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幻想小話 第三十五話

此岸会

こちらは季節に関係なく
思い立ったら吉日
適宜祓い絶つのが最良
懺悔とは、した者が勝ち
私はそう思うことにした

雨あがる朝
まだ空は白く、草木に露が残っている
昼過ぎには晴れて来るにちがいない
風はなく鳥はまだ鳴かない
ある邸の前を通る時、くちなしのよい香りがした
もうそんな季節なのだろうか
雨が続いたが、くちなしはひっそりと花開いていたのだ
巷では行楽日和で色とりどりの花を愛でに行く人々が、大通りを行くが、こちらは昔からの住人が多く、古い建家と大木の日陰が多い
由緒ある寺の広い庭園と霊園の通りの中に、その邸はあり、くちなしの木は玄関口のすぐ側にあるようだった
山梔子(さんしし)と書いてくちなし
漢方や染料になる実は裂開しないために、くちなしと我が国ではつけられたようだ
八重の花弁の大きなものは、特に香りが強く、実はつけないと言う
通り過ぎて追い風で進むのだが、十字路の手前まで匂って来る
ここで空気が一度、溜まるのであろうか
口なし
ものを言えぬように、言わぬように白布で口をおおった女の、うらみも哀しみも空虚さもない、すべてを見透した美しさ
虚空
閉じものであるのにどこから香るのか
朽ちなし
私は朽ちてゆき、内側から破られ穴が空くので、くちなしかとも思っていた
だが私はやはり大振りの八重が好きであった

精眼寺と言う寺には宝物殿があった
なんの仏宝を納めているのかは知らぬが、六地蔵を祀っているらしい
子供の供養と厄除け開運を担っているのか
はからずもそれを知り、急に目頭が痛むのであった
すぐにあてられる質の私は、物を書く人間として適しているのか、自分でもわからなかった
私は両のたもとの中で腕を組み、ぶら~ぶら~と歩いて行く
日によって私の散歩は、朝餉前であったり後であったりする
万代に言わずに出る時は、ちゃぶ台の上に原稿用紙と万年筆を置いて出かける
大抵歩いていると団子屋や餅屋にゆき当たる
そうなると万代へのみやげとなる
朝昼飯とお茶請けの手間が省け、晩餉までおのおのの作業が進むのであった

小豆の煮える温かな匂いが漂ってくる
おそらくまだ砂糖の入らない時分の、甘くはない匂いである
もしやすると赤飯の豆を煮ているのかも知れなかった
辺りをひとめぐりしても甘味屋はない
人の邸で煮ているのか、精眼寺での催事なのかも知れない
途中、表面が研かれでもしたかのようにツルツルの、大小異なる丸石が点々と置かれ、婆さんが一人うずくまっていた
「もしや」
近付くにつれ気になるので、声をかける
無言
「もし、どうした」
耳がない
いや、耳が遠いのかも知れない
「おい、婆(ばばあ)」
ザサササァ~と木々の頭が風にそよぎ、ぼぅぼぅぼぅと、耳の穴に風が当たって響いていく
言った後に、しまったと、ぞぉっとしないまでもない
婆さんが振り向かないでいて、事なきもえず
後ろ髪引かれるも、見て見ぬ振りをするのも落ちている物を何気に拾うことも
声を掛けられ助けを求められたとしても、断ってもしなくても良いことに立法はなっているのではなかろうか
大衆には先を急ぐ者もあり、無駄に仏心を出さずに立ち止まらなければ、災難に合わずに済むと言うこともあるのだ
大概うずくまるものは、心の奥底にどす黒い怒りを抱えこんでそこから動かずにいる
いやもはや、面を被り、目と口に切れ目だけが入れられ無機能でも、ただそこでしゃがんでいるだけで、その存在はそこにある意義が生まれる
だが現し世を生きる私のほうが婆さんよりも、彼岸に近い者なのだと直感していた
線香の匂いがくちなしの匂いと混じり、どちらかわからなくなっていた
見れば婆さんの着物の裾には、銀針の鳥居が幾つも突き刺さっているのだった
振り向くことはなかろうが、そら恐ろしくなり私は十字路を引き返した



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