『ミステリと言う勿れ』ってそういう話?読んでもいないこの先の話をしよう【追記あり】
『ミステリと言う勿れ』ってほんとにそういう話?
多様性とポリコレの時代に、キャッチーな人生訓でバズり続け、10月からはドラマ化も決定している人気漫画『ミステリと言う勿れ』。
この漫画に対する世間の評判がさ、「よく言ってくれた!」「わかる!」「その通り!」っていう、主人公の人生観への共感と絶賛一色なんですよ。私は以前からそれに対して、いやそういう話じゃないでしょって違和感一色だったのですが、そんなところに逆に、主人公が毎回名言でねじ伏せるのってどうなんだよって意見もあるようで、私はそれにもいやいや違うだろって思っちゃうんですよね!
絶対この作品を最後まで読めば、そんなオチにはならない。
『ミステリと言う勿れ』に関して私は単行本派で、現在は発売されたばかりの第9巻を読んだところです。続きのことは全く分かりません。しかし、多分こうじゃないかというネタバレはできる。知らないんだからネタバレじゃなくて、正確には予想なんですけど。
『ミステリと言う勿れ』ってほんとはこういう話?
まずさ、どうしてあれを、「主人公いつも鋭い! 深い! 凄い!」って話だと思っちゃうんでしょうか。あの主人公がどういう人物なのか、ちょっと考えてみましょうよ。
主人公の久能整(くのう ととのう)ってね、一大学生ですよ。確かに毎回、鋭い視点で本質や誰も気づかなかった一面を見通すような台詞を吐きますが、それって本当にすべて正しいでしょうか? 作中で、すべて正しいこととして描かれていますか? 仮にそうだとしても、今後もずっとそうでしょうか?
まず最初の事件。いわゆる安楽椅子探偵ものですよね。主人公が容疑者になり、取調室から一歩も出ずに、事件の真実を暴く。これ、主人公のキャラクターをとてもよく象徴した話だと思います。(作者、本当に漫画が上手い)
整は、自分の殻の中では完璧に正しい論を展開できる青年なのです。
彼がいつも、時に冷徹とも思えるほどに物事の正鵠を射てみせるのは、彼がいつも第三者だからです。岡目八目という言葉もありますが、誰にも感情移入も肩入れもせず俯瞰で考えれば、人間て意外と真実が見えるものです。
整が他人を拒絶して、深く関わらないように生きてきたことは、作中、随所で仄めかされています。自分が他人に何らかの影響を与えることを、恐れてすらいると、読んでいて感じたことはありませんか? 特に子供の可塑的な精神に傷をつけることに対して、細心の注意を払(うべきだと思)っていますよね。
しかし話が進むにつれ、整は、人との関わりを深めていきます。それは事件に巻き込まれる形のこともありますが、最も大きいのはライカとの交流でしょう。最初こそ戸惑い拒絶の意思も見せていたものの、今では彼女との約束を楽しみにし、フルーツサンドを食べに自分から誘います。
少しずつ他人に興味を持ち始める整。彼は単なる第三者という地位を捨て、他人と関わる当事者としての人生を歩み始めました。双子の見分けを最初は断固拒否していても、気になって自ら家庭教師を買って出るほどに。
その変化を受けて、最新刊では彼の正しさに綻びが生じました。
「僕 いつも思うんです
役割はなくて
名前で呼んでほしいって」
(『ミステリと言う勿れ』田村由美/小学館フラワーコミックスアルファ/第9巻29ページ)
おそらくこの整の台詞に、首がもげるほどうなずいた長女(あえて長男でなく長女と書く)は多いことでしょう。しかし今回はこれを受けて、自身も長女である家政婦の詩(うた)が異論を唱えます。
「もし この人たちが…
親兄弟がみんな
亡くなってしまったら
もう
誰も
“お姉ちゃん”とは
呼んでくれないんだな…って
(中略)
だから
これはこれで
1つの家族の
宝物でもあるんだろうな
ってね」
(『ミステリと言う勿れ』田村由美/小学館フラワーコミックスアルファ/第9巻29ページ)
これを受けて、自分の未熟さを認め前言について謝罪する整。おそらく今後は、こういったことが増えていくのではないでしょうか。
整がこれまで正しかったのは、人と関わらない第三者でいられたから。彼の正論は机上の空論であり、理屈の上では正しくても、実際いつでもその通りできるものではない。そんなことを思い知って、彼はこれまでのようにはおいそれと断言できなくなっていく……と、私はそんな気がしてなりません。
いわば彼はこれまで、現実を知らないことで正しさを保っていたのです。複雑な現実を知れば、正論なんて簡単には選べません。大事な人ができれば尚更、公平な判断なんかできないでしょう。
そもそも、彼の容姿も象徴的。作者には珍しい主人公のアフロは、頭でっかちの示唆ではないでしょうか。過去を自分の中に押し込めて、頭の中だけであれやこれやとシミュレーションし、答えを出してきた彼の人生が窺い知れるようです。
彼は過去に、心に大きな傷を負って、その傷から目を逸らし続けて生きてきた。これは間違いないでしょう。それを悔やんでも悔やみきれないからこそ、自分の代わりに子供たちは救いたい。そんな思いから教師を目指しているのだと考えられます。これが“セメント”の話ですよね。
しかし子供たちを救うには、彼はあまりに未熟で色んな事を知らなさすぎる。もっとたくさんの人やモノに触れて、成長しなくてはならない。そうして彼はこれから、積み上げてきた自論など薄っぺらい夢物語だと知り、アイデンティティが崩壊するような目に遭うことでしょう。しかしそれを乗り越え、必ずしも教師になるとは限らないものの、自分の人生を現実として生きていく。―――そんな結論が待っているのでは、と私は思っています。
とにもかくにも田村由美氏はスゴイ
とまあ、整の人生訓万歳の風潮に個人的には異を唱えつつも、それが作品の特徴であり人気の理由であることは事実。それにきっと、作者の田村由美氏はそれを意識して描かれているんですね。
何だかんだで、共感を集める名言はバズる。今の時代SNSの拡散力は人気や売り上げを大きく左右します(知らんけど)。よって時代的な傾向を読んだうえでの仕掛けというのが、この形式をとった理由の1つでしょう。
そしてこれは、今後来る価値観の転換への伏線でもあるのかもしれません。読者が整の人生訓に共感し称賛している方が、それが実は単なる机上の空論でしかなかったことは大きなショックを与えることになりますから。
※以上はあくまで私の頭でっかちな持論です※
※過度に信じるな※
―――と思うんだけど、どう?と、読者の1人である旦那に意見を求めたら、
「別になんも考えてない。先が気になるなー、どうなるんやろーって読んでるだけ」
とのことでした。あんたのそういう読者として純粋で一流のエンターテイニ―なとこ、すごい良いと思う!!!!!
最後はのろけになっちゃった。まあいいだろ。
【2021.07.13追記】田村由美氏の過去作品のこと
田村由美氏が、暗い短編を量産していた時期ってありませんでしたっけ。多分1990年代終わりごろだったと私は記憶していますが。ミステリ仕立てだったり、世にも奇妙な的なオムニバスだったりと形は色々なんですが、エンタメ性はほぼ皆無で、どれもこれもとにかく暗い。
この時代の短編群が、萩尾望都氏でいえば『残酷な神が支配する』に当たるんじゃないかと私は思っています。つまり自分と親との関係と、そこに根差す自分の人生についての懊悩とでもいいましょうか。
当時の短編の多くは、何故そうなったのか、何が悪かったのか、そもそも何が悪くて何が良いのか…といった問いと格闘しているようでした。中でも私の記憶に強く残っている1篇が、「彼女は誰を殺したか」(小学館刊『田村由美The Best Selection』所収)です。
ある女が男を殺したと自首してくるシーンから始まるミステリで、刑事が彼女の手帳から、その殺人に至るまでの人生を読み解く形で進みます。そしてその手帳の最後には、自分をつまらない女に育てた父を殺したと告白されていました。(←ちょっとうろ覚えなので間違ってたらすみません)
田村由美氏は過去に著作『巴がゆく!』のあとがきで、自分の家族について触れています。(←これもちょっとうろ覚え…) 氏は田舎の3人姉妹の長女であること。父と向かい合うとつい何も言えずに泣いてしまうこと。
この家族関係は、氏の著作に強く反映されています。『巴がゆく!』の巴に、『7SEEDS』のナツ。そして最も生々しく描写されているのが、先述の「彼女は誰を殺したか」の主人公です。
そうやって著作を繋げて読んでいくと、『ミステリと言う勿れ』は、おそらく氏の人生訓の集大成です。作者自身のルーツに関する悩みをようやく冷静かつ穏やかに開放する方法に辿りついて、それを語ってくれるんだな、と期待させてくれます。(あくまで私にとって) 個人的には、「龍三郎くん」シリーズ以来のヒットですね!
田村由美氏といえば『BASARA』『7SEEDS』ばかり挙げられますが、短編にはより“田村由美らしさ”が凝縮されている(ものがある)ので、興味があったらどうぞー。
で、これも多分なんですが、田村由美氏は静みたいな姉になりたかったんじゃないかなー…。多分。わかる人だけわかって。
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