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アイデアに対する自問/結果としての構造化

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/08/24 第515号

○はじめに

うちあわせCastの最新回が配信されております。

今回は執筆周りのお話で、二人の環境・端末・アプリケーションを紹介しました。最近ぐっと力を入れて使っているVS Codeの話も出てきます。

昔なら、VS Codeについてすごい勢いで記事にしていたはずですが、最近は「もうちょっとまとまってからでいいか」と放置気味です。まあ、他にもやることはたくさんあるので、優先順位の結果ですね。ちなみに、Tipsについては、Scrapboxにアップしていますので、そちらをご覧ください。

〜〜〜それは過去に思いつきました〜〜〜

よく架空の本のタイトルをTwitterにつぶやいています。で、先日以下のようなツイートをしました。

つぶやいたあとで、なんか既視感あるな〜と思って、Twitterで検索してみたところ(from:rashita2 転生)、見事にヒット。

びっくりするくらい同じ発想です。一年前と発想の基盤がまったく変わっていないことがわかりますね。まあ、何度も思いついているなら、このアイデアは私にとってフックがあるのだと言えるのかもしれません。

とりあえず、こうしたこともまた、記録しているからわかることです。記録、大切です。

〜〜〜ScrapboxとRoam Researchの違い〜〜〜

ごくたま〜〜〜に、Roam ResearchがScrapboxの上位互換だと言われるのを見かけますが、もちろんまったく違います。上位とか下位とかではなく、目指している方向が違っているのです。

たとえば、以下のような違いは特徴的でしょう。

Scrapboxの場合、2ホップ先のページは、リンクを作った時点で表示されます。Roam Researchの場合は、2ホップ先のリンクを閲覧するためには、shift + command + clickしてサイドバーを開かなければいけません。標準で表示されるのは、「そのページを言及しているページ」の1ホップだけです。

つまり、Roam Researchでは、ある系統に属する同一のページ群を閲覧するのに適しており、Scrapboxはある情報のネットワーク的周辺を閲覧するのに適しています。研究的に一つのテーマを掘り下げるならRoam Researchが便利でしょうし、連想的に情報の広がりを感じるならScrapboxの方が便利です。

こうした違いは、スペック表だけを見ていてはなかなかわかりません。なぜなら、Roam Researchでも2ホップ先のリンクを表示させることは可能だからです。しかし、何もしなくても表示されているのと、表示させるために操作が必要なものとは、体験上大きな違いがあります。たとえば、10年間そのツールを使い続けていたら、その差は著しく大きいものになるでしょう。

私の求める使い方としては、Scrapboxが適しています。Roam Researchの機能性はあこがれますが、それよりも、情報のネットワークをふんわり捉えられるScrapboxの方がより使い勝手は上だろうと予感します。

もちろん、他の人の用途によっては、ぜんぜん別の結論が出ることは間違いありません。これがツール話の難しいところであり、面白いところです。

〜〜〜倒錯性と成長〜〜〜

情報を積み足していく知識モデルの場合、成長は常に加算的に発生します。ロールプレイングゲームの経験値・レベルアップのようなものです。
(→知識ドネルケバブ・モデル )

しかし、情報のネットワークモデルの場合、成長は加算的だけでなく、破壊的にも発生します。もう少し言えば、一度破壊を経験してから、新しくノードをつなぎ直す過程が挟まるのです。乱暴に言えば、新しい家を建てるために、古い家を壊して一度更地にする必要があるわけです。

と、言葉でさらさらと書いていますが、この達成は簡単なことではありません。いわゆる「パラダイム・シフト」には大きな抵抗があるものなのです。それは個人の知識においても適用できます。

「あなたのその考えは間違っています」

自己のネットワークを破壊するということは、この言説を受け入れることを意味します。発言主体を自身に置き換えれば、「自分のこの考えは間違っているかもしれない」と思う、ということです。これは結構ハードモードなゲームです。自己破壊、自己否定なわけですから。

しかし、知的な成長を志すならばその自己否定を避けて通ることはできません。なんなら、喜んでそれを受け入れることすら必要です。

これは「正常」な人間からすれば倒錯的とも言えますが、そこに快が見出せるようになったら、その人の脳内ネットワークは、いつでも新しい姿に変容する可能性を獲得できます。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

「ルール2」とあるので続編ですが、残念ながら「ルール1」の方は見かけませんでした。イギリスの生活文化を分析した本で、おそらく京都でお茶漬けを食べるか尋ねられたらさっさと帰宅せよ的情報がたっぷり詰まっているのでしょう。とは言え、出版社はみすず書房なので、ガチな本です。

最近「市民」とか「シティズンシップ」って何だろうかとよく考えているので、この本が目に留まりました。〈反乱〉という言葉の文脈は不明ですが、それでも唯々諾々と現状を受け入れることが市民性ではないだろうな、という思いはあります。「20世紀前半最大の政治思想家ハロルド・ラスキの政治思想の可能性に新たな光を当てた意欲作」とありますので、そちらの方から探究していってもよいかもしれません。

パラパラと読みましたが、実に不思議なテイストの本です。「海に沈んだツアナキ島、絶滅種カスピトラ、不死身の一角獣、年老いたグレタ・ガルボ、サッフォーの恋愛歌、マニ教の7つの聖典、キナウの月面図…。自然、歴史、文学の魅力を詰めこんだ、「喪失」をめぐる12の物語」という内容紹介に魅力を感じるならぜひ覗いてみてください。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQです。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 同じことを何度も思いついていることを発見した経験はお持ちですか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週から、少しだけレイアウトが変わっています。来週以降も少しずつ変わっていくかもしれません。その辺の話もまたどこかで書きます。

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○「アイデアに対する自問」 #知的生産の技術

前回は、Evergreen notesを紹介しました。単にメモする・ノートを書くだけでなく、以下のポイントを目指しながら書き育ていくノート法です。

・Evergreen notes should be atomic
・Evergreen notes should be concept-oriented
・Evergreen notes should be densely linked
・Prefer associative ontologies to hierarchical taxonomies

今回は、この話を念頭において、アイデアに対する自問について考えてみます。

■書き留めることがスタート

まず、アイデア・着想は書き留めて終わりではありません。書き留めた後にどうするかが重要です。

また、その「書き留める」も、頭の中に浮かんだことをそのまま書き写して終わりではありません。少し頑張って、知的作用を発生させる必要があります。

その知的作用を疑問(自問)の形で表現すれば、以下のようになるでしょう。

「この話のコンセプトとは何か?」
「この話の内容とは何か?」
「これは何とつながっているのか?」

それぞれ見ていきましょう。

■「この話のコンセプトとは何か?」

「この話のコンセプトとは何か?」は、自分の思いつきが一体何を言おうとしているのかを考えることです。これは、着想が文章の形で湧いてきたときに必要になります。

たとえば、Aと書いて、そのまま A→B→C→D と書き連ねていったときに、この{A→B→C→D}は総じて言えば何なのかを考えるのがこの自問です。端的に言えば、その文章に見出し/タイトルをつける行為が相当します。

あるいはそれは、タイトルの付け替えになるかもしれません。つまり、Xというタイトルをつけたあとに、{A→B→C→D}と書いた後で、はたしてこれはXというタイトルで良いのか(うまくコンセプトを表現できているのか)と考えるのです。

どちらの場合でも、少々頭を使います。知性が発揮され、認知資源が消費されます。だから、ついつい後回しにしてしまうのですが、それを完全に放置してしまうと、この思いついたことは、後から利用するのが極めて難しくなります。

それは単にタイトルというハンドル(≒フック)が付いていないから、「あっ、あれ、なんだけっけ」と思い出しにくくなるだけでなく、そもそも、「あれ」というのを思いついたことを思い出せなくなるのです(思いついたことそのものを忘れてしまう)。先ほどの記号を使えば、Xを思い出せないのではなく、{A→B→C→D}が頭に上ってこないのです。これでは、再利用しようもありません。

逆に言えば、「この話のコンセプトとは何か?」と考え、それに名前を与える(名付けする)行為を通すことで、そのコンセプトが私の脳内で一定のメモリ領域を獲得できると想定できます。それはまさにその行為が、認知的にしんどいからこそ発生するものです。

「名付けはしんどい。だからこそ価値がある」

とりあえずは、そんなことが言えるでしょう。

■「この話の内容とは何か?」

上とは、逆のパターンもあります。つまり、タイトルだけあるメモの中身を発展させていくことです。

このパターンには、二種類あります。一つが、すでに大ざっぱに言いたいことがわかっていて、その見出しがメモに書き留めてあるパターンです。形としては、まずXを書いて、その後{A→B→C→D}と中身を書いていくのに近いでしょう。ただし、メモを書き留めた段階で、すでに{A→B→}くらいは思いついているのがこちらの状態です。

よってこの展開は、zip圧縮されているものを解凍する感覚に近いと言えます。新たな思考の展開をするというよりも、ぎゅっとまとまっているものを少しずつ解きほぐしていく行為です。知的作用の程度としては、それほど大きくないと想定できます。

ちなみに、この解凍はコンテキストによって変化するので、頻繁に揺れます。解凍を行うときの自分の情報文脈によって記述されるものが変わってくるのです。もちろん、ぜんぜん別の話になることは少ないですが、それでも文章をパターン解析したときに別物として扱われるものが生成される可能性は高いので、その点は気をつける必要があります。具体的には、何度か解凍にチャレンジしてみるのがよいでしょう。

以上とは異なった展開もあります。それが、タイトルしか思いついていないメモを広げていくパターンです。

たとえば、さっき『エッセンシャル・ワーキング』という本のタイトルを思いつきました。何か「エッセンシャル」なことをDoする働き方に関する本だとは思うのですが、その中身は全く思いついていません。こういうemptyなものに中身を拡充していくのが、もう一種類の展開です。

もちろんそれは、最終成果物を作っていくことにダイレクトにつながっています。なにせそれは「本を書く」という行為と相似だからです。

なので昔の私は、この知的作用だけが、「アイデアを育てること」だと認識していました。だから、企画案を思いつき、それを保存して、いかに育てていくかこそが知的生産においては重要だと考え、そればかりを追求してきました。

しかし、上に挙げた「この話のコンセプトとは何か?」もかなり重要ですし、下に挙げる「これは何とつながっているのか」も重要です。むしろ、日々の知的生産行為(知的作用活動)としては、そちらの方が重要度が高いと言えるかもしれません。

なぜなら、本の中身の拡充は作業としては「大振り」なものであり、また重複も多重に発生するからです。それについては後述するとして、話を先に進めましょう。

■「これは何とつながっているのか」

何か着想を書き留めたとして、その着想は、自分のその他の着想とどうつながっているのかを考えるのがこの自問です。この自問は、最初に出てきた「この話のコンセプトとは何か?」とも関係しています。

しかし、残念ながら、この自問は既存のメモ術・ノート術では、ほとんど語られてきませんでした。少なくとも、直接語られたものを私は知りません。だから、つい最近に至るまで、私の知的生産活動にこの自問に焦点が当たることが無かったのですが、それは別の話なので話を戻しましょう。

情報を一冊にまとめましょうという提言や、書き留めたメモを使って知的生産を行いましょうというアドバイスはやたらめったら見かけるものの、一つひとつの情報に対して、意識的にこの問いを投げ掛ける重要性はこれまで説かれてこなかったのです。

ただし、間接的にはそれは提示されてきました。たとえば梅棹の「カードをくる」はまさにそれですし、PoICの「カードが一定量溜まったら、それを使って再生産を行う」も同様でしょう。それらの行為を行えば、自然と着想同士のつながりに注目せざるを得なくなります。

だからあえて言及されなかったのか、それとも実行者があまりに自然にその知的作用を発露させているので自覚されていなかったのか、実際の理由はわかりませんが、ともかくその「つながりを探す」という知的作用が極めて重要なのです。

なぜなら、その「つながりの探索」によって、はじめて着想が「自分の着想ネットワーク」に紐付けられるからです。

この点の説明は、極めて入り組んでいます。単純なイメージで言えば、すでに私の脳内にネットワークがあり、それに着想がノードとして一つ加わる、というものですが、実際はもう少し複雑になっています。

まず、「この話のコンセプトとは何か?」という自問自体が、ネットワークを照合しています。もちろん、その時点の思考は、「その話」に向いているのですが、そこに名付けが発生するときに、自分のネットワークが作用するのです。

たとえば、以前「リストの合力」という概念を考えました。リストは名前と項目を持ちます。その名前によって、リストは統制されるわけですが、逆に項目によって名前が変わることもあります。その二つの力が均衡しているとき、使えるリストができる、という概念です。

でもって、パターンについて考えているときに、「これって、リストと同じだな」と思いつきました。パターン(認識)とは、個々の要素から立ち上がる認識であり、一度確立した認識は以降要素の把握に使われます。しかし、それらの要素にノイズが入り込むと、今度はパターンが改められます。普段はこれが均衡していて意識されませんが、リストと同じように二種類の力が働いているわけです。

そこでこれは「パターンの合力」と記述されました。言い換えれば、「パターンの合力」は「リストの合力」とのつながりと共に立ち上がったのです。つまり、頭を使ってコンセプトを立てることは、すでに自分のネットワークに紐付けることを含みます。

それだけではありません。「リストの合力」と「パターンの合力」を並べてみたきに、「これって何だろう?」という自問も発生します。この二つのつながりは、一体何を意味するのか、という問いです。当然これは、一つ上の階層へ到達するために必要な問いでしょう。

つまり、「これは何とつながっているのか」という問いは、要素Aと連なる他の要素を模索するとともに、それらの集合についても思いを馳せる自問になるのです。

■重複の許容

さらにこの問いかけでは、重複がいくらでも許容されます。ネットワークのノードをイメージしてもらえば簡単ですが、一つのノードは他の複数のノードと接続していても構いません。むしろ、それが自然な状態です。

一方で、先に企画案(本のタイトル)を考えておき、その内容を展開していくやり方だと、どうしても重複が気になります。企画案Aに使ったことは、企画案Bに使うのが気が引けるのです。すると、どちらかを選ぶ必要が出てきますが、問題は、他の要素が見えていないので、その決定は事実上不可能な点です。

また、企画案同士もつながりがあり、

・Hogeについて
・Mogeについて
・Yogeについて

の三つの、{Hoge,Moge,Yoge}がそれぞれ関連性を持つ場合、三つの企画案があるとも考えられますし、『Hogeについて』という本の一つの章として、「Mogeについて」「Yogeについて」があるとも考えられます。もちろん、他の組み合わせ方も十分ありえます。

でもって、こちらも内容が見えていない時点では、最終的な決定を下すことはできません。永遠に知的リソースを消費していくやっかいな対象となります。

一方で、思いついた着想がこれらの要素に関係しているだけならば、Xは「Hogeについて」と「Mogeについて」に関係しているし、Yは「Mogeについて」と「Yogeについて」と関係していると、シンプルに記述していけます。そして、それらがいくつも集まったところで、一番重複の多い要素を企画案として立てるやり方ならば、混乱は多くありません。

これが重複を許容する、ということです。

■さいごに

今回は、思いついた着想にどのような知的作用を与えればいいのかについて考えてみました。

たとえば、GTDでは頭に浮かんだ「気になること」に「これは何か?」という問いをぶつけて、ワークフロー的に処理していくのですが、着想においても、「これは何か?」と問うこと自体は共通しています。

ただしそれが「実行可能かどうか」や「実行日はいつ」や「具体的なアクションは何か」をつまびらかにする自問ではなく、その着想のコンセプトやつながり(ないしはコンテキスト)を明らかにする自問なのです。この点が、タスクやそれに類する情報と、アイデア・着想の扱いの違いと言えるでしょう。

次回は、そのアイデア(着想)との邂逅のデザインについて考えてみます。

(つづく)

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