期待と不安

誰かのブログや記事を見る時でも、
リビングミラクルズの動画でも、
勉強会やオンライン参加でも、
シェア会でも、
誰かとの会話やZoomでも
本でも、家族や友人との会話でも、
アダルト動画でも、
ゲームや映画でも、
SNSやブログの いいねの数も、
食事も、
天気も、
「これは自分の欲求を満たしてくれるのか、
自分のニーズや願望を叶えてくれるのか?」
みたいな期待と、
そうでなかった場合への落胆への不安、
これがいつもある。
全部、同じだった。

対象物が自分を満たしてくれることを期待して、対象に自分の幸福を左右するパワーを与えてきた。
だから、自分が弱いように感じてきた。
学生の頃は、クラスメイトが自分を嫌うか、
受け入れてくれるか、見下すか、評価するかが自分の幸福を左右すると
信じて疑わなかったから、
自分が弱く感じていた。

この信念がある時は、それだけが現実になってしまって、
本当に、その信念の向こう側が全然見えなくなる。
つまり、その対象物との関係に、
本当の自分の平和や幸せは、
全く左右されないし、
なんのパワーもないのが、
まるで見えなくなる。
で、自分の心が弱く感じる。
心の信念パワーが無意識化されたから。

だからいつも、
「相手や対象が自分のニーズや欲求に応えて
くれるのか?」
という不安が意識の底流にあった。
今、それに気づけなかったのが不思議だけど、
対象から何かの快感や満足、愛や安心を得ることに夢中だったからか、気づけなかった。

ライラも同じことを言っていた。
特定の対象物を味わって、そこから満足や快感を得たい衝動というか、
欲求がある、その力動が、
真理との一体性から気を逸らす防衛になっていた、と。
それのことだったのか。

まだゲームとか、配信とか、上に挙げたモノたちへの執着心、
「これが自分に、それだけが与えてくれる特別な幸せや快感、愛とか受け入れてもらえてる感、親密さ、気持ちよさや満足感がある」
という信念はあるけども、
その信念の目的は、
「すでに真の自己は完璧で全体で、
必要なものや足りないものは何もなく、
完全に充足しており、
その平和と満足さは、この世界の何ものにも
全く左右されない」
という認識への抵抗、防衛なんだろうか。
すでに、真理においては、
完全無欠な存在であることへの。

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