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ノートで知識をうつす / 趣味を楽しむノート

若い頃、かなり真剣にバーテンダーになろうと思っていた。シェイカーやらなんやらの道具を揃えて、シェイクの練習をしたこともある。『バーテンダー』の漫画は愛読書でもあった。そしてもちろん、カクテルの勉強もした。

この時代は、そんなにインターネットの情報は整備されておらず、いわゆる「カクテル事典」みたいなものを引きつつノートに書き写していた。そうなのである。現代を生きる若い人は、あたかも情報がインターネットに「はえている」かのように感じられるかもしれないが、実際はそんなに雑草みたいにわさわさとはえてくるものではない。私がこうしてノートに書き写したのと同じように、誰かが情報をインターネットに公開してくれているのである。新しい技術があたり前になってしまうと、別の形のあたり前がすっかり見えなくなってしまう。

もちろん私は最終的にはバーテンダーにはならず、こうして物書きをやっている。使わない知識は脳からポロポロとこぼれ落ちていくものだが、それでもカクテルの名前とざっとしたレシピはほんのりと私の脳内に残っている。リキュールの名前を聞けば、ボトルのイメージがくっきりと思い出せたりもする。

そうすると、バーに行っても面白いし、バーテンダー系の漫画もより楽しめるようになる。別段そういう「楽しみ」の向上のためにノートを書いたわけではない。私はかなりガチに、こういう道に進もうと思い、真剣にその知識を学ぼうとしただけだ。でも、それはプロには至らず、結局は趣味になった。人生なんて、そういう巡り合わせとすれ違いのインテグラルなのである。だからいつまでたっても、飽きないで済むわけだ。

歌詞をうつす

凝ったのはカクテルだけではない。音楽も私の主要な関心事の一つであり、現在でも引き続きその対象に入っている。

音楽はいくつかの構成要素があるが、昔の私は特に「歌詞」が好きだった。通常の日本語とは違う、独特の感覚で紡がれる言葉たち。そういうものを慈しんだ。だから、ノートに書いた。

もしかしたら、自分も歌詞が書けるようになりたい、という思いはあったのかもしれない。しかし、私は作曲家ではなく物書きになった。一度遊戯的に歌詞を書いたこともあるが、プロとしての仕事ではなかった。今後もおそらくは同様だろう。

それでも、こうして写経的に歌詞を書き写したことは、たしかに一つの経験であったように思う。言葉遣いに注目し、言葉の切れ目に注目し、リズムとの関係性に注目した。そういう「目」が育った、という感覚がある。僕たちは何かを見ているようで、ぜんぜん観てはいないのだ。スケッチやイラストの練習でも言われることだが、言葉に関してもそれは同様だ。リズムと一体化し、音として聞いているだけでは気がつかないことがたくさんある。

ノートを取ると、それが変わる。どうあがいたところで、対象に注意を向けることになるからだ。そして、書き写す情報をごく僅かでも短期記憶(作業記憶)に滑り込ませることになる。これが、コピペとの圧倒的な違いである。

むろん、コピペは便利だ。その簡便さによって、私たちはより多くの情報を扱えるようになった。一方で、その大半は頭を通りすぎていく、ことすらしない。一度たりとも頭(短期記憶)の中に入らないままであることがほとんどであろう。

頭の外にあればそれでいい情報もあれば、頭の中に入っていることで価値が生まれる情報もある。その二つの情報を同じように扱ってはいけない。それはたぶん、現代におけるノートの使い方の一番大切なことであるのかもしれない。

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