第四回 「インターネット的×知的生産の技術」その4 〜高い塔が倒れるとき〜

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そろそろ「インターネット的×知的生産の技術」の中核にあるものを開示してみたいのだが、もう一回だけ寄り道をしておく。どんな寄り道かと言えば、社会がどんな方向に変化していくのかを考えるのである。言うまでもなく、これは非常に大切だ。

未来において何が起こるのかはわからない。しかし、薪が燃えていたら周りが暖かくなることは予測できる。人口が減っていけば、消費が落ち込むことも予測できる。個別の現象を言い当てることはできなくても、こういう方向に動いていくだろうと予測することは決して難しい話ではない。そこから対策を考え出すこともできるだろう。

同じように、社会の変化の方向さえ押さえておけば、それなりの対応方法が見えてくるはずだ。

さて、どうにも日本社会では、「自分で決める」ことよりも「皆にあわせる」ことが優先される。

それ自体は別に悪いことではないだろう。社会を維持していくために、協同的・協調的な動きは必要になってくる。しかし、そればかりしかないと、「自分で決める」機会が減り、さらに「自分で考えること」も抑制されてしまう。これが問題なのだ。

どういうことだろうか。

簡単に言えば、共同体の規律を最優先にしておけば、いろいろな物事が進んでしまう、ということだ。「ルールでこうなっているから」とか「会社の決定はこうですから」という口上は便利である。有無を言わせない迫力がある。

しかし、それは巧妙に「じゃあ、あなたにとって何が大切なんですか」という問いを回避させている。ようは、共同体の価値に合わせている間は大義名分が立ち、自分の価値観に向き合う必要がなくなるわけだ。厳しい言い方をしてしまえば、自分が何を大切に思っているのかを知らないままで生きていけてしまう。

でも、そういう生き方はこれからはしんどくなっていくのではないだろうか。私にはそういう予感がある。

その理由についてはこれからおいおい書いていくつもりだが、とりあえず「あなたは誰なのか?」という問いに答えうる情報を提示できないと、「その他大勢」になってしまうだろう。情報が溢れかえる社会とは、そのようなものだ。あるいは「あなたはいったい誰なんですか?」という問いを誘発する情報を提示できないと、新しいつながりは生まれにくい。

そして、この「つながり」こそがもっとも大切なことである。

そうなると、権威に使えそうな別の何かを用いて、人を集めなければならなくなる。おそらくそれは、何かわかりやすい数字になるだろう。年収とか、何かそういったものだ。

しかし、それは実にしんどいゲームである。なにせ、それで集まってくる人は数字の大きさだけに注目している。その人自身ではなく、その人が持っている数字の大きさに関心があるのだ。だから、数字を小さくすることは決してできないし、また自分以上に大きな数字を持つ人が出てこないか、いつもひやひやしていなくてはいけない。

こういう人が、他人に向けて攻撃的な態度をとる理由はよくわかる。そうしないと、不安でたまらないのだろう。

そうしたことに耐えられる精神力を持っているならばいい。でも、そうでないならば、こうしたやり方はロールモデルとしてはまったく機能しない。坂を転げ落ちていくだけだ。なにせ人生は長丁場である。メリットがあっても、短期間だけしか続けられないようなことに関与するのは得策とは言えない。

以上のようなことは、社会の変化と密接に関係している。では、その変化はどのようなものかと言えば、これは私の推測でしかないのだが、タテ型社会からヨコ型社会への移行となるだろう。しかも、多層的なヨコ型社会だ。

タテ型社会とは、いわゆる日本企業的なトップダウンの仕組みであり、「会社の決定はこうですから」と言っておけば万事うまくいく社会でもある。別の言い方をすれば、ムラ社会とも言えるだろう。この辺の話は中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』を紐解きながら、また掘り下げてみたいが、とりあえずこうしたタテ型社会は徐々に減っていくだろう。完全に消滅するかは議論の余地があるが、多数派ではなくなっていくはずである。

なぜなら、そうしたトップダウンの仕組みを提供してきた組織が弱体化しているからだ。会社も地域共同体も、その内側にいる人の人生をまるまる抱え込める力はなくなってしまった。そうした力によって人は共同体を信じ、そのルールに従ってきたのだ。

しかし現代では「会社の決定はこうですから」といった次の日にその会社が潰れてしまうことだってありうる。そのことを誰しもが感じ取っている。だとすれば、求心力は落ち込み、これまでつなぎ止められていた人々は、散らばっていくだろう。高くそびえ立つ塔が倒れていくわけだ。

もちろん、すべての塔が倒れるわけではない。残る塔はあるだろう。しかし、残っている塔に居続けるのも、これまで以上に難しくなるはずだ。間口は狭くなり、場代は高騰する。

だったらいっそのこと、倒れた塔から抜けてで、自由な地面の上で生きていけばいいじゃないか__そう思う人は確実に増えていくだろう。そうなれば、勤勉な労働者や、行儀のよい消費者は昔話になっていく。生き方、企業、商品、そういったものが変化し、行政もいやいやながらその後を付いていくことになる。

「社会」は、箱が規定するのではない。その内側に息づくものの総体が規定するのだ。だから、このようにして社会は変わっていく。

問題は、そうしたシフトが決してスムーズには進まないことだ。おそらく、巨大な塔が崩壊したような衝撃が発生するだろう。なにせ、二つの社会のルールは異なる。当然それに合わせた生き方のコツも変わってくる。

考えてみると、これまで塔の原理に従っていた人々が、そこから抜け出て、自分で歩く方向を決めて行かなくてはならないのだ。これはプレイしているゲームそのものが変わってしまうと言ってもよい。それぐらい大きな変化がこれからやってこようとしている。

ようやくこれで下地の話が終わった。ヨコ型社会への移行に備えるにはどうすればいいか、あるいは移行した多層的ヨコ型社会でどのように生きていくのか。次回はその話になる。

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