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定常社会をいかに楽しむか:『ポスト資本主義』を読んで

「世界を愉しむ」というテーマでさまざまな本を読んでいく題読(だいどく)の一回目は、「生きのびるための岩波新書」フェアから広井良典氏の『ポスト資本主義』を取り上げる。

取り上げる順番に恣意的な要素はない。あるいはまったくの恣意である。四冊購入した本のうち、この本から読み始めたというだけだ。でも、その選択には否応なしに私の無意識の恣意性が入り込んでいるだろう。なにせ、私はドラッカーが大好きであり、ドラッカーもまたポスト資本主義社会に言及しているからだ。

現代において「ポスト資本主義」、つまり資本主義の一つ後の姿はどのように描かれるだろうか。そしてそこに「世界を愉しむ」ためのどんなヒントが眠っているであろうか。

資本主義の未来

まず本書は資本主義の由来を辿りながら、その未来を二つの図式として提示する。一つは電脳をベースにした「超(スーパー)資本主義」であり、もう一つがそれとは異なる道行きを辿る「ポスト資本主義」である。この二つの違いに目を向けることが本書の要点を掴むポイントになるだろう。

とは言え、そこまで難しい話ではない。まず資本主義を以下のように捉える。

資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステム

よく、資本主義は市場経済とイコールで捉えられるが、さらに解像度を上げて、そこに際限なき成長を求める性質を見出すこと。これがファーストステップだ。市場経済だけならば、そこでは交換という循環が回っていれば十分だが、際限なき成長を求めるならばそれでは足りない。

そこで「もっと、もっと」とさまざまなものが生産され、それと並行して消費が刺激される。それ自体は無害なようだが、実際はそのために資源が使われている。分かりやすいのは化石燃料だが、空気の汚染やオゾン層の破壊も「資源の浪費」として位置づけられるだろう。そのように、人類が生誕したときに、無料で使えるように広がっていた資源を大量に使ったからこそ、飽くなき拡大は追求しえたわけだ。

とは言え、その道のりは直線的だったわけではない。大きな成長の時期があり、成長が鈍化し一定の規模に留まる(≒加速度が0になる)定常の時期があった。著者の見立てによれば、人類が誕生し農耕を始めるまでが第一の定常期であり、農耕が安定して産業革命が起こるよりも少し前までが第二の定常期である。

そうした定常期では、資源は使い尽くされているので、人の心は外側ではなく内側に向かう。おそらくそのような営みの中で誰かの心にインスピレーションが舞い降りて、新しい資源の活用が(あるいは資源そのものが)見つけ出され、それが成長期へのトリガーとなる、といった具合だろう。

現代における「資源」

言うまでもなく、現代もまた「資源」は使い尽くされて、新たなる展望は描けないようにも思う。しかし、そうではない。関心経済・注意経済などといった表現もあるが、現在の資本主義は、私たち人間の注意や時間を「資源」として利用し、利益を上げようと躍起になっている。最初に挙げた「超(スーパー)資本主義」は、その極限的な状況である。そして、その終着点を示したのがユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』であろう。

とは言え、私はこちらの道行きにはまったく興味がない。なぜならば、それが「世界を愉しむ」ための方法とはとても思えないからだ。むしろそれは世界を捨てる行為だとすら言える。人間が「人間ならざるもの」になる、あるいは意識をネットワークにアップロードすることは、どのような形をとるにせよ、人間と世界を切り離す行為である。そこにどれだけ合理性があろうとも、私はそれを拒絶したい。そんなものはぜんぜん楽しくない。

では、いかなる道があるだろうか。著者は以下のように提言する。

ひとつのありうるビジョンとして、そのように市場経済を無限に"離陸"させていく方向ではなく、むしろそれを、その根底にある「コミュニティ」や「自然」という土台にもう一度つなぎ"着陸"させていくような経済社会のありようを私たちは志向し実現していくべきではないか。

大賛成である。どうせつなぐなら、首にコネクタをつなぐのではなく、コミュニティや自然につないでいきたいものだ。きっとそこには「思いもよらぬ」ものが待っているはずである。

世界を愉しむために時間を守る

さて、ここからは本書の内容を踏まえた上で、私なりの考えを書いていきたい。

まず、現代の資本主義が獲物として狙っているものが時間・注意・関心であることをベースに話を進めよう。工業的発展が環境汚染を引き起こしたのならば、そうした産業の発展が私たちの時間・注意・関心を汚染してしまうことを危惧するのは心配しすぎとは言えないだろう。実際、細切れで品のない広告はたしかに私たちの何かを奪っているし、そのように明確に意識を向けられていない被害もきっとあるだろう。

そこで「世界を愉しむ」ためには、まず防衛策が必要となる。奪われてしまう時間や注意を、自らの懐にしっかりしまっておくわけだ。それは、多くはWebとの付き合い方として実践されるだろうし、ひいてはテレビなどのマスメディアもその射程に含まれるかもしれない。また、IT機器などの利用法も、効率性といった観点とは別の軸での評価が求められる。

ともかく、隙あらばこちらの時間や注意を奪おうとしている輩が遍在しているのが現在である。注意しすぎるということはない。

世界を愉しむための時間の質を変える

以上はあくまで防衛策であり、言い換えれば消極的な「世界を愉しむ」方法だ。では、積極的な方法とは何だろうか。

それはやはり「時間の質を変えること」だろうと予想する。たとえば、今『独学大全』がビジネス書で異例のヒットを飛ばしているが、そうしたヒットはまさに「時間の質を変えたい」と願っている人の多さを背景に持つのではないか。

また、最近は「教養」を謳う本もたくさん出ているが、それらも一昔前の「このスキルで他人と差をつけて社会的な成功を得る」という地位を争うゲームとしてではなく、むしろ「今空虚に感じられるこの時間をなんとか変えていきたい」という切実なニーズに応えようとしているのではないかとも思えてくる。

それは裏返せば、現在のメディアがあまりにも人々の時間・注意を奪うことに必死になりすぎていて、肝心のコンテンツが空っぽになっていることも示しているのかもしれない。

ともかく、私たちが積極的にできることは自らの「時間の質を変える」ことである。

本書でも祝日を増やす施策が提言されているが、仕事の時間を減らし、休みの時間が増えれば、相対的に人が過ごす時間の質は変わってくる。また、宇野常寛氏が『遅いインターネット』で述べているように、この速度が最重視されるWeb世界において「あえて」遅く振る舞っていくことは、速度の力学から自律的になることであり、当然時間の質を変えるものになっていくだろう。

時間をかけて何かを学ぶこと。自分の手を動かして何かを書き留めること。

そのような現代の価値基準で言えば「非効率」きわまりないことが、むしろ個人の時間の質を変えていく。なぜならば、現代の価値基準で言う「効率性」とは、基本的に「他の誰かに何かを提供する」ことだけが主眼に置かれているからだ。そんなものをどれだけ追求したとしても、個人の楽しさが増えることはない。逆に言えば、効率性の追求は、個人の楽しみを増やそうとするときにだけ、(人の生にとっての)意味が生まれる。

同様に、事業をスケールしていくことも、それが個人の楽しみの抹消によって成立しているならば、(人の生にとっての)何一つ意味はないと言えるだろう。あくまで、資本主義というゲームの中だけで価値を持つ意味でしかない。

とは言え、以上の話は別に「経済的な価値を生むこと」を全否定しているわけではない。そういう単純な話は行き着く先が見えている。老人の「貧困でもいいじゃないか」という戯言だ。無論いいはずがない。私たちは後の世代に希望を残すべきであって、くだらない現実を押しつけるのは怠惰以外の何ものでもないだろう。

個人の楽しさがある中で、価値が発生しうる状態を維持すること。おそらくそれが好ましい定常な社会の状態だと言えるだろう。急激に上昇するのではなく、かといってぐんぐんと落ち込んでいくのでもない第三の在り方は、きっとありうるはずなのだ。

三つの位相のバランスの悪さ

上記に関連して言うと、著者は以下のような位相を見立てている。

共(コミュニティー):互酬性
公(政府):再分配
私(市場):交換

インターネットは、個人と世界をつなぐインターフェースであり、ここ十年で発展してきたのは、まさに「私(市場):交換」の位相である。クラウドソーシングやウーバーイーツなどの例を挙げれば十分だろう。

一方で、インターネットの黎明期に活発だった「共(コミュニティー):互酬性」は驚くほど停滞してしまった。一時期は巨大プラットフォームの中に、明確に線引きされないがなんとなく近しい人たちがいる、という認識に留まる「クラスタ」くらいしかなく、そこにはコミュニティーは立ち上がらなかった。そうしたコミュニティーは、オープンな意識を啓蒙する派閥からするとあまりにも閉鎖的だったのかもしれない。

しかしながら、個が個としてあるのならば、あるいは個が個としてしかありえないならば、参加できるのは市場だけであり、可能なのは交換だけである。これは強きものには適切な答えなのかもしれないが、社会を広く見ればとても適切な状態とは言えない。簡単言えば、より大きな力に「食い物」にされる人が増えてしまう。

もちろん、昨今のオンラインサロンの盛り上がりは、この十年のインターネットがコミュニティーを置き去りにしてきた結果であり、そうしたサロンのいくつかが人々を「食い物」にしている状況はまったくもって笑うことができない。

異なる領域があるからこそ

ともかく三つの領域のバランスが明らかに悪いのである。そして、バランスが悪いと個人が力を発揮するのも難しくなる。

たとえば、小さなコミュニティーに意見を投げ、そこで十分に揉んでから世の中にパブリッシュする、という行為を行うためには当然コミュニティーが必要である。もしそれがなければ、個はいきなり世界に向けて発信しなければならない。それは緩衝材がないことを示し、リアクションという名のダメージが個人を直撃する。

あるいは、昔は創作でも「習作」という概念があったが、今はどのような作品でもすぐさまパブリッシュできる。そこには「習作」とそうでない作品の線引きがない。

全体的に言えば、個人が市場とダイレクトにつながることによって、「間」や「ため」といったものが持てない状況になっている。これは風向きを読むのが得意な器用な人間にはぴったりな環境だろうが、時間をかけて成長するタイプの人間にはたまったものではない環境である。

ここで重要なのは、たしかにインターネットは、いわゆるゲートキーパーを取っ払って個人がダイレクトにパブリッシュできる環境を作り上げたのだが、しかし「ダイレクトにパブリッシュできる」ことが善であるにせよ、そのパブリッシュまでにコミュニティーで揉まれるような経験に価値がないとまでは言えない、という点だ。「ダイレクト」に可能なことと、「ダイレクト」にやればそれでいい、とは別の話なのである。

この点を私たちは軽んじていたのではないだろうか。

そして、この視点に立てば、個人は市場での「交換」という行為を通して、さまざまに散らばるコミュニティーの互酬性の中で育まれた蜜を世界中に流通させる一つのノードとして認識できるようになる。それはつまり、個人が二重の楽しみを持てることを意味する。一つは、コミュニティーへの貢献として、もう一つは市場で価値を回していくことを通して。

そのような多様な愉しみ方を見出せるならば、定常型社会の中でも充実した日々を送れるのではないか。自らが学び、他者を助け、そして価値を提供していく。そんな日々を送っていくのだ。

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