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記事はどのように生まれるのか

記事はどのように生まれるのか。面白い問いだ。

おそらく、3つの工程に区分できるだろう。

  • 刺激

  • 執筆

  • 調整

刺激

まず、どうしてその記事を書こうと思い立ったのか。「何がでるかな、何がでるかな、♪♪♪〜」というサイコロを振ったら、「ブログを書くこと」という目が出たから、とかではないだろう。何かしら書きたいものがあって、それが記事生成へと駆動づける。

で、今回のこの記事は「他の人の文章を読んだから」が刺激になっている。他にも本や映画など、コンテンツが刺激になって生まれる文章は多い。

あるいは、何かを閃いたとき・思いついたときもある。そういう思いつきを、「ねぇねぇ、ちょっと聞いてよ」と厚かましく人に話しかけるために書くような場合もある。

加えて、思いついてはみたものの、まだそれが漠然としているから書きたくなることもある。「漠然としているにもかかわらず」ではなく「漠然としていているから」である。その漠然とした感じが、書くことを通して整理されることを期待している、ということだ。

私の場合は、おおむね以上のような刺激があって文章を書きはじめることが多い。

執筆

執筆は簡単だ。ただ書くだけ。それも、臨機応変に書くだけ。

タイトルを最初につけるときもあるし、最後につけるときもある。文章を書いている途中でタイトルを「見つける」こともある。文中の表現の中に、タイトルにピッタリなものを発見するような感じだ。

見出しも同様。今回のように、最初に三つの箇条書きを挙げた場合は、自然とそれが見出しになってくれる。しかし、そうならない場合もある。その場合は、「見出し」という仮の見出しを入れておくか、まったく無視して文章を書き、後から「それっぽい場所」に見出しを挿入することになる。

「それっぽい場所」とは何か?

一つには意味的・内容的な区切りを入れたほうがいいと思える場所であり、もう一つは単に分量的にちょうどよい場所である。この二つが重なることもあるし、重ならないこともある。うまく重ならなくても、あまり気にしない。なんなら、2000字くらいの文章で一つの見出しがないこともある。それが許容されるのが、ブログという媒体である。

調整

全体を書き終えたら、一旦読み返して調整する。誤字脱字の確認、リズムの確認、論旨の確認。いわゆる「整合性を取る」作業はここで行われる。

執筆のときは、「ただ書くだけ」なのでこうしたことはぜんぜん関係ない。枝葉の話でも書くし、話がつながっていなくても書く。アクセルを踏むときは、ぐっと踏み込むのだ。

で、書き終えたらちょっと落ち着いて考える。要らない部分は削り、熱く書きすぎた部分はクールダウンし、罵倒の言葉はdelキーで削除する。そうやって「人様」に見せられる文章にする。

なんのひねりもない技術

おそろしいくらいに、なんのひねりもない技術だ。愚直中の愚直というか、スマートさはない。でもまあ、それで特に困っていないのでこれでよいのだろうと思っている。

ちなみに「本」を場合は、上記とはかなり>すごく>ぜんぜん違っている。というか、文章が線だとしたら、本は面や立体なので、そもそものアプローチの位相が異なるのだ。私が、悩む/困るのは概ねそちらの位相である。

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