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「吉田さん」前編

『五月女』①

江戸患いと呼ばれた脚気にかかり
なつのは、婚家から戻された
田舎で麦めしを
山芋すってかけた麦とろ飯を食えば治る、そのはずだった

脚気と言われて数日のうちに
心ノ臓が止まる
なかなかあなどれない病だったが
白米をたらふく食っての贅沢病
怠け者のお嬢様育ちの嫁だったと、言われているようで気には病んだが、そんなことに体のほうは構っていられなかった

顔も口もすすぐのもおっくうで、全身の倦怠感だけでも死ねる気がした

田舎に戻って数日経っても
心ノ臓が止まらないのをみると
なつのの脚気はたいしたことがないのではないか
また元気になれば、どこか他所に嫁がせてもらえるのだろう、と伏寝の合間合間に身の振り方を考えていた
いや、嫁がされるのだろう、か

まだ二十二才なのだったが
もう、子のふたり、さんにん産んでいて、おかしくはない年でもあった

座敷に寝ていると
戸ぼうの脇に置いた飾り箪笥が気になるのだった
手まくらをして、婚家から持ち帰って来たそれを、見ないようにしながら見られずにはいられなかった

単純に出来の見事な品だった

開け放した雨戸板の向こうの山からは
お囃子の笛の音が聞こえる
村やしろの祭りの練習なのだろう
ジィーンジィーンと鳴く蝉はまだ、けたたましくはなかった
むしろ昼間よりもムッとした湿度の高い夜、木の中に隠れて活発に鳴いている
座敷に吸い込まれて来る風は、心地よく
座敷はむしろ冷えた感じだが、真夏はまだ少し足が遠いようだった

部屋にこもった湿った空気が、さらに体にのしかかったようで重かった

とろろは、生臭いにおいがして
なつのには食べる気も起こらなかった
それもまた、こんな贅沢なものを、と眉をしかめられた
自生の山芋は村やしろの下でよく採れたが、
なつのの家では畑で栽培して商売にしていた

夢だろうか
ドンドンドン
祭り囃しの太鼓の音がなつのに迫って来る
ドーン!
と地面が割れたような
なつのの体の下が揺らいだような気がした

「あれ!」

夢の中で騒いだようだが、体は鉛のように動かなかった

烏帽子頭の直姿を着たお別当さんだろか

後ろ姿が見えた

赤いべべ姿の女の子を右肩に抱いて
立ち去るところだった

なんの用事だったろう

そのくらいにしか思わなかった

朝の五時半くらいだろうか

隙間の向こうは少し白んできたようだ

戸ぼうの前で、サクリ、と沓音がして止まった

誰か来た、って思った

立っていた人らしきは、やがて振り向いて戻って行く足音が、座敷の床を通してはっきりとわかった

ふと、何か約束したことなどあったのかと、なぜか思いついた

水戸の義公さん
光圀さんが八幡様をたくさん潰したことあって
うちの村やしろも、他に遠慮して名前をかたれなかったって
別に悪いことしていた訳じゃない
辺鄙な村なのに、かの光圀さんじきじきの勧進での、分社なのだから
畏れ多い有り難き慶び事
光圀さんは十五、六の頃、ならず者みたいに放心していて、改心なさった後々のことだけれど、よほど目に余る所業が許せなくて寺社改革をなさったのだろうか

素行悪く、私利私欲で乱行する坊主が神社も管理する寺社混同の、いわゆる八幡潰しと言われる、神社や寺の整理を徹底したことがあった
八幡叩きとも聞いたが、それ以上の厳しい仕置きはよその村では壊滅的な打撃だったそうだ

実際、義公さん
光圀さんは何をおこなった人なのか知っている、はっきり答えられる人はいないような気がする

大日本誌編纂?
尊王派であったことが後々、水戸家の受難
救民妙薬書の発行?
貧民を思いやる心も冒険心を煽る
徳川家に御意見できる副将軍?
目の上のたんこぶだと思われる
広大な牧場を作らせ、死後も村民を徴収して増えすぎた牛の世話を、日当すら与えず代々使役したこと?
死んだあとのことも死んだ人のせいにしたい
山に姥捨てるのを禁止したこととか?
足手まといになりたくないから死を受け入れる
洞窟や滝や沼の向こう側の世界や竜宮城に行った、伝説の多いこと?
二面性のある統治者には架空の冒険談が付きもので、人気もあるのだろう

食通で初めて中国の拉麺や餃子を食べたとか?
数える程しか国元を出たことがないから
知りたいと渴望するだろう

極端な御気性はやはり生い立ちに関係するのだろうか

光圀さんは兄上ともども、実父殿に腹の中にいるうちに始末されるはずだったが、養い親が匿って隠して育ててくれたそうだ

その理由は正室もいないのに、たんなる後ろ盾もない奥座敷の女に子どもが出来たからという、酷い話だった

試し切りや辻切りをしたり、情にほだされることもなかったのは、自分の命を軽々しく扱われたことも、影響していたのではないか

隠棲された里には、光圀さんの後産
『えな』を埋め直した場所があると言う

『始末しました』

そう言われたら自分の目で確認もせず、信用するのだから、格式高い育ちの藩主もたまには便利だ

水戸学のススメは時に豆粒ひとつの希望すら串刺しにする

村社は昔はもっと、海からは漁師の船の目印になる座標になる程、高く見えたそうだ

これまで海な水位が上がり、埋め立てられたり海水浴場が増えたり、いろいろなものが沈んだ

光圀さんが竜宮城に行った伝説まである

この常陸の國には、海底に沈んだ遺跡もあり、そこには違う国が今も存在しているような気がする

ほんの少し離れた山じろには山伏が堂を構えていたのはむかしのことで、その堂にしろ村やしろにしろ、金毘羅さんにしろ、日頃は無人だった
本山の金毘羅さんが寺から神社に変わって数年経っても、行脚の女金毘羅さんは僧衣を着けたままだったのを覚えている
まさか女金毘羅さんの亡霊だったのだろうか
こんな山あいの迷信深い集落には、つきものの話だ
坊さんほど成仏出来ないのが多いと聞く
すれ違ったのも生きた坊さんではなく、霊体かも知れないのに、明瞭鮮明だったら?
違和感を一瞬感じたところで、一歩家に足を踏み入れれば、忘れてしまうことだ

大晦日の夜の村やしろでの詣でには、しばらく行っていない
行けば、嫁入りの口だのなんだの言われ、断れ切れずに嫁に出たようなものだ
嫁に出される三年ほど前の大晦日から、村やしろから帰ると熱を出した
次の年も大晦日の夜になるとそうなった
なつのは村やしろに行かなくてすむ口実が出来て、熱にうかされたが、ほっとしていた

十歳を過ぎると自然に、なつのは自分が両親に仇なす五月子なのではないかと、思うようになった
似ても似つかない、不運をもたらす鬼っこだと心当たりがあった
似ても似つきたくなどなかったのだ


お別当さんは白ごろも姿で太鼓を打っていた

前に一度だけ、女の別当さんが太鼓打ちをしていたのを見た
なつのが熱を出すようになって、女の別当さんも涅槃山には女は合わないと言われるようになり、見事な顎髭の別当さんに変わった

なつのは急な、面積の狭い石階段を上っていた
うすら白い着物の足元を見ている

自分に歩ける、しかも石の階段を上れる力があったとは

帰って来てはみたものの
村では川魚や鮎や山女魚もいけす飼いしていると言うのに、なつのは食べる気力も湧かない
食べられるのはところてん、くらいだ
それすら毎日手に入る村ではない

北側の八幡さんにはなおのこと、足が向かない
八幡桜の花びらが散った川面の下では、魚がすぃ~と泳いでいたのに
魚の影がぴたりと、魚の腹に張りついていたっけ

八幡桜と山吹が咲いているだろうに

川面の周りを彩るようにフキの傘が、点々と帯状に続いて、鮮やかだろうに

来年、気が向いたら行くのかしら?

ふと、人のかげに気付いて顔を上げた

白ごろもの品のいい方が立っていた

なつのはぎょっとして、自分が何をしているのか、わからなくなり固まってしまった

『その額は、いかがしたのか?』

そう聞かれたと思う

とっさに手を当てたが、心当たりはない
なにか顔についているのだろうか

「いいえ、なんでもありません」

額を押さえながらそうとしか言えなかった

すっとした身のこなし、一本に後ろ髪を結わえて垂らしている

「わたしめは、こちらで雑色のようなことを担っておりまして。貴女の邸が、この下の神棚田からよく見えましてね。そちらから見えることはないのですが」

聞いたことがある
神領だから、例えその年、空き棚田であっても隠れて稲作をしてはならない田があると
それまでも向こう側から見えないことを良いことに、米を作った者が数名
その棚田で『かまいたち』にあった
冷静に考えれば稲刈りの頃の乾いた空気が触れて、鎌が当たった皮膚が裂傷したに過ぎないが、一滴も血が出ない
迷信深いこの村ではこじつけすら禁忌になるのだ

見えざるものは空(くう)を自在に、風に乗り、獣の背に這い、物につき、野を駆け巡る

「近頃、よく目が回るのです」

なつのは手でひさしを作って、膝を折りかけた

白ごろもの方は、あっと声にする間もなく、なつのの手を取り、額に手を当てた

「貴女のこの額の印を覚えている。七つの祝いに篭屋の前のとうりゃんせの竹林を通って行った。その帰りにここに寄ったから、わたしめも祝いに印をくれた」

「え?」

「人のもとへ嫁いでしまったのか・・。あまり信心深い良人ではなかったか。それでは貴女の目も悪くなろう」

何を言われているのかわからなかったけれど、頭の中で鈴が鳴るように声が流れて行った
手を頬と額に触れられていると、白い布に包まれているように心地よかった
なつのは自分が子どもに返ったような、体まで小さくなったような、不思議な感覚の中にいた

「貴女はまたここに来る。わたしめは待っていますから」

その声を聞きながら、それでは邸に来るのは違う別当さんなのだろうかと、なつのはぼんやり思い出していた


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