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私たちがメモするもの/スラスラと文章を書く方法/残る本とそのための手間

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/01/13 第483号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

新しいポットキャストを収録しました。

今回のゲストは、なんとシゴタノ!の大橋さんです。大橋さんとはお付き合い自体は長いのですが、こうしてサシで話したのは(たぶん)はじめてです。

今回は情報摂取についてお話をお伺いしましたが、実は聞きたいことは他にもたくさんあるので、ぜひともまたゲストに来ていただきたいところです。

〜〜〜ジュンク堂書店京都店の閉店〜〜〜

ジュンク堂書店京都店が閉店するというニュースが飛び込んできました。

20代の頃は頻繁に足を運んでいたので、とてもショックを受けています。

これまでも、大きな書店が閉店するニュースは見聞きしていましたが、出版業界全体としては残念でも、個人的には一度も足を運んだことのない書店なので、感情的な揺さぶりはありませんでした。しかし、今回は非常に強い感情の揺さぶりを感じています。

とは言え、「20代の頃は頻繁に足を運んでいた」と書いたように、30代になってからはほとんど足を運んでいなかったことも真実です。その点を忘れて嘆いても、出版業界全体を良い方向には持っていけないでしょう。

とりあえず、閉店は2020年2月29日のようなので、それまでには一度足を運んでおきたいと思います。

〜〜〜Scrivener本〜〜〜

Scrivenerの解説書が新たに出版されるようです。

ページ数がえぐいことになっている(384ページ)ようですが、哲学者の千葉雅也さんのインタビューが掲載されているようなので、今から興味津々です。

〜〜〜読者を読者で終わらせない〜〜〜

以下の記事を読みました。

「うちあわせCast」を聴いて自分なりに考えたことを記事にしてくださっています。とても嬉しいですね。

上の記事に限らず、こちらの発信に反応・感想を頂けるのはたいへん嬉しいものです。それは、反応がもらえたという承認欲求的な嬉しさもありますが、それに加えて「相手の知的刺激スイッチを押すことができた」という嬉しさもあります。

今後も、そういうスイッチをバシバシ押していけるコンテンツを発信していきたいと思います。

〜〜〜百人一首〜〜〜

お正月に、妻の実家にご挨拶に伺ったら、姪っ子たちが百人一首で遊んでいました。ゲーム好きの私としては混ざらずにはいられません。

最近は、iPhoneに百人一首アプリがあり、そのアプリが歌を読み上げてくれるので、全員がゲームに参加できます。。ひさびさに「iPhone便利じゃん」と思った瞬間でした。

しかしながら、小学生のときに覚えたとはいえ、今はほとんど思い出せません。それに対して妻は毎年百人一首で遊んでいます。勝負になりません。

こちらは下の句が読み上げられてからようやく探し始めるのに、向こうは上の句の段階からサーチが始まっているのです。札がまだたくさん残っているうちは私も数枚取れましたが、数が少なくになるについて、ゲームに参加するのが難しくなり、中盤以降はまったく取れませんでした。大敗です。

私は、ゲームに関してはなかなかの負けず嫌いなので、来年のリベンジに備えて、今らか百人一首を覚えなおしています。ここでも、百人一首アプリが役立ちます。

もう一つ、漫画の『ちはやふる』も併せて読み始めました。覚え方・取り方など、なかなか勉強になっています。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

アリストテレスと言えば著名な哲学者ですが、彼を哲学者としてではなく生物学者として捉え直す一冊のようです。面白い着眼点ですね。

あまり「情弱」(情報弱者)という言葉は好きではないのですが、本書ではその「情弱」という概念そのものに新しい視点を投げかけているようです。「従来の〈情弱〉概念を錯乱させ、現代社会を生き抜くための技法を構想する試み」とありますので、読み応えがありそうです。

地球はこの世界の中心ではなく、人間は唯一絶対・最上の生物でもない、ということが明らかになるにつれて、じゃあ私たちが動物を「支配」しているのってどういう理屈の保証があるの? みたいなことが議論に上っているかと思いますが、その辺の議論を展開している本なのでしょう。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 人間とそれ以外の動物の関係性はどうあるべきでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。
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2020/01/13 第483号の目次
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○「私たちがメモするもの」 #メモの育て方

○「スラスラと文章を書く方法」 #知的生産の技術

○「残る本とそのための手間」 #やがて悲しきインターネット

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「私たちがメモするもの」 #メモの育て方

これまで、カード術やノート術、そして手帳術などを訪問し、それぞれで「何を書き、それをどう処理しているのか」について探求してきました。

その旅を終えてわかったことは、私たちが書き留めるものは多様ではあるが、それでも、ある程度の類型は見出せる、ということです。つまり、なんだかんだいって、やっていることは似通っているのです。

たとえば以下のようなリストが作れるでしょう。

私たちが書き留めるものリスト
・スケジュール/計画
・思い出・日記
・しなければならないこと(タスク・プロジェクト)
・業務日誌・結果
・忘れたくない情報(メモ)
・資料(専門知識・非専門知識、短期・長期)
・打ち合わせ・取材メモ
・引用
・目標/クレド
・読書メモ・勉強ノート
・感想
・アイデア・思いつき
・草稿・下書き・アウトライン
・著作目録・ポートフォリオ

分類軸は恣意的に立てました。つまり、これ以外にも分け方はいくらでも考えられます。別の言い方をすれば、さまざまな情報記録術は、これらのうちのどれかをチョイスし、自分なりの分類軸を与えて運用しているわけです。

■類型の類型

ここで面白いのは、「類型」にフラクタルさが見出せることです。

たとえば、PoICは以下の四分類を持ちます。

・記録
・発見
・GTD
・参照

これらの四つのタイプは、私たちが頭に思い浮かべる(あるいは注意を向ける)雑多な要素を扱うために、恣意的に設定されています。

たとえばGTDは、「やること」を扱いますが、その「やること」も一つひとつ眺めていけば、たくさんの違いがあることに気がつきます。「絶対にやる」「できればやる」「言われたらやる」「言われると、逆にやる気が減る」……ほかにもたくさんあるでしょう。

しかし、そんなに細かい違いをいちいち取り扱っていたのでは、管理は煩雑となり、やがては破綻します。よって、「GTD」という分類を作り、そこにさまざまなやることを押し込んでいくことで、管理を簡略化しているのです。

つまり、もともと雑多なものを、ある種の類型に「押し込める」のが、こうした情報記録術で行っていることです。

そして、そのようなさまざまな情報記録術を眺めてみると、そこにある類型化された要素たちを、さらに類型化できることに気がつくのです。最初に挙げた「私たちが書き留めるものリスト」は、まさにそれをやったことになります。

とは言え、ここにあるのは真なるフラクタル性の現れではなく、単にそのように見立てられるというだけにすぎません。人はひとり一人違っていても、ある目的に向かって情報を扱おうとするときに、その手つきには似通った部分が出てくる→だから共通項で括れる、という重ね合わせの構造があるだけです。

あるいは、私のこの理解が根本的に間違っているのかもしれません。根源が「私たちが注意を向けるもの」である以上、その類型化の階段をどれだけ上っていても、やっぱり類型化できてしまう、ということ自体が「フラクタル」という現象なのかもしれません。

ともあれ、それがなんであるのかについての議論はここでは40mくらい横に置いておきましょう。いつか必要になる議題かもしれませんが、目下注意を向けたいのは別のことです。

■これからのステップ

上の「私たちが書き留めるものリスト」を作ってみて、この連載の二つの方向性を理解しました。

一つは、類型化をできる限り解体していくことです。つまり、先ほどやったように、「GTD」(≒タスク)という粒度から、「絶対にやる」「できればやる」「言われたらやる」「言われると、逆にやる気が減る」という粒度に読み替えていく方向です。

そうして分解していった後、自分なりの類型を組み立てるアドバイスを行う、というのが一つの方向でしょう。いかにも、──そう、いかにも──私がやりそうなコンテンツの方向です。

ただし、類型化を可能な限り解体していくと、「例示」はありのままを示すしかなくなります。つまり、私が思いつき、メモして残そうとしているものをすべてそのまま掲示して、「これはこのように分類し、こう扱います。続いてこれは……」というのを、一通りのパターンが出尽くすまでやるのです。

きっと類を見ないコンテンツなるでしょうが、それを読まされる方はたまったものではありません。類型化は理解の手がかりとなるので、それを用いることなく、だらだらと並んでいるメモを読まされるのは、おそらくひどい苦痛です。

もう一つ、そのようなコンテンツを読んでも、そこにできあがるのは「倉下のメモの類型化」であり、読んだ人にとってのシステムは何一つできあがっていません。もちろん、大いに参考になるでしょうが、実際に自分でそれを実践してみない限りは、何も手にできないのです。

言い換えれば、他の情報記録術では、組み立てられたものが「さあ、どうぞ。お使いください」と手渡されるわけですが、今考えている方向性では、それが皆無なのです。

最終的にやらなければいけないことは、自分の頭にあるものを自分で書き出し、自分でそれを類型化していくことです。その行為によって、できあがるのは、本人による、本人のための、本人のシステムです。それは間違いないでしょう。

しかし、逆に言えば、本人が実行しない限りは、何も得られません。もう少し言えば、何かが得られたような気がしません。そういうコンテンツは、きっと好まれないでしょう。

(ここで私は、実際に何が得られるかよりも、何かを得られた気がするかどうかがコンテンツ摂取の好みに影響を与える、ということを暗に示していますが、おそらくそれは書き手として忘れてはいけない点でしょう)

たとえば、ダイエットに関する本で「とにかく運動と食事が大切です。どんな運動でも構いませんから、自分に合った運動を定期的に行いましょう。食事に関しても、メニューはそれぞれで考えてもらってかまいませんが、食べ過ぎには注意です」と書かれていたら、「うん、そりゃそうだな」とは思いますが、それ以上のインパクトはないでしょう。「当たり前」のことが書いてあるだけだからです。

言い換えれば、そんなことは皆(心の奥の方では)わかっているのです。でも、それだけでは行動に移せない。だから、わかりやすい類型化とはっきり断言してくれる効果を求めるのです。それで何かを得られたような気になれます。

そして、コンテンツがその「得られたような気持ち」を販売する商材だと考えるなら、まさにそのような提示が求められていると考えられます。その点は否定しようもありません。

だとすれば、何かが得られたような気持ちを盛り上げつつも、自分のシステムを自分で組み上げていくモチベーションも刺激するような書き方ができればGoodでしょう。どのようにすれば、そんなことが可能なのかはわかりませんが、それがこの方向性の一つの終着点です。

■別の方向性

では、もう一つの方向性はどうでしょうか。

こちらは、徹底的に類型化を進めていくことになります。とは言え、登れる階段はそれほど多くはありません。上にあげた「私たちが書き留めるものリスト」をいくつかの軸によって分類するくらいがせいぜいでしょう。

たとえば、「ウチとソト」という分類軸があります。自分の頭発なものはウチ、他人の頭発なものはソトです。着想や草稿はウチで、資料や届いたメールはソトになります。

あるいは、「短期と長期」も考えられますし、「過去(現在)と未来」もありえます。「現実(結果)と理想」という軸もあるかもしれません。

こうした分類軸によって「私たちが書き留めるもの」を分類し、それぞれの象限において、「このような情報は、こう扱いましょう」と方法を提示するのがこちらの方向性です。

このようにして完成するメタ分類は、きっと「わかりやすい」ものになるでしょう。その上、タスク管理や知的生産の技術といった分野の垣根を超えた──言い換えれば、それぞれの分野を含んだ──、総合的な知見として提示できるはずです。実に素晴らしい。

その──まだ名前を持たない総合的な──分野では、私たちが脳内の情報を扱う話題を包括的に俎上に載せることができるでしょう。「これはタスク管理だから、知的生産の話は関係ない」のような縦割り言説はなくなり、むしろそれぞれの分野の知見を横断的に適用できるようになるはずです。

とは言え、そのようなメタ分類は、あまりにトップダウンが強すぎるきらいはあります。「わかりやすく」、きれいに分類できてるがゆえに、そこから抜け出すのが難しくなるのです。それは、本来必要な自分なりの類型化を阻害してしまうかもしれません。

昔の知的生産本が良かったのは、そのメソッドが体系だった方法論ではなく、あくまで個人の手法として語られていた点です(KJ法は除く)。「これが絶対的な方法ですよ」ではなく、あくまで「私はこうやっています」という語り口で提示されていたからこそ、アレンジの可能性は開かれていました。つまり、「梅棹さんはこうやっているけど、私は事情が違うので、こうやろう」と思いやすかった、ということです。

もちろん、そうは言っても「方法論の呪縛」めいたものはあったわけですが、むしろ個人の手法として語られた方法論に呪縛があるのならば、体系だった理論にはより強い呪縛があると考えられます。そうなると、そこから抜け出るのは困難を極めるでしょう。

メタ的な分類の整理によって、情報記録術について理解が深まるのは良いことです。しかし、そうして「わかって」しまうと、「私たちが頭に思いつくものの雑多さ」に注意が向けられなくなる可能性があります。そうなると、最終的には(つまり、その当人の実践においては)、あまり良い結果が訪れないかもしれません。

それが、こちらの方向性が抱える課題です。

■さいごに

この課題にどう決着をつけるのかは、現時点ではノーアイデアですが、まとめ的に言えることは二つあります。

その1:類型は理解を助け、類型化は実践を助ける
その2:自分なりの類型化を行うことが大切

情報を分類することで、私たちはその対象のことがわかりやすくなります。「わかる」は「分かる」である、がそれを示しています。

それと同じことが、自分自身の頭に思い浮かぶ情報にも適用できます。もともと雑多で性質が異なるものたちを、類型化することによって扱いやすくする──それが情報記録術の肝ではあるでしょう。

その理解を助けるために、情報整理学(という仮称で呼びます)は活躍しますが、最終的に必要なのは、一般的な類型化を適用することではなく、自分なりの類型化を行うことです。もっと言えば、自分の頭に思い浮かぶ情報の雑多さを理解し、どうすればそれが扱いやすくなるのかを、自分で見極めて、自分で答えを出すことです。

そればかりは、他人に任せることはできません。なぜなら、その情報を「どう扱いたいのか」を決められるのは自分だけだからです。

この理解と実践をいかに組み合わせることができるか。それについては、これから考えていくとして、まずはメタ分類の方向へと進んでいきましょう。次回はその話題となります。

(つづく)

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