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メモとアイデアその2 / サブテーマを切る / 欠けたベル理論

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2024/09/16 第727号

はじめに

ポッドキャスト、配信されております。

◇新刊情報の見つけ方(2024年版) | by 倉下忠憲@rashita2 | ブックカタリスト

◇第百五十八回:Tak.さんと文章エディタについて 作成者:うちあわせCast

ブックカタリストは音声配信はお休みで、コラムをお送りしました。本の情報をどうやって見つけるかは大切な問題で、本の話題に限らないテーマだとも思います。

うちあわせCastは、「文章エディタ」にまつわる話をいろいろ検討しました。つきつめれば「書くとは何か」という話につながっていくと思いますが、むしろ「自分にとって書くとは何か」という観点が大切なのだと思いを改めました。

〜〜〜家具の配置〜〜〜

部屋というのは一つのシステム(系)である、ということを痛感しています。

ある部屋に作業机を置くとして、その大きさがどのくらいなのかは、部屋の残りの部分に影響してきます。使える空間はどのくらいになるのか。動線はどうなるのか。対象(この場合は作業机)だけを考えていては見失うものがたくさんあるわけです。

それに、立派でゴージャスな作業机が完成したとしても、メチャクチャ掃除しにくければ長期的な部屋の綺麗さ維持に困難を生じさせるでしょう。つまり、空間的考慮だけでなく、時間的考慮も必要になってきます。

みたいなことを難しく考えはじめると、いつまで経っても部屋の配置は完成しません。どこかで「えいや」という思いきりと、少々の我慢が必要になります。

〜〜〜すり合わせ〜〜〜

私は誰かに命令するのもされるのも嫌いです。だから、引っ越し作業も妻と協力しながら「それぞれが自分にできることを、できる範囲でやる」というスタンスで進めています。

それはそれでよいのですが、あるとき「えっ、あの掃除機捨てるつもりだったの?」みたいな意見の相違にぶつかりました。私は置いておくつもりで、妻は捨てるつもりだったのです。

それ自体は別段たいしたことはなく、じゃあ捨てましょうか、という話に落ち着いたのですが、個別的・独立的に作業をしていると、「作業している」部分は目に見えるので共有できるのですが、「どうしようと思っているか」という意図の部分は目に見えないのでまったく共有されず、ときに上記のようなすれ違いを生みます。

そうしたすれ違いが、重要な事柄において、しかも取り返しのつかない形で生じてしまうと、よろしくありません。

多少時間をとっても、面倒であっても、定期的にお互いの意図をすり合わせる時間を設けることが大切だなと思います。

〜〜〜それを何と呼ぶか〜〜〜

『独学大全』という本には、たくさんの技法が掲載されています。関連文献の記載も多彩です。

そういう本があるとCosenseにプロジェクトを作って情報をまとめたくなります。「独学大全読解プロジェクト」、みたいな感じで。

しかし、そこからもう少しイメージを膨らませると二の足を踏みます。『独学大全』の技法を網羅していったら、『アイデア大全』や『問題解決大全』などにも手を伸ばしたくなるでしょう。『ライフハック大全』やその他のノウハウ書も同様です。なにせwikiに終わりはありません。

そんな感じで枝を広げていくと、もはやそれは「独学大全読解プロジェクト」とは呼びがたい何かになるでしょう。個人が使える、技法を集めた、プロジェクト。

問題はそれを何と呼ぶかです。

独学だけでもなく、知的生産の技術だけでもなく、仕事術だけでもなく、ライフハックだけでもない。

それらを包括する呼び方がプロジェクトのタイトルに収まるべきですが、今の私には思いつきません。

もちろん、タイトルなんて後から付け替えればいいのです。それでも、「旗印」不在ではプロジェクトは進めづらいな、とも思います。仮起きであっても、何かしっくりくる言葉をそこに置いておきたい。そういう気持ちをずっと持っています。

皆さんはいかがでしょうか。仮にそういうプロジェクトがあるとしたら、そこにどんな名を与えるでしょうか。何かアイデアがあれば、ぜひ倉下に教えてください。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週は、アイデアメモの扱いの続き、サブテーマの設定、欠けたベル理論についてお送りします。

メモとアイデアその2

前回は、アイデアを書き留めたメモの扱いづらさについて検討した。

その上で、「扱えなくても気にしない」という豪胆アプローチと、「すべてをカード化する」というナレッジマネジメント的アプローチの二つを紹介した。

今回は後者のアプローチを検討しよう。

■いわゆるカード法

さて、「すべてをカード化する」というアプローチだが、カード化するとはどういうことだろうか。そして、なぜカード化すればアイデアが扱えるようになるのだろうか。

言うまでもなく、この二つの疑問は関連している。

まずは最初の疑問から取り掛かろう。

「カード化する」とは、実際的な話でもあり、一つのメタファーでもある。

実際的というのは、アナログ時代ではノートやメモではなく情報カードに書くことがこの行為を意味していたからだ。カードという物質に書き留めること。それが「カード化」することの第一要件であった。

また、物質的媒体は記入欄を持ち、それはつまり書かれ方の形式を持つことを意味する。情報カードには、「タイトルと本文」という記入欄があるので、カードに書くとはその欄を埋めることを意味する。

つまり、カード化の第二要件は、本文だけでなくタイトルを付与した形で記述ことである。

さらに物資的媒体であるカードは、大きいものでもB6サイズであり、記入量に制約がある(この点において、カードはノートよりはメモに近い)。必然的に、長々と文章を書くのではなく、端的に内容をまとめる必要が出てくる。これは第一の要件から副次的に導かれる第三の要件であろう。

■内容の要件

以上は、物質的媒体であるカードの使用から出てくる要件だが、もう一つ、内容に関しての要件が制約として付与されることが多い。

それは「一つのカードには、複数のことを書かない」という制約だ。

この制約は、単にカードという物質を使っているだけで必然的に出てくるものでないのは明白だろう。文字数の制約はあるにしても、そこにどんな内容を書くのかは物質は要求してこないからだ。言い換えれば、道具からの明瞭なアフォーダンスが存在しない。

よってここは人間の意識的な操作が必要になってくる。つまり、一つのカードには、複数のことは書かず、一つのことだけを書くようにする、という主体的な意識の発露が必須である。

着想メモをカード化するにあたって、一番難しいのはこの点だ。

「思いつき」というのは、クリアな内容を持っていることが少ない。むしろいろいろなものが混ざり合っているのがよくあるパターンである。だからこそ、走り書きメモでその輪郭線だけを大雑把に描写しておくのだ。すべてを精緻に書こうとすると、たいへんな労力が必要になる。

たとえば、私の直近の走り書きメモに「真理から慣用句的へ」という書き込みがあった。これは、真理は矛盾を許容しないが、慣用句は意味が正反対なものが平然と存在していることを指摘して、その上で生きる上では慣用句的なものを意識した方がいいのでは、みたいな文章が書けるのではないかと頭の中に浮かんだその輪郭線をしゃしゃっと描写したものである。

非常にいろいろなものが混ざり合っているのがわかるだろう。

もちろん、上記の説明が一つのパラグラフで成立しているのだから、その全体をさして「これが一つのことだ」と言ってしまうことはできる。しかし、それはカード法が目指す「一つ」ではない。

もし、カードにするならば「真理は矛盾を拒絶し、慣用句はそれを許容する」というタイトルにし、その説明を本文とするだろう。その上で「生きる上では慣用句的な在り方を指向すべし」という別のタイトルのカードを作り、さらにカードを作るだろう。そして、後者のカードから前者のカードを参照できるようにする。あるいは、近くに置いておくだけでもいい。

なんにせよ、このようにして内容を分けることが、カード法の胆である。

なぜだろうか?

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