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【書評】『書くための名前のない技術 case 3 千葉雅也さん』(Tak.)

「書くための名前のない技術」シリーズの第三弾が発売されました。発売前に著者から献本ならぬ献epubを受けましたが、発売当日に即座に購入しました。なぜか。Amazonで買えばランキングが上がり、この本がより多くの人の目に止まる可能性がアップするからです。それくらい、読んでいて楽しい本でした。

もちろん、『case 1  佐々木正悟さん『case 2 Marieさん』も共に面白い本です。それぞれに個性が宿った一冊となっています。しかし、この『case 3 千葉雅也さん』は、独特というか、こう言ってよければインタビュアーである著者が土俵際でぎりぎりまで踏ん張っているような、そんな印象を受けました。

その印象はどこからやってくるのだろうかと考えてみると、おそらくは方法論についての自覚の有無(ないしは濃淡)にあるのだろう、と思い至りました。

すべての書き手は、自分の「方法」を持っています。その「方法」には経験による勘と創意工夫が溢れています。その意味で、すべての書き手の「書き方」には耳を傾ける価値があります。それこそが、本シリーズの根底を支えている原理でもあるでしょう。

しかし、今回インタビューされている千葉さんは、単に手法に工夫を加えるだけでなく、それが自分にとってどんな意味を持ち、それがどのような概念系で語りうるのかを明瞭に分析されています。そのことは、本シリーズのインタビューパートの基本的な構成が以下であるのに対し、

・書き手としての活動
・書くための道具と環境
・書くための技術とプロセス 
・書くためのメンタル

本作では、「書くためのメンタル」が欠落していることが示しています。千葉さんの中では、書くための道具や技術、そして書くという行為そのものと、それが(自分にとって)どういう意味を持つのかが強く自覚されているのでしょう。ステップが一つ進んでいるのです。

本来それは、本シリーズのインタビューの中で、あるいはその後に続くPart 2で行われることです。対話の中で、あるいは解釈の中で、一つの意味という光が当てられ、概念系のヒントが提示されるというのが、これまでのシリーズでした。しかし、本作では、それがもうすっかり終わってしまっている状態から始まります。そうなると、話はよりスピーディーに、そしてディープに進行していくことになります。そのギリギリ感が、土俵際を私にイメージさせたのでしょう。

さて、内容についてです。まず、ポイントをあげるとしたら以下の記述でしょう。

レイアウトと言葉の内容が全部つながっている。

これは以下の記述とも呼応して、「文章」というものの姿を炙り出します。

レイアウトと内容が一体になった状態ではじめて本当の結論がでてきます。

ここで、レイアウトと内容が一体になった状態を、「レイアウト/内容」と表すことにしてみましょう。これを起点にすると、本書のさまざまな話がノードとなります。

まず、「レイアウト/内容」であるからこそ、内容(言葉)だけを扱えるアウトライナーが、役立ちます。一気に「全体」を考えるのではなく、まず内容(言葉)だけに注意を向けられるのです。つまり、プロセスの切断にアウトライナーが役立ちます。

さらに、「レイアウト/内容」であるからこそ、プロセスの最終段階では、最終成果物に近い見た目(≒レイアウト)を持たせられるWordが活躍します。

ここから見えてくるのが、切断と接続です。ある全体(=一つのもの)を、二つ以上のものから成り立つものとして捉えることで、それらをバラバラに扱うことができます。しかし、それを単にバラバラのままに置いておくのではなく、接続することで、そこに全体性を持たせることができるようになります。

もう一度、「レイアウト/内容」について考えてみましょう。レイアウトとは、いわば物そのものであり、はっきりとした有限化装置です。対して、内容(言葉)は、極言すればなんでも言えます。つまり、無限の広がりを持ちます。

だから、言葉だけでは何にも言えないのです(=何でも言えてしまうのです)。レイアウトあるいは物そのものという切断がなされない限り、無限の可能性を秘めたまま、何の形も持ち得ない状態に浮遊し続けることになります。

レイアウトは、有限化のビジュアル的側面ですが、それだけではありません。字数制限しかり、見出しの表現や文字数しかり、短い締め切りしかり。そういったものがあるからこそ、言葉は頭の中から外へと定着し、他の人に伝達可能な形を持ち得ます。逆に言えば、それがなければ、結論はあらゆる結論になりうる状態のままとりとめなく漂い続けるのです。

だからこそ、切断と接続なのです。

日々のツイートは、自分の着想の切断です。そのツイートをまとめることで(=接続することで)、一つの大きな全体が生まれます。もちろん、そうした本が次々と生まれることで、その著者の活動全体もまた生まれます。断片は全体であり、全体は断片なのです。

喫茶店という制限時間ありの場所で書くことで集中力が生まれ、またそれを日々繰り返すことで、継続的な執筆活動が生まれます。

ついでに言えば、ある活動をプロジェクトとして切断できることで、別のプロジェクトと並べることが(全体を生み出すことが)できるようになります。当然、それぞれは別なのですから、入れ替えたり、階層を変えたりといったことも可能です。アウトライン・プロセッシング的思考がそこでは活きてきます。

もう一度言いましょう。切断と接続です。切断だけでも、接続だけでもダメなのです。どちらの場合でも、過剰になってしまいます。『動きすぎてはいけない』は、「動いてはいけない」ではありません。接続過剰に傾く社会の中で、切断の意義が問われるように、接続も切断も両方が必要なのです。

それは、何もかもが一緒というような大雑把な全体化に安直に走るのではなく、「レイアウト/内容」のように、一見すると別もののように思えるものの中につながりを見出すことで、新しい形の全体像を提出するような、そんな観点の持ちようだと言えるでしょう。

すでに本書の内容から遠く離れつつありますが、それだけの射程が本書の内容にはあります。たしかに有用なノウハウも掲載されていますが、それだけにとどまる本ではありません。

「書く」とは、どういう活動なのか。「文章」にとって見た目とはなんなのか。

もっと基本的であり、しかし誰もが視線を向けていなかった問いが、本書から匂い立ちます。もちろんそれこそが哲学者の仕事でもあるのでしょう。

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