母と犠牲

ちょっと重くなっちゃった記事だけど、
まぁいいかと公開。
母が仕事と父の病院から帰ってきて、
「〇〇コーヒーってわかる?」
と言うから
自分が「挽いて作るやつ?」
と言うと
「そう。お父さんが挽いたやつが飲みたいって言うから」
と言った母は何か、
「疲れた、大変だった」
みたいな感じだったので、
「大変だったね」
と言うと、
母は良くぞ聞いてくれたと言う感じで
「もうホント大変だった」
と言った。
自分が「普通のコーヒーじゃいけんの?」
と聞くと、
母は
「うん、お父さん、
それしか楽しみがないけぇね、、」

自分が「でも、それじゃ母さんが、、」
と言ったんだけど、
母は無言で「仕方ないのよ。
これしかないの」
みたいな感じだった。
何か、
今思うと、
「わたしがお父さんに犠牲を払って
面倒見なきゃ」
って言う、
何かその役割に母が自分の価値みたいなものを
見い出してるように感じた。

「世界でひとり、妻である自分だけがやれる仕事」みたいな。
苦しみつつ、
犠牲を愛しているというか、
「犠牲を払う涙ぐましい良き妻」
を演じて、
その役割を演じていれば、
同情してもらえるし、
良き妻の承認をもらえる、
まるで何か報酬がもらえるみたいな。

自分と母の関係もそうだけど、
確かに、
自己概念への執着というか、
「それ以外の道があるかも」
というのに心を開きたくない
感じを感じた。

自分は自分で、
その役割をやれとなったら、
「面倒くせぇな、
やりたくねーよ、
よりによって親父のために」
と思うし、
母に犠牲を払わせている辛さもある。
俺も犠牲を信じているのか。
祈ろう。

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