「沼田さん」
その人は「沼田さん」と名乗った
うちの庭をまっすぐ抜けて、迷わず玄関に来たから、勝手を知った身内の知り合いなのだと思った
「お線香を上げさせてください」
知らない人だから、嫌だな、と思った
いや、知っていても他人同然の人も嫌だ
けどいいか、線香くらい
死んだらみな、悪人でも仏だ
悪口は地獄の十人の王様に針で縫われるんだと、両のほほを指でねじりあげられたものだ
「どうぞ」
「沼田さん」を部屋に上げると、外の川向うのほうからか、犬の吠える声がした
「お茶を」
と、勧めたが沼田さんは
「ではお水を。御宅の水はとても美味しい。高ノ原で評判を聞いて。白菊の酒主も感心していた。どのような工夫を源泉にされているのか興味がありましてね」
「さあ・・それに関しては母がなにか栓に被せたんじゃないかと・・」
「ほぅ・・」
白い小茶碗があったので、盃のようにして水を出した
銀色のひし形の模様
底に銀色の雪の花みたいな印
「ところであちらの家の軒下にとても柄の長い、大鎌があったね。なにに使うの?」
「え、さあ?わたしはあのような長い柄の使えませんし」
あまりにつまらない質問に意識が飛びそうだった
「それじゃあ」
沼田さんは立ち上がった
一杯しか出さなかった・・
しかも水しか・・
「いいんですよ、それで」
沼田さんは帰って行った
玄関で見ていたら、古い家の壁の角を曲がる時、スッと吸い込まれるように消えて見えなくなった
*******
それからまた沼田さんは線香を上げにきた
また、と言うより同じことを言っているようで、いつも初めて来た日のような気がした
その日は水風呂に入りたい、と不思議なことを言った
今日は夏だったかしら?と思いながら
ああ、水風呂に入っていても冷たくないから、夏なのかも知れないと思った
気がつくと浴槽のへりに手をつかされて、沼田さんが腰をつかんでいた
ポタッ・・
ポタッ・・
浴槽のへりに血が落ちる
髪を強く引っ張るから
「どうして痛ぶるの」と聞いた
沼田さんは
「またしばらく会えないからだろう」
と言った
笑っているようには見えなかった
少し開いた窓
外でまた犬の声がした
少ししてとても具合が悪くなった
*******
「父親はだれかな?結婚出来る人?出来ないなら同意書を書いてもらって」
つっけんどんな感じの悪い男の医者
まるで私が悪いみたいに・・
ムッとしていると、目を細めて優しそうな看護師さんが次回の持ち物の説明をしてくれる
ちんぷんかんぷんだった
適当に頷いてプリントを貰って帰ってきた
ずっと気分が悪くて寝ていた
外でずっと犬が吠えている声がした
それとなく気分の良い時に、近所のじっちゃんばっちゃんに聞いてみた
高ノ原に沼田さんて人いる?
「ああ、いたな。髪が濡れ柳みたいなひっぴぃで、五十ちけぇってのに、だがら嫁っこいねぇんだわ」
「五十歳なの?髪の毛がワンレンで長いの?」
そんなの沼田さんじゃない
「他には?いない?沼田さん」
「ああ。裏の三つ目の沼。池んち様だ」
「え、なに」
「昔、こことは山がおんなしで。鎮地様が沼の真ん中にいたから、沼田さんいうて。鎌で昔は隣の村のもんが草刈りに来た。犬が大蛇に呑まれるってんで、ちょうど研いでた長柄鎌で首切ったらさ。胴体があとをついてくる。首が帰り道で待ち伏せっから帰りはここのめぇさ通って隣さ、帰った。でもうちで水呑もうと甕開けたら、大蛇の首が待ってたな」
「その人どうしたの」
「さあなあ。たくさん蛇に噛まれておっちんだ、とか。気が触れたとか。鎌を祀ってもらってるうちは元気だったが、その寺が焼け落ちたらおっちんだとか。一人もんだったからうちはそれっきり」
「・・・・・」
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それから山が燃えているような
沼に黄ばんだような白くてふやけたような、長い胴体みたいなのが標本みたいにゆらゆら
夢を見る
悪い夢
悪い夢
きっと醒めるから
だってうちは「沼田さん」とは関係ないんだし
お水・・
のみたいなあ・・
のろのろ起きて這って飲んだら思い出す
「あんたとこの大井戸は鎮池様とこから水引いて、村の田んぼさ水引いたんだよ」
沼の中にある鎮地様だから
鎮池様
私の家には時々、父親のない娘が産まれる