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ノートに書いて展開させる/やわらかな研究のノート

言葉にしにくい活動というのがある。

勉学というのでもないし、遊戯というのでもない。語幹的には「研究」が近いのだが、そこまで大それたものではない、という雰囲気も一定ある。そんな活動だ。

そうした活動においてもノートは活躍した。むしろノートがなければ成立しなかったと言ってもよい。

「タスク管理概論」「あたらしい知的生産」「ドラッカー読本」

何かしらテーマを決め、それについて考えたこと、見聞きした情報などをまとめていくためのノート。

誰かから出された課題でもないし、給与が発生する仕事でもない。毎日書いてもログインボーナスはもらえないし、他の人に記述量でマウントを取ることもできない。

ただ何かを知り、それについて考えるためのノート。理解を深めるノート。

以前紹介した趣味のノートでは、どこか別の場所にある情報を、自分の頭に少しでも取り込むためにノートが使われていた。一方で、こちらは情報は参照するにせよ、書き込んだ上で自分で何かを考えるためにノートが使われている。

でもって私はドラッカーの『マネジメント エッセンシャル版』を上のようにノートを書き、考えながら読み進めていった。内容を暗記するためではない。内容を理解するためだ。

ここまでしてやっとこさ、私は「マネジメント」について何かを考えられるようになった。ドラッカーが何を考え、”マネジメント”に何を託そうとしていたのかの、その片鱗に触れることができた。

逆に言えば、そこまで手をかけないと、物事を理解するのは難しい。少なくとも、私の頭の出来では、そういう手間が理解のためには必要となる。

自分の考えを発展していく場合も同じだ。上は「新しい知的生産」のノートだが、さまざまな考えがこのノートに集約されている。こうでもしないと、私の脳は、「自分の考え」の全貌を掴むことすら叶わない。そのときどき、散り散りに思い浮かぶ事柄を、ただ断片的に捉えて終了してしまう。メモリだけがあって、ハードディスクドライブがないパソコンのようなものだ。

だから私はノートを書く。ノートを書いて考える。そうすることで、僅かではあっても、「少し大きなもの」に手を伸ばすことができる。

その動作は、”知的好奇心”と”自分ができる貢献”と”手軽な暇つぶし”が複雑な割合で混じり合う動機に導かれている。「気になる」と「やるべき」と「なんかやろう」が私の手を進めていくのだ。

だからだろう。こうして書きはじめてもぜんぜん進まないことがある。途中までいくけども、それ以上発展しないこともある。「タスク管理概論」のノートなど、最初の2ページを書いてそれっきりで終わっている。

残念と言えば残念だ。でも、自由と言えば自由である。

そうやって書くことを止めても、誰も怒りはしない。自分自身ですら、たいして残念な感じはしない。そのような気安さがあるからこそ、私はこれを「研究」とは呼べないのだろう。そうすることで世の中の「研究」を穢してしまうような気がするからだ(たぶんそれは気のせいなのだろうけども)。

しかしながら、やっぱりこれは研究なのだろう。束縛も要請もまったく強くない、やわらかな研究。

そうした研究を発展していく上で、ノートは非常に強力なパートナーである。なんといっても、ノートは書かなくても怒り狂ったりしないし、通知を送ったりもしない。そういう風通しの良さが、個人的には大好きである。

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