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「黒揚羽蝶は夢も見ない」

道を変えた

田戸作どんのシャトーの行き帰りの道

僕は楡の木を避け、反対側から回ることにしていた

踏切で足止めを食らうこと
ただ単に部屋が変わって、その道から行くのが億劫になったから

餡ドーナツときんつばをひとつづつ

帰り道

小さな和菓子屋のショーケースから買い求める

なんだか平べたい餡ドーナツときんつば

じゃりっとしているだろう白砂糖がまぶしてある

きんつばは深い海の泥のように黒い

見るからに甘そうだ

だが食いつくと後悔した

何度も食べたことがある
でも味を忘れてはっとする

旨かった

なのになぜたまにしか買わないんだ

売れ残り

いや、売り残し

全部買い占めれば良かった

田戸作どんにもやれば良かった

名店の味は忘れるものだ

行列の出来る妙な若い店は、何か中毒性の秘薬でも入れているのだろう

からくりは微量に上手く使えばいい

だがいずれは飽きるのだろう

それは若気の至り

またいつか買うだろう

道を変えた日に

餡ドーナツときんつばを白い紙袋に入れてくれた

ひとつづつ

その白い紙袋を見て、田戸作どんのシャトーの葡萄の袋掛けを思い出す

今の時代、労働する子どもは減ったな

家業と言うのか

家の手伝い

自分の部屋の掃除
食べたものの食器
洗濯物すらしないのか

おのおの、の家のことだ

人前で要領よく振る舞えれば問題ない

田戸作どんも僕も、うるさく言われた幼年時代に、今は少し感謝と誇りを感じている

口には出さないが

ふとこちらから向きを逸らす横顔が

意味深さを増す

長く傍らにいると

何かあったのかと様子や態度でわかるものだ

風が強く吹いた

数日

春一番と言うのがあるのなら

台風を含め

秋十番があっても良いと言う気がする

田戸作どんの納屋の外れの木材置き場で火が出た

僕は焦げ臭いな
誰かゴミ燃しでもしているのかと思うくらいだった

ーーお前、火を点けたか?

ーーまさか知らない。焦げ臭いから誰か燃やしているとは思った

ーーお~い。勝手に火が点いたらしい!

見に行くと白い煙が風に煽られ、幸い納屋には被っていなかった

ーー火の気のない所に煙は立たない

ーーもしかしたら中で、前の燃え芯が点いたのかも知れんな。くすぶっていたんだろう

ーーそれが強い風で火が点いたんだ

ーー怖いなあ

ーー田戸作呼んで来い。あの時あいつに後始末頼んどいたんだ

ーー・・・

何も言わないが機嫌の悪い、怒ったような、視線を逸らしながらも、静かにまっすぐ前を見ていた田戸作どんを今でも覚えている

あの時、田戸作どんと僕は中学生だった

あれから

高校に進み、農業大学校と醸造の大学に分かれて
田戸作どんがファームとシャトーを継いだ今まで
田戸作どんは寡黙に働き続けた

恋は

したかも知れない

したけれど、田戸作どんは何かを心にしまい込んで生きてきた

周りに、親に勧められるまま

地主の娘と結婚することを決めた

薄い黒紫の葡萄の汁が指にしつこく付きまとう

糖度が強い
皮のしぶは丁度良く、噛み合わない違和感を
中和する心地よさがあった

違和感は、何も言わない田戸作どんにあった

田戸作どんの倉の真上、二階のバルコニーに上がると、いつも黒揚羽蝶が現れる

このバルコニーのある部屋だけは趣味が違った

今でもここにサナギを作ると言うのなら
変わらずあるのは蜜柑か椿の木しかなかった

腐りもしない
風化もしない
黒揚羽蝶の死骸
標本にするでもなく
そこに放置されている
田戸作どんの心

いつもの蝶は知らないふうに
踊るように飛んでいった

冷たい床に横たわる黒揚羽蝶の羽に
灰色の模様が浮き出ていた

粉茶のような茶色の粉が床に落ちている

鱗粉が剥がれて来たのだ

まだそのままの
美しい姿のままで
小さな花壇の花の上に止まらせた

小ブーケのような撫子の花か知らないが、濃い薄いピンク色の花に留まるのは、本物と変わらない黒揚羽蝶そのものだ

ただ死んでいるというだけ

西洋風に言えば

(アデュー、って風情かな)

忘れて次に通った時

そこに死んだ黒揚羽蝶はもういなかった

(いつもの黒揚羽蝶が連れて行ったかな)

少し夢を残しておきたい気分だった

田戸作どんの花嫁は短大を卒業して
花嫁修業をしていたと言う
スレても居らず、今風にしては、素直で聞き分けよく、上質だろう

無口だが粗野でもでくのぼうでもなく、冷静沈着にシャトーを率いる田戸作どんは、男の僕から見てもイイ男だ
穏やかで、よそ様のお嬢さんへの気遣いも、至って常識を心得ていると、本能でお姫様にはわかったことだろう

夜も昼も従順に、素直で可愛らしく
これまで通り小鳩のように笑う
誰にも傷付けられることなく守られて
田戸作どんのシャトーは永遠に続いて行く

女は優しく丁寧に扱うものさ

小鳩のように目をつむり
夢見るように微笑むドールを見下ろす田戸作どんは、黒くて何も見えない外を見つめながら、探している
いないとわかっていても、その姿を待っている

穏やかに、大切に、守り育てながら
繰り返しの毎日に文句も言わず、イイ夫として生きて行く

まあ、そういうのが一番いいんだと思うよ
結局は

どこかにいるのだとしても、現れない限り
本当に存在していたのかと不思議に思うことも、思い出しても冷静に感情を仕分けしてゆける

見たら終わり

堕ちる魔性の恋

小鳩の夢か黒揚羽蝶の夢か

どちらが狡猾か上品か

どちらも狡猾か上品か

田戸作どん次第

やれやれ
そろそろボジョレーヌーボーの季節だな

にわかにワイン攻防戦が下の町でも始まる

田戸作どんのシャトーのワイン以外

田戸作どんのワインは濁りない

澱りがあるとしたら底に沈んだ一粒の血

それは硝子玉のように透明度があり
ワインよりも血よりも一層濃い

宙を舞っていたのに
今は地上に沈んだ

たったひとつ

黒揚羽蝶が遺して行った真実かな




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