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カバーエッセイと日常的文芸

先日「何者問題」という記事を書きました。

この記事は、宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい 増補新版』に収録されている一編のエッセイにインスパイアされたものです。

和歌には、贈られた歌に対して歌を返す「返歌」というものがありますが、それにならって言えば「返エッセイ」でしょうか。とは言え、もともとのエッセイは別に私宛に書かれたものではないのだから、ちょっとニュアンスがズレるかもしれません。

そういえば、僕が常々疑問に思っていたのが文章と音楽の違いです。音楽にはカバーというのがあって、ある人が歌っていた歌を別の人が歌うということがごく当たり前に行われているのに対し、文章だとそういう試みはほとんど見かけません。

今回の試みは、いわばエッセイ(のテーマ)に対する「カバー」と言えるかもしれません。カバー・エッセイです。

エッセイなるもの

エッセイというのをどう定義するのかは難しいところですが、日常的な何かを扱う文章である、というニュアンスはあるでしょう。

でもって、「日常」とは私たちが日常的に所属している事柄です(定義から言って)。専門でも特殊でもない、すぐそこにある出来事・物事。

そうしたものを扱うエッセイだからこそ、カバー・エッセイは可能になります。つまり、専門領域の話であればそれが得意な人でしか語りえないのに対し、日常のことを扱うエッセイは、生活者であれば誰でも語りうる可能性を持つわけです。

先に上げた記事の「何者問題」も多くの人が近接したことがある問題でしょう。自分自身が抱えたり、身近な人が抱えたりと距離感はさまざまであっても、まったく無縁ということは少ないはずです。

そしてもしまったく無縁ということがあるならば、その無縁の視点も見てみたくなります。日常は、誰しもに開かれているのです。

日常と芸術

だとしたら、なぜそういう試みにトライするのかという話なのですが、ここで「芸術」という言葉との距離感が問題になります。

もし芸術を、(専門の)芸術家だけが行う試みだと捉えるならば、個人が書くエッセイは、そうしたプロの物まねにしかなりませんし、たいていは"下位互換"になってしまうでしょう。そんなことにわざわざ貴重な時間を使いたくない、と考えるのはしごく当然です。

一方で、芸術を日常の中(あるいは延長線上)のものとして捉えるならば話は変わってきます。

かつての和歌は貴族のたしなみだったのかもしれませんが、時代が下がってくると俳句などはごく庶民的な営みとして詠まれていたのではないでしょうか。日常の中ある芸術。

そうした感覚で捉えるならば、誰かの(日常的な)エッセイに触発されて、自分なりの(日常的な)エッセイを書いてみることも、それほど突飛なことではなくなります。生活に彩りを与えるための、あるいはそれでしか表せない何かにアクセスするための、ちょっとした営み。

柳宗悦の民藝を持ち出すまでもなく、私たちの生活の中に「芸」と「術」に関する眼差しは潜んでいます。それを抑圧せず、いくつかの技法を通して世に表していくこと。それは、数値や評価ばかりが蔓延するこの世界への一つの処方箋になるのかもしれません。

作文でいい

とは言え、エッセイなんて自分には、と思われる方はいっそのこと「作文」と呼んでみるのはどうでしょうか。

津村記久子さんの『苦手から始める作文教室』では、コラムやエッセイではなく「作文」というくらいの気持ちでいい、と柔らかく示されます。

肩ひじ張るほど書けなくなるのが、(日常的な)エッセイなわけですから、そんなに身構える必要はないでしょう。義務教育の中で「作文」という行為が嫌いになった方も、一度誰の強制下にもない状態で伸び伸びと文章を書いてみてください。

それは間違いなく楽しい行為になるでしょうし、人によっては──たとえば私のように──欠かせない行為にすらなるかもしれません。

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