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「びんずら峠」

それは見事な枝垂れ桜の老木であった

おそらくは樹齢百年ほどでも・・

添え木接ぎ木の体を見ると

はるか城のあった時代から

遺されてきたものであろう

菖野は藤色の振り袖を着て

この枝垂れ桜の下で

写真を撮ってもらうのが夢であった

お屋敷通りに帰って来て

菖野の生活は半年経つが落ち着いて来た

いまだかつてないことである

まだ今より若い頃

菖野はお屋敷通りの人々からも

奇異な目で見られていたような気がする

雪の降り積もる夜

婚約指輪をお屋敷通りの入り口の木に

結わえて捨てた後

時折思い出して石畳を眺めに来るだけだった

菖野は嫁に行ったら一文字

名を変えねばならなかった

婚家と野の文字が重なるので

あまり良くないからと

通り名でただ乃に変えるだけ

それなのに菖野は母が自分のために

誰からも愛されて助けられるようにと

つけてくれた菖野をずっと使いたかった

『どうせ名前負けしてるんだけど』

菖野は自嘲して苦笑いした


お堀の名残の朱塗りの欄干と

枝垂れ桜の満開を背にたたずむ自分

それは夢で見るのか

夢想しているとでもいうのか

菖野には記憶があやふやになることが多い


菖野自身だと思っているが

自分によく似た違う人物なのかも知れない


最近はそう疑問に思うくらい

夢の中の菖野は一人歩きをしていた

菖野には決してする覚えのない

まじないじみた妖しい嗤い方をした

まるで鏡の中の風景を

夢の中に入れて見ている感じがした


わたしではないわたし

わたしではない菖野は

まだ夢の中からは出て来ない


お屋敷通りのお堀の枝垂れ桜のすぐそばに

菖野は瀬戸物の店を出した


手描きの一点ものから小茶椀

夫婦茶碗、焼き物皿、刺身の大皿

すべて形が波や婉曲や生り物をかたどっており

台形のショーケースの中に収まったそれらは

日用使いを売ると言うよりも

見世物を出して楽しんでいるふうがあった

おおよそあまり人が入りにくい店である

かつて菖野を奇異な目で見ていた土地ものは

見たこともない陶器や食器を

軒先に並べておくだけで商売する気もない

眺めるだけでいい菖野の店の

展示室のような気兼ねなさを

今では気に入っていた


菖野はそういえば

ほとんどお屋敷通りを出ていないような気がした


婚約指輪を捨てに来てからは

お屋敷通りに足を入れなかった

それが今ではお屋敷通りの外に出ようともしない

お堀の前の小さな店で、割高だが

少々時代遅れの古くさい品物で事足りた

一口餡の最中の緑色やピンク色を

店の仕入れの時に自分用に選んだ

カラーと言う花を模した

脚の高い陶器に茶を注いで口に入れた

最中の皮が前歯の裏の上に

ペタリとはりつく

慌てて茶を飲み

ふやけてもなかなか落ちない皮

二杯目の茶を飲んでやっと息をつく

もう一つ最中を口にすると

三杯目の湯はぬるくなっていた

急須で入れるお茶は熱いのが好きで

気の抜けたぬるい茶を飲んで

それでもほっとして通りを眺めていた

のれんをかけているが

あちらからはこちらが見えない


ほうかむりをした男がふいに現れる

はっとして菖野は息を飲む


まるでガラス戸をなかったように

いつの間にかのれんのすぐ先に立っている

「あの、お求めですか?」

菖野は思わず声をかけてしまった


ほうかむりの男はひょっとこのような

翁のような無言の笑みで立っている

指を差すところは菖野のお茶うけ


一口餡の最中が欲しいのか・・


菖野は急いで糊で封をして紙袋を作った


中に最中をいくつも入れて


小茄子の漬物も包んだ


ほうかむりの男はまだ笑って

ずい、と竹の吸い飲みを寄越した

菖野は迷ったが水を酌んで吸い飲みを渡した

ほうかむりの男は笑ったまま

またずんずんとガラス戸をすり抜けて行った

枝垂れ桜の立つ水路をずっとたどって行くと


昔峠と呼ばれた半分崖のような坂がある

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