定着に繋がっているように思う。

最後に

 さて、ここまで桃月はぐの朝活雑談の特異性について、個人的な考察を書いてきた。大胆な配信の構成、類稀なるトークスキル、彼女独特の言葉遣い
などが上手くかみ合ってリスナーの満足に繋がっていると私は考える。

 なんだか怪しい新興宗教の手法のようにも思えてきたが、不幸になる者がいないので、たぶん問題はない。
 もちろん、桃月はぐ自身のキャラクター性という面にも着目すべきだとは思うが、脈絡が無くなってしまうので、他のはぐっこさんたちに委ねたいと思う。

 それでは、最後に一番重要であり、最も主観的な一文を書いて、この長文レシートを終わりにしたい。





た ぶ ん 桃 月 な ん に も 考 え て な い 。

(※考えてたらごめんね)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?