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幻想小話 第三十六話

うめでよし

その邸へはなだらかな坂と、短いが急な斜面の坂からどちらからも往けるようになっていた
邸の北側には一族の墓が更に高台にあり、真下から見上げると墓石がそっぽを向いているような、背を向けているように思えた
もしかしたら高台から見通すように建てられていたのかも知れないが、参る人の顔が見えると言うことはあちら向き、と言うことだろう
その真上に抜けるような青い空と白い雲があり、私の記憶はいつもこの下の道から
あの高台の上にあったためしがない
だから私には、あの高台の上から遠く市街の景色も百景に入る海も、どう映るのか知らない
万代を連れて避暑するには何かと不便な田舎であった
ただ下部の集落よりも整備はされており、水捌けは良い
下部地は見渡す限り田んぼが多く、田んぼと区別するかのように高い小山のような土手から先が見えない
なのでこの下部地は水を引いている大本の川が決壊すると、よく沈んだりするのであった
大雨や大雪はしばし、この地を脅かした
平屋ばかりだがこぢんまりとした邸が多い
後ろ側は暗い森のようだが、伸び放題と言う訳ではなく、少なからず清浄な空気を出している気配を感じる
それなりに暑いが強い陽射しを受けることがなく、この邸のある階層は、ゆっくりとゆったりとした時間が流れていた
竹居のある邸が多く、外壁も黄み色仕立てが目立つ
似たような景観の立つ並びは、空気の流れさえ一定に循環してくれるようだ
わたしはふと、自分の周りに紫煙が渦巻くような気持ちになった
万代はというと、玉虫色の輪のような、その輪の周りも煌煌と光る宝石屑がついて、回っているような雰囲気の人だった
座敷側の庭は小さいのだが葡萄棚があって、収穫出来るまで、いや次の春までいても良いような気になっていた
葡萄の実に袋かけをする頃に、ここに来たかったのだが、残暑になってしまった
袋かけをしてみたかっただけで、鳥に喰われる風もなく、蟻が幹をよじ登ったりするが悪い虫は見当たらず、毎日眺める景色は平和であった

記憶の底から甦る村社
これより後新嘗祭、大祓え、例祭までおるかも知れなかった
黒と白の碁石を埋め込んだような風呂なので、万代が湯を沸かして支度をするのも憐れで、石の風呂では湯もすぐぬるくなる気がした
間に合わず残念だったが、辰巳の日に祭りがあったそうだ
幼き頃とまだ稚い時分は気付きはしなかったが、物事の結び目と言うものに、わたしはようやっと辿り帰って来たかのようだった
その結び目は強く結界されたものなのか、朽ちて不穏な因縁なのか、まだ私の中で答えは出ていない
「万代さ~ん」
万代と呼び捨てするのは滑舌も悪いので、私は奥に声をかけた
ここに来てからは二人で坂をのんびりと、爪先をつんのめりそうになりながらも歩いて、竹林を覗き見るのが主だった
今年は用意が悪かったので、来年の春に竹を切ることにした
梅一枝も要るので、春を待つ
少しひんやりとして建家の内陰が心地よいが、風が吹き抜けて行くような造りではない
邸の中は中で、外とは別の静かに蒼い色の時間が流れている
「万代さ~ん」
何か用があって、私は万代の名前を呼んでいるのだろうか
裏にも庭があるのでそこにいるのかも知れない
私のために行ったり来たりの万代は、女は忙しいんですの、とそっけない
嫁には貰ったけれど、いつまでも居られるような人なのだろうか
気が向けば傍に来て、私に寄りかかり葡萄棚の上の月を見ていたことを思い出したりする
時折、時間と自分を忘れている
その時夢から覚めたようにハッとすると、必ず隣に万代がいて、飲み込めていない私をいたずらっぽい笑みで見るのだ
万代は私の夢の中身を視て、知っているのかもしれない

私はもう一度万代の名を呼んだ

万年の紅もみじの原を見に行きませんか


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