なんか劣る感

コミュニティリビングについて先日書いたけど、
やっぱり感じるものは、
「家で生活するというか、
今の自分の生き方よりは
コミュニティリビングとかの方が
なんか得られるものが多いだろう、
キツいことも増えるけど、
進歩とか変化のチャンスも多いだろう、
その道を選ぶ人に比べて、
自分の道はより何か足りないというか
良き何かが少ないことになるだろう、
なんか、損するというか、
チャンスを失う感」
みたいな感じだった。
置いてけぼり感というか。

劣等感みたいな感じもあるけど、
「よりキツい道に行けばより
早く進歩できるから、
そっちの道を選ぶ人に比べて
自分は劣るというか、
経験とか体験の量で負ける」
感じというか。

勉強会とかシェア会も同じだけど、
「これに参加して何か得られるものがあるなら」
感というか、
なんかそこに参加しているのは
正しい道で、
その道にいたらなんだかんだ経験しつつ、
最後には救ってもらえるけど、

その道からハズレたら、
ある種の落ちこぼれというか、
救済への細い道を転げ落ちるみたいな。

のりこさんは「各自のペースで、
焦らないでゆっくりでいいですから」
って言ってくれてたけど、

去年に勉強会とか参加してて
無意識には、
そういう
「失う恐れ」「孤独になる恐れ」があったし、
なかなか自分ではわからなかった。
だから一旦更新をやめた時、
すごい恐怖とか罪悪感、
学習チャンスとかつながり感の喪失感が
一気にきた。

よく考えたら、
大学を辞めた時とそっくり同じパターンなのが面白い。

霊的な道でも無意識にやることは同じだった。

お金のこともあったけど、
自分はたぶんその強迫観念がキツくなって
やめざるを得なかったというか、
一旦やめるガイダンスにならざるを得なかったと思う。
お金が無料でも続けられなかったし、
シェア会もそれでか参加する気は今は
なくなった。

これが全部間違えた解釈に基づいているなんて、
あり得るだろうか?
という気分になる。
重たい、深刻にしか感じられないことに
取り組む時はいつも、
この知覚に訂正を求める意欲を差し出しても、
訂正してもらえる感が全くない、
絶望感しかない
という感じになるんだけど、
ひろゆきなら
「あのなんだろう、
嘘つくのやめてもらっていいですか?
それってあなたの感想ですよね?」
と言ってくれるのか。

リビングミラクルズの
ダイアナ・マーキン(Diana Markin)という女性が
リビングミラクルズのコミュニティに
しばらく参加した後、
イエスから
「一旦コミュニティから離れて。
あなたが他人に依存しているという
信念を持たせたままにはしないから」
というガイダンスがきたという話を
デイヴィッドの横でしていたのを思い出す。


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