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『思考のエンジン』第十二章「マニエリスムとアカデミズム」のまとめ

『思考のエンジン』第十二章のまとめです。章のサブタイトルは「ハイパーメディア・ライブラリーとライティング3」。つまり前々章前章の続きで、本書の最後の章でもあります。

この章には何が書かれているのか?

マニエリスムというルネサンス後期の美術形式を起点とし、その様式的特性をブリッジにして現代のアカデミズムの状況とその未来のビジョンが提示される。

また、そうした「新しい大学/学問」の中で、「ハイパーメディア・ライブラリー」や「書くこと/ライティング」がどのような意味を持つのかも考察される。

ここまでの章では実際にあるツールを媒介にして話が進められていたのに対して、この章は理念的なものが示されているのが印象的。


序盤では、マニエリスムの二つの原理が検討される。

  • カノン

  • 自由

まずカノンだが、固定化した手法によって先行する作品の模倣を積み重ねる姿勢を指す。「マンネリ」という言葉がマニエリスムから生まれたのはこの姿勢が影響している。

一見ネガティブな要素のようにも思えるが、先行する作品から有用な手法を抽出し、一つの技法に昇華することで、後発の人間にも仕えるようにしていると捉えれば、すぐれて教育的な試みだと言える。

実際に著者は、その試みにアカデミズムとの相似を見ている。マニエリスムの作品は、さまざまな先行作品からの「つぎはぎ」が様式的特性となるわけだが、その構図は、先行研究の論文をさまざまに引用して書きあげられる論文と同じだというわけだ。

とすれば、問うべきは「なぜ、そのようにして書くのか」という点になる。つぎはぎ的模倣であるならば(あるいは模倣でしかないならば)、そんなものを発表する意義などないのではないか。

ここでマニエリスムのもう一つの原理、「自由」が引っ張りされることになる。

すでに存在している情報を集めて何かを作り出すのだとしても、今までにある方法ではなく、今までになかった方法でそれを行うこと。「ある知識体系で整理されたものを、別の知識体系を構築するために使う」こと。ここにマニエリスムの特性があり、また人文的なアカデミズムの論文の意義があるのだと著者は述べる。

この話は、ここまで語られてきた一つの体系=物語を成立させると同時に、それとは別の体系=物語を成立させうるデータ構造(開かれた書物、ハイパーテキスト)と重なる。著者が、「コンピュータ化されたライティングの世界は21世紀のマニエリスム」だと述べるのはそういう構図を通してであろう。


中盤では、上記の話を受けた上で、コンピュータ上の「創造」に視点が移る。

コンピュータを使って何かするというときのよくある誤解が「自然なるものを再現しようとする」ことなのだが、実際の真髄は「虚構の世界のきわめて自然らしい再創造」なのだという。

つまり、コンピューターの外側にある世界(≒私たちにとっての現実)がまず真としてあり、その真なるものをコンピューター内でいかに再現するのかが問われるのが前者の見方であり、それはそのままイデアを現前させるという本書の前半〜中盤で検討されてきたロゴス中心主義と重なってくる。

その見方である限り、コンピューター上で生成されるものは常に「真なるものではないもの」→偽物になるわけだし、そうしたものの連鎖の中にあっては、何が真であるのかがどんどん曖昧になる。

一方で、「虚構の世界のきわめて自然らしい再創造」というのは、現実の模倣としてではなく、虚構として作られたそのものがある種のリアリティーを獲得していくことだと言える。

2024年の現在で考えれば、もっとわかりやすいだろう。片方には、フェイクニュース(ディープフェイク)があり、その情報の流れの中にあって、私たちは「本当のことは何なのか」という致命的な混乱の渦にたたき込まれる。一方で、VRなどの世界では、参加者ははじめからそれが現実でない(虚構である)ということを受け入れつつ、しかし、まぎれもなくそこに一つの生の有り様(≒新しいリアリティ)を感じている。

まったく同じコンピュータというものを使いながらも、「現実」についてのアプローチと作用がこれほどまでに違うことは、注目に値するだろう。


終盤では、ロジャー・シャンクによるアカデミズムへの提言が紹介され、大学の新しい「在り方」が提案される。そこで出てくるのが「企業家的大学」というイメージで、これについては賛否両論あることだろう。

大学それ自体がお金を稼ぎ、資金についての意思決定力を保持するというのが眼目であり、そうすることによって政府や企業などとは別の原理で運営できる可能性が示唆されているが、本当にうまくいくのかは判然としない。

ともかくそうした企業家的大学が持つのが、ハイパーメディア・ライブラリーとキャンパス・ネットワークであり、大学への参画者はそれらを拡充することに努め、またそこからそれぞれの成果物を生み出すことが求められる、というところで、これまでの話の流れと合流することになる。

特筆すべきは、以下の二点。

  • 書物はすべてハイパーテキストの連鎖の中で解体されている

  • しかし、人が知識や思想を理解するには体系が必要なので書物は書かれ続ける

ハイパーテキストがすべてのテキスト的可能性を有するにしても、それがあるだけでは人は知識や思想を理解することはできない。それをサポートするのが「体系」であり、つまりは(閉じた)書物であるからして、その執筆が止められることはない、と述べられている。

この点はより一層の議論が必要であろうと前置きしつつも、個人的な体験から言って、おおむね正しいだろうとは体感している。

私たちが生きる上で何かしらの「物語」を必要とするのと同じく、私たちが知識や思想を理解する上で「体系」はたいへん役立つ。ネットワークはたしかに壮大であらゆる可能性に満ちあふれているが、私たち人間は無限の可能性に耐えられる認知は持っていない。

この点は、ポストモダンの思想を現実の何かに適応する際には、気に留めておきたいところである。

もう一点付言すれば、本章の後半ではアカデミズム=大学の新しい形が提案されているが、そこに「在野の知」の観点が不足している点は感じた。ハイパーメディア・ライブラリーが、真の開かれたテキストを志向するならばこそ、アカデミズムの「外」にいかにリーチしていくのかは大きな課題になっていくだろう。

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