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働いていると、本が読めない理由

働いていると、本が読めなくなる理由にはどのようなものがあるでしょうか。

まず、働いていなくても、そもそも本が読めない状態がありえます。識字の問題もありますし、本を読む準備が整っていない状態もあるでしょう。もともと本を読むことって結構難しいのです。

本を読み慣れた人にとって、それができることが当然であり、そうでない状態なんて考えられないかもしれませんが、活字並んでいるのを見ただけで嫌になることは普通にありえます。というか、本を読み慣れた人間ですら、本を読めなくなることが起こります。その点に関しては、永田希さんの『再読だけが創造的な読書術である』が検討してくれています。読書はハードワークであり、一部の本はよりいっそハードに書かれていたりもするのです。

一方で、働く前は本が読めたのに、働きはじめたら本が読めなくなった、ということがあります。ここにもいろいろ要因があり、その問題については三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本が分析してくれています。

さらに、仕事とは関係なく、Aの時点の自分は読めていたのに、時間が経ったBの時点では読めなくなったということもありえます。その際、Aの時点では働いておらず、Bの時点では働いていたのならば、「働きはじめたら、読めなくなった」と認識してしまうことは起こるでしょう。しかしそれは因果関係ではありません。実際には、ITやインターネット技術の進歩や、身体の老化といったことが関係していることがあるのです。特に前者に関しては、デヴィッド・L・ユーリンの『それでも、読書をやめない理由』が面白く読めます。

こんな感じで理由にもいろいろあり、その理由によって打てる手も変わってきます。

読む能力がないならその能力を磨く必要がありますし、読めない状態なら読めるようになるのを待つしかありません。労働環境については、それこそ「労働問題」にするしかないでしょうし(個人の頑張りでは限界があります)、技術的なものであれば自分の生活スタイルを見直す必要があります。

なかなか難しいです。すぱっと「これが問題です」と割り切れたらいいのですが、現実はそうはいきません。

でも、ちょっと思うのです。読みたくないなら無理して読む必要はないし、(読みたいという気持ちも含めての)読めるものがある何であれそれを読めばいい、と。

読書というのは一冊の本を読むことではなく、本という文化と継続的に付き合っていく行為であり、何かしらを読み続けていたら、いろいろなところに「飛び火」していくものです。出版文化の豊かさとは、そういう飛び火のルートをどれだけ複数抱えておけるか、ということでしょう。

途中で読めない時期があっても、世の中から「くだらない」と言われている本を読んでいても、大きな意味で「読書」を続けていれば、当初には思いも寄らなかった場所に自分を連れていってくれる。それが読書という行為なのだと思います。

だから、読みたい本を読みましょう。読みたくなったら読みましょう。まずはそこからです。

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