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タスク管理ツールの課題と展望/合理性と競争力 その1/後戻りできないツイート

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/02/03 第486号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

「書くための名前のない技術」シリーズの新刊が発売されました。

ここで多くは語りません。このメルマガが面白いと思っている方なら、間違いなく面白い本ですので、ぜひご一読ください。これまでのシリーズを読んでいなくても、この単体だけで十分楽しめると思います。

〜〜〜小倉百人一首Scrapbox〜〜〜

今年の最初に書きましたが、我が夫婦で小倉百人一首が盛り上がっています。しかし、私は百首の暗記すらできていないばかりか、下の句を見て、上の句を思い出すことができません。これができないと、事前に戦略──「あしびきの」が読まれたら、「ながながし」を取るぞ、など──が組み立てられないので、圧倒的に不利です。

というわけで、下の句→上の句が覚えられるように、Scrapboxプロジェクトを作りました。

ページタイトルが下の句になっている奇妙なプロジェクトです。とは言え、こうしてカード型で並んでいると、ちょっとカルタ取りっぽいですよね。

現状はまだ50首ほどしか入力できていませんが、毎日少しずつ入力を進めていこうと思います。こういう、ちょっとした情報を断片的に集めていくには、Scrapboxは実に適切ですね。

ちなみに、和歌を集めたプロジェクトは他にもあります。たとえば以下。

結城浩さんの「古今和歌集を読む」プロジェクトもあります。

それぞれに特徴があって面白いですね。

〜〜〜ポッドキャストScrapbox〜〜〜

最近、ポッドキャストをよく聞いているのですが、一つ不満がありました。それは、「新しいポッドキャスト番組にぶつからない」という問題です。

私がTwitterでフォローしている人が新しくポッドキャストを始めた場合なら、その番組を知ることができますが、それ以外となるとさっぱりです。新しい番組の情報がなかなか入ってこないのです。

考えてみると、ポッドキャストを聞いていても、その感想をツイートする機会は非常に少ないものです。Webサイトやブログであれば、パソコンやスマートフォンで閲覧し、そのままツイートボタンを押して感想ツイート、という流れがスムーズですが、ポッドキャストの場合は、その導線がすっきりつながっていません。操作的な問題もそうですが、認知的な違いも関係していそうです。つまり、「読むと書く」と「聞くと書く」には認知距離的な違いがあるのではないか、という話です。

情報摂取の中心がTwitterになっている私にとっては、タイムラインにポッドキャストの情報が流れてこない限り、新番組に出会うことができません。一応、以下のような方法で自発的にポッドキャストを探す方法も教えていただきましたが(ありがとうございます)。検索ワードの設定がなかなか難しく、これですっきり解決するわけでもなさそうです。

というわけで、普段みなさんが聞いているポッドキャスト番組を教えてね、くらいの気持ちで新しいScrapboxプロジェクトを作成しました。

もし、「俺けっこうポッドキャスト聞いているぜ」とか「あんまり知られてませんが、私ポッドキャストやってます」みたいな方がいらっしゃったら、ぜひぜひここにページを作ってください。よろしくお願いいたします。

〜〜〜こうありたい指標〜〜〜

目標というほど大袈裟なものではありませんが、こんな風に生きることができたらいいな、という「指標」みたいなものを持っています。

・可能なら機嫌よく
・少しだけ親切に
・ゆっくりと判断を

・それらができなくても気にしない

一番大切なのは言うまでもなく、一番最後の項目ですが、その点を踏まえた上で上の三つを意識できたら、自分にも周りにもよい感じで生きていけるのではないかと思います。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

「趣味の社会学」というタイトルを聞くと、まっさきにピエール・ブルデューが思い浮かびますが、まさしく彼と同じ問題意識および方法を共有しながら、そのまなざしを日本文化に向けた一冊のようです。

いや〜、書ける人なりたいですね〜。というわけで、<書くことはマクドナルドのハンバーガーではない>という見出しにピンとくるならぜひどうぞ。

このアプローチは必要だと思っていました。文章執筆は、「とりあえず書くこと」と、書いたものを「書き直すこと」の二つのステップで捉えた方が絶対に書きやすいです。で、本書はその後半に焦点を絞っています。『数学文章作法 推敲編 (ちくま学芸文庫)』もすばらしい本ではありますが、物語の推敲を主題とした本書も有用でしょう。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 生きていく上で、こうありたいという指標は何かお持ちでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

今回は、長めの原稿ひとつが入った、計3本の連載でお送りします。

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2020/02/03 第486号の目次
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○「タスク管理ツールの課題と展望」 #タスクリストの作り方

○「合理性と競争力 その1」 #僕らの生存戦略

○「後戻りできないツイート」 #書かないで書く

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「タスク管理ツールの課題と展望」 #タスクリストの作り方

「うちあわせCast第二十四回」に以下の感想ツイートをいただきました。ありがとうございます。

ポッドキャストで何かを語り、ツイートでその感想をいただき、メルマガでそのレスポンスを行う、というのは奇妙なメディア横断ではありますが、自分では案外しっくりくるので、ちょっとやってみることにします。

まずはポッドキャスト内でも指摘したタスク管理ツールの問題点からです。

■タスクリストは破綻する

最初に真理を述べておきましょう。タスクリストは必ず破綻します。特に長期間使われるタスクリストは、まず間違いなく破綻します。

なぜか?

総合的に言えば、変化するからです。状況が、環境が、自分の欲求が、自分の能力が変化するからです。にもかかわらず、タスクリスト自体は変化しません。そこに齟齬が生じるから、タスクリストは破綻するのです。

一番簡単な変化は、「やること」の増大として現れます。別の言い方をすると、ごく普通にタスクリスト(≒Todoリスト)を使っていると、必ずそれは長大化していきます。「やること」が溢れかえってしまうのです。

1日に発生する「やること」が10だとしましょう。そして、実際に実行できることが9だとします。すると、1日経つごとに1つ「やること」が増えていきます。10日経ち、100日経つと、その数は膨大に膨れ上がります。そんなリストを見て、「よし、やろう」という気持ちがどれだけ湧いてくるでしょうか。ドランゴンボールの孫悟空なら「オラ、わくわくしてきたゾ」とテンション上げ目にくるかもしれませんが、一般的な人間の認知はそうはなりません。そんなものは目にするのも嫌になってくるのです。

アナログツールが主力の時代ならば、その点はさほど問題にはなりませんでした。ツールそのものに有限化装置が組み込まれていたからです。

ビジネスツールとしての手帳には、そもそも「やること」を書き込める欄はそれほど多くありません。記入できる量に上限が設定されているのです。

さらに、手書きだから「些細な」ことが書き込まれない傾向もあります。ここでいう「些細」とは、その瞬間の当人にとって重要度がさほど高く感じられない要素ということで、そうしたものが紙の有限性と相まって、記述されない傾向を生んでいたのです。

さらに、一年経てば手帳は新調されます。これまで積み上げてきた(そして、やり残してきた)「やること」たちが、どさっと地面の上に投げ下ろされるのです。

この点は、バインダー式の手帳でも同様です。バインダー式手帳といっても、はさめるページには限りがあるので、ある程度ページが増えてくれば、古いものは必然的に選別の憂き目にあいます。さらに、手帳として「やること」以外にもリフィルが使われますので、手帳に記入される「やること」の量は案外限られているものです。

ようするに、「やること」の管理として見た場合、アナログツールは「完璧完全」な存在ではありません。手落ち、抜け落ち、面倒さが山積みです。

この点を、素晴らしきデジタルツールは一変させてしまいました。嗚呼、なんということでしょうか。私たちは「やること」のすべてを管理できるようになったのです。

■デジタルツールの無限性

デジタルツールは、無限に「やること」を保存できます。もちろん、数学的な意味での無限ではなく(なにせメモリやハードディスクの上限があります)、私たちが実行できる行動の上限からはるかに乖離している、という意味での無限です。

デジタルツールでは、「やること」を100でも、200でも、300でも管理できます。なんなら1000でも1万でも可能です。1日に一つ「やること」のやり残しが発生したとして、それが1000日続いても万事それらを保存してくれるのです。

言い換えれば、1日使うごとに「自分ができていないこと」が増える仕組みになっています。これでやる気が倍増するとしたら、よほどタフな(あるいはマゾな)精神構造を備えている人だと言えるでしょう。ごく普通の人は嫌になってくるはずです。

以前にも書きましたが、現代というデジタルツール全盛期において、バレットジャーナルという手書き手法が注目されているのは、そのようなデジタルツールの無限性に対する拒否感や嫌悪感、あるいはそのようなツールによってもたらされる精神的苦痛が理由の根底にあるのでしょう。

その点は、紙の手帳だけでなく、iPadでもバレットジャーナル方式が活用されている状況が支持してくれます。デジタルツールであっても、無限のリストを作るのではなく、「1日分のやることリストを箇条書きで書く」という有限性があるならば、十分使用に耐えるのです。

この話から延長線を伸ばせば、デジタルツールにだって、まだまだ進化の可能性が残されているという希望が見えてきます。言い方を変えれば、現代に存在するタスク管理ツールは、人間工学的・認知的に見れば、まだまだ発展途上だと言えるのです。

■腐るタスク

では、どのようなタスク管理ツールであればいいのでしょうか。中心となるキーワードは、「有限化」ですが、それをもう少し具体的に掘り下げてみます。

たとえば、堀正岳さんの新刊『「リスト」の魔法』では、「やることリストは3日で腐る」と述べられています。意味としては、この原稿の冒頭で私が書いたこととイコールですが、むしろ私は表現が逆だと思います。やることリストは、いつまでたっても腐らないから問題なのです。特にデジタルツールではより顕著にそうなります。

たとえば、「1月28日」に発生した「やること」があるとして、その重要度がSSSだったとしましょう。それが一週間経ってSSになり、さらに一週間経ってSになり、もう一週間経ってAになったとしましょう。やらなくても支障はないが、やった方がいいかどうかで言えばやったほうがいい、みたいな「やること」です。

そのように「やること」が変化しても、やることリストでは、その「やること」は明瞭な存在感を持って、そこに存在し続けています。なんなら重要度SSSのバッチをつけているかもしれません。腐らない=変化しない、からです。

もし、その「やること」が生物(なまもの)だったとしましょう。みかんとかりんごみたいなものをイメージしてください。そうしたものは四週間も放置されていたら腐ります。一見するだけで、「不要」と判別できる状態になるのです。当然私たちはそれを即座にゴミ箱に投げ入れます。なんの認知的判断も必要なく、「あっ、腐ってる」と捨ててしまえるのです。

しかし、現実のデジタルやることリストでは、「やること」は腐りません。まるでホルマリンで固められたかのように、作成された当時の姿を保ってそこに存在し続けます。私たちはその姿を目にして、「ああ、これもやらなきゃな」という気分にさせられるのです。

また、その「やること」を削除するためには、「これは本当にやらなきゃいけないことなのか」としっかり自問しなければいけません。これは、認知的には相当な苦労です。なにせ、「やった方がいいかどうかで言えばやったほうがいい」ことなのですから。

アナログツールの場合、時間が経ったタスクは視覚情報を伴って、それを知らせてくれます。インクが薄くなる、紙が古くなる、紙がクシャクシャになる……。そうした情報は、強い判断を持ち出さなくても捨てられます。あるいは、情報が古いという視覚情報が人間の判断をサポートしてくれる、という言い方もできるでしょう。どちらにせよ、紙自体は捨てられなくても、そこにある情報の重要度は捨てられるようになります。

デジタルツールはどうでしょうか。もしデジタルツールをお使いなら、一ヶ月前に作った(そして未達成の)タスクと、今日作ったばかりのタスクを見比べてください。そして、情報的差異がどれだけあるかを吟味してください。ほとんど存在しないはずです。それが、タスクが「腐らない」ということです。

*注
(この辺のお話は、『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』と絡めてより大きく展開できると思いますが、とりあえずここではその思いつきを書き留めるだけにしておきます)

■タスクを腐らせる

よって、望ましいのは時間と共にタスクが「腐っていく」ツールです。具体的な実装法はいろいろあるでしょうが、たとえば作成日からの経過時間によって、フォントカラーが薄まっていったり、あるいは文字が小さくなっていく表現があるでしょう。最終的にそれらのタスクは自動的に削除されたり、あるいはボタン一つで一括削除できるとベストです。

そのような機能があれば、「やること」が無限に溢れかえることはなくなります。時間が経てば「やること」は減り、一定の系が維持されるようになります。

もちろん、自動的に削除されたら困る「やること」というのはたしかにあります。非常に重要だが、そのときはたまたま実行することができなかった「やること」などがそれです。

つまり、着手されなかった「やること」には、以下の二種類があるわけです。

・どうしても、やらなくてはならないこと
・やらなくても、別に問題なかったこと

現状のタスク管理ツールは、未着手のタスクをすべて「どうしても、やらなくてはならないこと」として扱っています。だから、実行日が過ぎたタスクなどは、薄まったり消えたりするのではなく、むしろ赤字になるなど強調表示されることすらあります。

しかし、現実を見てみれば、私たちの「やること」の大半は、実は後者であり、前者のような超重要タスクの数は限られています。にもかかわらず、タスク管理ツールでは、前者がデフォルトとして扱われているのです。

構図としては逆にすべきでしょう。つまり、何も触らず放置していたら自動的にタスクは消えてしまうが、もしそのタスクが重要であるならばボタンをクリックするなどして表示を回復させる、といった仕組みです。

よくアクションゲームなどで、ボタンを連打している間だけ空中に浮かんでいられる仕組みがありますが、それをイメージしてもらうと良いでしょう。あるアクションを取り続けない限り、メインの「やることリスト」に居座り続けることができない形(つまり有限化装置)を仕組んでおくことで、リストの項目数を限定するわけです。

考えてもみてください。

「必要でないものを消すための手間」
「必要なものを消さないための手間」

どちらが、実行されやすいでしょうか。どう考えても後者でしょう。しかし、タスク管理ツールでは、前者の手間がほとんど前提になっています。なぜなら、一度登録した「やること」は、未来永劫「やること」だから──という価値観があるからです。でも、それは現実的ではありません。

「やること」は、時間と共に「やること」でなくなることがあります。「やらなくてよいこと」になったり、「やった方がいいこと」というある種のアイデアになったりするのです。そして、この変化は、実行される「やること」の数と同じか、それ以上存在する場合も少なくありません。

本当に使いやすいタスク管理ツールをデザインするならば、そうした変化もまた織り込んでいく必要があるでしょう。

■苦難の道

とは言えです。そのツールの開発の道のりは簡単ではないでしょう。

なぜか。

技術的な難しさがあるから、ではありません。むしろデジタルツールなら一度入力したものの自動的な変更は得意ですし、デジタルならではのランダム表示も可能なので、可能性の点で言えばデジタルツールよりも広いと言えるでしょう。

では、なぜ難しいのかと言えば、それは一度発生した「やること」は、未来永劫「やること」だから、という価値観があまりにも強いからです。もっと言えば、社会制度からの要請があまりにもその色に染まっているからです。

タスク管理ツールに限らず、「hogehoge管理ツール」というのは、現在の状況と目指すべき状況の乖離を埋めていくために使われます。現状がAであり、目指すべき状況はCである。だからA→B→Cと進んでいく──そのようなイメージです。

別の言い方をすれば、管理が必要とされる状況とは、AからCに向かって引っ張っていく力が働いている状況、ということです。

A→C

もしそのタスク管理がセルフマネジメントなら、→Cの力は「こうありたい」という自分の願いであり、会社の業務なら「会社的に達成したい状態」という要請になります。

で、一度発生した「やること」は未来永劫「やること」だから、という価値観とは、→Cの力があまりにも強く、また固定されている状況を意味します。「現在の私」というAがあり、そのAがとても強く引っ張られているイメージです。

もし、そのような状況こそが善である(あるは美徳である)と考えられているならば、私が想像するようなタスク管理ツールは求められないでしょう。

あなたが企業の総務に勤めていて、新しいタスク管理ツールを導入する場合、以下の二つの謳い文句のどちらに惹かれるでしょうか。

・「やること」が絶対できるようになるツールです。
・その人ができることに合わせて「やること」を調整するツールです。

前者の方が魅力ではないでしょうか。なにせ「やること」が絶対に達成されるのです。管理者にとってこれほど素晴らしい状況はありません。

しかし、「絶対」というのは非常に危ういものでもあります。引っ張ってはいけない力で人間を引っ張ってしまうこともあるからです。にもかかわらず、「これは仕事だから」といった文言が、その想像力を切断し、強く引っ張る力に応えることこそが美徳である、という価値観を醸成してしまいます。

別の見方をすれば、現在のデジタルタスク管理ツールが、「やること」を絶対達成されるべきものとして扱っているのは、そのような要請が(あるいはそれを是とする価値観が)世の中に広がっているからだと言えるでしょう。

そのような価値観がひっくり返らない限り、私が理想とするタスク管理ツールが生まれたとしても、それが支持されることはないでしょう。少なくとも、個人用途以外では広まらないと想像します。

■逆に言えば

と、やや暗めの話をしてしまいましたが、逆に言えば広く受け入れられることを放棄するならば、そういうツールがあっても全然構わない、という話でもあります。

で、そのツールの理念を包括的に言えば、有限化装置が組み込まれたタスク管理ツールであり、その実装は「タスクが腐る」とか「1日ごとのタスクリストを作る」とか「1日のタスクリストに追加できるタスクに上限がある」とか「割り込みタスクを追加するのに非常に手間がかかる」とか、いろいろな形が考えられます。

で、ここまで考えてみて、そうしたツールをJavaScriptなどで作ってみてもいいかな、という気持ちが少し湧いてきました。うまくできるかどうかはわかりませんが、複雑な機能を持たせないなら、自作は可能でしょう。体調と相談しながら、取り掛かってみてもいいかもしれません。その辺の展開は神のみぞ知るところです。

とりあえず、私たち人間は、不完全な存在です。にも関わらず、タスク管理ツールは完璧完全にタスクを扱えます。この乖離こそが、タスク管理が破綻する一番の原因だと私は考えます。

だからこそ、人間の不完全さが前提になったツールが必要で、しかもそれは、そういう不完全さを許容する社会の価値観とセットになってはじめて効果を発揮します。→Cの力が強すぎる状況でツールだけ変えても、やっぱりうまくいかないのです。

この辺が、タスク管理の難しいところですね。次回も少し、その辺の話を絡めてタスク管理とタスクリストについて書いてみます。

(つづく)

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