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リスト化の効能 / 明日は明日のノートを書く / 深い欲望と自己解釈

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2024/07/08 第717号


はじめに

ポッドキャスト、配信されております。

◇BC093「自分の問い」の見つけ方 | by goryugo and 倉下忠憲@rashita2 | ブックカタリスト

二冊の本を通して、「自分の問い」を探すことの意義について話しました。私がよく言っている「セルフ・スタディーズ」に関係するテーマだと思います。

よろしければ、お聴きください。

〜〜〜Obsidian〜〜〜

最近、デイリーの作業記録をObsidianでとりはじめました。

といっても、大げさな変更はほとんどありません。もともとmdファイルの形式で保存していたので、フォーマット的にはまったく同じ。記録を書くためのエディタが、CotEditorからObsidianに変わっただけです。

究極的に言えば、どちらでも大した差はありません。

・チェックボックのオンオフがクリックでもできる
・過去のデイリーページを呼び出すのが楽
・内部リンクが使える

あたりが、Obsidianを使ったときのメリットです。

チェックボックスについては、たしかにマウスでクリックできると便利な場面はありつつも、タスクの修正や作業記録の記入はキーボードで行っており、その操作の延長線上で完了処理を行うことが多いので、そこまで強いメリットではありません。

CotEditorでも自作のスクリプトを作って、ショートカットキーだけでオンオフをトグルできるようにしていました。幸い、Obsidianでも標準でトグルするショートカットキー(Comannd + L)があるので、それを使うことになりそうです。

過去のデイリーページの呼び出しは、直近の日付に限るならCotEditorの「最近使った項目」から呼び出せるのですが、遠い日付になるといちいち探す必要が出てきます。Obsidianであれば、一週間分のリンクはウィークリーにまとめておけますし、Quick Switcherから直接日付でコールすることもできます。

とは言え、ファイルの命名規則が一定しているならば、スクリプトを使うことで日付からファイルを呼び出すこともCotEditorで可能なので、めちゃくちゃ強いメリットとまでは言えません。

最後の内部リンクだけがObsidianを使う大きなメリットで、先ほど述べたようにウィークリーにページに一週間分のデイリーページのリンクを並べたり、デイリーページの中にプロジェクトノートへのリンクを張ったりと用途はいろいろあります。

というわけで、デイリー、ウィークリー、プロジェクトの三つが、内部リンクによってどれだけスムーズな運用ができるのか、あるいは「うれしいこと」が増えるのかが今後の注目ポイントです。その結果によってそのままObsidianで継続か、やっぱりCotEditorに戻るかの判断が生まれてきそうです。

〜〜〜たんたんと〜〜〜

一週間分の作業記録を振り返ってみると、実感されます。日々に特別なことはほとんどなく、似たようなことの繰り返しなのだ、と。

今日原稿を2000字書く。明日も原稿を2000字書く。その次の日も、その次の日も同じように原稿を書く。

唐突に雷が落ちてきて、気がついたら原稿が一揃えでき上がっている、なんてことはありません。本当に地味に日々原稿を書き連ねるしかないのです。

「創造」とか「クリエイティビティ」という言葉は、一瞬のひらめきこそが価値の源泉であるかのように捉えられがちですが、仮にそうしたものに「源泉」があっても、そこまで井戸を掘り進めるには、少しずつスコップを入れていくしかないのです。

そのうえ、作業したらした分だけ確実に「前」に進むとは限りません。ぜんぜん脱線した内容について書いてしまったり、書いているうちにどこに向かっていたのかわからなくなってくる、なんてことも起こります。線形に進むことが保証されているわけではありません。

だから、たんたんと進めるのが一番です。大きな波を作らず、日々のリズムの中で、一定量の原稿を書き続けていく。華々しい話に目を奪われていると、そうした「日常」が見えにくくなる点には注意が必要でしょう。

皆さんはいかがでしょうか。毎日どのようなペースや案配で作業を進められているでしょうか。気をつけていることなどはありますでしょうか。よろしければ倉下までお聞かせください。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、リストを作る効果、ノートの書き方、深い欲望ついてお送りします。

リスト化の効能

前回(715号)では、メモを「リストに入れる」行為を確認した。それは一つの情報を、一つの文脈に置くことを意味する。

では、そのようなリスト化は、どんな意義・効能を持つのだろうか。引き続き、考えていこう。

■3.6 リスト化の効能

メモしたものを捨てるのではなくリストに残しておくことは、「備忘」の効果がある。忘れないための記録。というよりも、忘れてしまっても思い出せるようにする装置。

これはリストに限らずほとんどすべての記録において言えることだが、その上で「リスト」という形式にする意義はどこにあるだろうか。

前回確認したように、「リストに入れる」という行為は情報をある文脈に位置づけることを意味する。「買い物リスト」に「食パン」と書けば、買うべきものとして食パンが位置づけられたことになる。

つまり、リスト化は一つの文脈と共に情報を保存する行為だと言える。「買い物リスト」に入った「食パン」という項目は、単に「食パン」という情報を保存しているだけでなく、自身を包摂するリストによって、それがどのような文脈の情報かも合わせて保持している。

いささか小難しい話をしているようだが、もっと単純に「記述が楽」という即物的な効能もある。つまり「食パンを買う」「カレーのルーを買う」「じゃがいもを買う」というような項目があるとして、あたかも因数分解のようにそれらから共通項を括り、一つのリストにまとめることをすれば「〜を買う」という部分は書かなくても済む。項目の数が多くなればなるほど、この手間の削減もバカにはできない。

そのようにして共通項を括ってできあがったリストは、その共通項が「文脈」として保持される。つまり、手間の削減が、文脈の整理と密接に関係しているわけだ。

■3.6.2 置き場を変える

ここで、電子的なリスト(特にアウトライナー)を思い浮かべてみよう。

「買い物リスト」に「食パン」という項目があるとする。そして、それとは別に「朝食の献立リスト」というリストもあるとする。

このとき、「買い物リスト」にある「食パン」という項目を、「朝食の献立リスト」に移動させたらどうなるだろうか。当然その項目は「食パンを焼く」とか「食パンを食べる」のような意味に変化する。文字列は変わっていないのに、項目が意味する内容は変化したわけだ。

では、移動した項目が「食パン」ではなく「食パンを買う」であればどうか。

その場合は、項目の意味は変わらず、代わりに違和感が生まれるだろう。実に面白い違いだ。

「食パン」という項目の場合、所属先のリストが変わると、その意味も変わる。一方で「食パンを買う」はそうした変化が生じない。

なぜそんなことになるのかは、先ほど確認した構図を思い浮かべればわかるだろう。共通項で括ったリストは、項目が持っている文脈の一部をリストが保持することになる。そして、リスト+項目の形で意味が決定する。

一方で、「食パンを買う」は自身がより多くの文脈を持っている。だから、リストを移したときに、そのリストが持っている文脈との齟齬が生じてしまう。

■3.6.3 文脈操作について

ここから言えることはたくさんある。

まず、項目が持つ文脈をそぎ落とすほど、その項目を他の文脈に載せやすくなる。これがいわゆるナレッジマネジメント(PKMなど)で意識されている点だ。「一つのことを書く」「アトミックにする」などのメッセージは、方向性の違いはあるものの、項目を多重の文脈に属させることが可能なように努める、という点は共通している。

次に、こうした移動は「デジタル感覚」でよく生じる。たとえば純粋に手書きでリストを作っている場合、上記のような「移動」(あるいはコピペ)は起こらず、単に新しく項目を書き加えることになる。その場合は違和感は生じないので、そこで起きていることには気がつきにくい。

ただし、カンバン型の管理手法、あるいは単純に付箋に「やること」を書く場合は、似たようなデジタル感覚が生じる。あるタスクを付箋に書き、それを「TODO」から「Work in Progress」に移動させたら、項目の文脈が変化することがよくわかるだろう。

ある情報のオブジェクトをそのまま別の場所に移動できるときに、文脈の移動を起こせる、という点はタスク管理だけに限らず情報整理全般において有用な考え方だ。

最後に、項目が持つ文脈を増やしていけばいくほど、それは文(ないしは文章)になっていく。そして、どこかの時点で脱リスト化が行われる(共通項を持つ他の項目がなくなるから)。

つまり、きわめて単純な構図を持ち出せば、項目それ自身が完全な文脈を持つ文章という形態が一方の極にあり、リストがほとんど完全な文脈を持って、項目は単語一つだけを持つ形態がもう片方の極にある、ということになる。

そのように捉えると、リスト化は「共通項で括ることができる複数の項目がある」場合に効果を発揮すると言えるだろう。

■3.6.4 リストはまぜるな

以前私は、リスト運用の注意として「混ぜるな危険」という標語を提示した。

たとえば、本来「やりたいことリスト」に加えるべきものを、誤って「やるべきことリスト」に加えてしまうと、混乱が生じる。具体的には、まだ「やりたいこと」に留まっていてそこまでコミットメントが高くないものが「やるべきこと」として認識されてしまい、なかなか実行が叶わずそのことに失望や憤りを感じてしまう、という不都合が生じるのだ。

これもリストの項目が短いフレーズや短文で表現されるから起きてしまう現象である。「来年までにセルフパブリッシングで一冊本を書けたらいいなと思っている」というようなメモがあるとして、それを「セルフパブリッシングで一冊本を書く」という項目で「やるべきことリスト」に加えてしまえば、文脈の変質が起きてしまう。

また、「混ぜるな危険」という標語を念頭に置くことで、「そもそもこの項目の文脈は何だろうか」という考えを持つことができる点にも注目したい。そうした考えを持つことで項目に違和感が生まれ、「じゃあ、この項目はどこに置くのが最適か」という思考につなげることもできる。その意味でも、警句は重要である。

ただし、だ。

リストの文脈は固定的なものではない。置かれた項目によって、文脈そのものが変化することがありうる。

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