見出し画像

なぜ今、知的生産の技術なのか

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/10/05 第521号

○「はじめに」

2020年10月最初の号です。

当メルマガは、2010年の10月にスタートしたので、今月で10th anniversaryとなります。

「521号」という数字もなかなかのものですが、「10年」はより重みを感じますね。まあ、1年を10回繰り返しただけとも言えますが。

というわけで、今回は10周年記念特別号として、まるまる一号「知的生産活動」について考えます。その技術やノウハウではなく、なぜそれをするのかについてです。

では、さっそく本編にまいりましょう。

*本号のepub版は以下からダウンロードできます。

○「なぜ今、知的生産の技術なのか」 #知的生産の技術

最近、定期的に頭をよぎる疑問があります。

「なぜ私たちは知的生産を行うのか」

という疑問です。その疑問は、以下のようにも展開します。

「なぜ今知的生産の技術を学ぶ必要があるのか」
「それはなぜ知的生産の技術でなければならないのか」

どうやら私はこの疑問に「それはこういう理由からですよ」とスッキリした答えを返せないようです。明確な理由を提示できないのです。そのことは、私がいつまで経っても「知的生産の技術」の言い換え(パラフレーズ)を思いつかないことと呼応しているのでしょう。コアにあるものを捉まえられていないのです。

ですので、今回はあらためてこの疑問に、真正面からぶつかってみましょう。

■情報社会における知的生産の技術

現代は情報社会です。日常生活のあちらこちらに情報が顔を出し、特別な職業ではなく、ごく普通の一般市民が情報を受信し、処理し、発信できる時代です。また、そうした活動が社会における価値を担保する時代でもあります。

1969年に『知的生産の技術』を表した梅棹忠夫は、自身が研究活動で行っているさまざまな情報処理のためのノウハウを「知的技術の技術」と名付け、その有用性を説きました。

理屈はこうです。社会は、少しずつ情報化が始まっている。情報を生み出すことが「積極的な社会参加」の意義を持つようになっている。家庭の中ですら、情報処理は欠かせない。にも関わらず、あまりそのための技術が教えられてはいない。だから、ノウハウを共有する意味でも、問題提起する意味でも、この本を表す。

梅棹自身は、学者・研究者であり、まさにその「知的生産」を生業としていたわけですが、彼のまなざしは、そうした特別な職業だけでなく、もっと広く一般に「知的生産の技術」が求められるようになる未来を見ていたのでしょう。それと共に、すでに家庭の中などに存在していた「知的生産の技術」にも注目し、その普遍性の高さも確認していたように感じます。

■■新しいメディアの出現

梅棹の言論活動が活発だったのは、ちょうどテレビというメディアが新しく花開こうとしている時代でもありました。1960年からカラーテレビ放送が開始し、1969年には日本のテレビ受像機生産台数が世界1位にもなっています。ハードウェアの普及と共に、テレビというメディアが真の意味でマスメディアになろうとしていたわけです。

もちろん、テレビ以前にも新聞やラジオといった全国民向けのメディアは日本にも存在していました。しかし、新聞は識字の問題があり、さらに読書と同じように「読むつもり」と認知資源的余裕がなければ内容は頭に入ってきません。ラジオは、そうした問題はないものの、目に見える情報が提示されないので、わかりにくさが常につきまといます。その点は、「図解でわかる」と銘打った書籍のわかりやすさやと対比すればイメージしやすいでしょう。

テレビは、映像・音・文章といったものを複合的に使うことができます。さまざまなルートを使って受信者に情報を届けられるのです。特定の認知スキルを持つ人だけでなく、より広範囲に情報を発信できるのです。それこそが、マスメディアと呼ぶにふさわしい特性でしょう。

梅棹は、放送局・テレビ業界とも交流があったようで、そこでテレビというマスメディアの現場の空気を感じていたのでしょう。おそらくその空気は、伝統的な新聞や書籍の現場とは違っていて、新しいカルチャーを生み出す気概や雰囲気が充満していたのだと想像します。

つまり、「情報を生み出すことが仕事」の学者やジャーナリストとはまた違った、情報を生み出す仕事、それも必ずしも学問的・教養的に価値があるとは言えない情報を生み出す仕事が、その時代に開花しようとしていたのでしょう。ニッチではなく、マス向けとして。

■■梅棹の二つのまなざし

この「必ずしも学問的・教養的に価値があるとは言えない情報を生み出す仕事」に、新たな価値を見出すという梅棹のまなざしは、彼が民族学を研究していたことと無関係ではないでしょう。そうした学問では、人々の生活の中にあるごくありふれたものに注目します。一度きりしか起こらない特別な出来事(イベント)や、権威によってすでに価値が確立されているものではなく、人々の日常を構成している物々に注目するのです。

そのまなざしは、当然のように日本人の生活にも向けられるでしょう。つまり、一見すると知的生産とは無縁に思える主婦(家で家事を切り盛りする人)だって、日々情報を受け取り、処理し、生み出しているのだと見出すのです。

こうした二つの視点は、やがて包括的に結びついていきます。つまり、学者の専門的な仕事だった「情報を扱う仕事」が、情報産業の開花と共により広範囲に広がっていくと同時に、主婦が家庭で日常的に行っていることが、より多くの人にとっても当たり前になっていく、という形で「編み込み」が生まれてくるのです。あたかも二本の糸によって、大きな絵柄が描かれるかのように。

だからこそ、現代社会で生きる私たちには、知的生産の技術が必要です。片方では、情報産業が一般化した社会(≒情報社会)において、何かを生産していく(create)ために。もう片方では、大量の情報のやり取りが普通になった社会(≒情報社会)において、スームズに日常が送れる(live)ように。

これまでの社会とは異なった文化が花咲くのですから、それに適応するための技術も新しいもの準備する必要があるでしょう。

■知的生産の技術を求める理由は何か

といったことは、「なぜ知的生産の技術が必要なのか」を説明する上で滔々と述べることができます。言い換えれば、『情報化社会における知的生産の技術』という本を書いたときに、その冒頭の章に以上のような説明を置くことはできます。

しかし、その説明で本当に説明しきったのかと自分に問うてみると、どうにもモヤモヤが残ります。

嘘は一つも含まれていません。たしかに現代は情報社会であり、情報を生み出す力が価値を持ち、情報を扱う力が日常生活においても重要であることは否定できません。

でも、です。

自分が「知的生産の技術」的な情報を欲し、自分でもあれやこれやを試しているのは、はたしてそれが理由なのでしょうか。つまり、「情報社会で生き残る」ために、それらを求めているのでしょうか。

どうにも違う気がします。

もちろん、そういう効能をまったく狙っていないわけではなく、副産物的にありがたいとは思っています。しかし、仮に現代が情報社会ではなく、情報産業が花咲いてもおらず、日常生活においてさして重要でなくても、私はこうした技術に興味・関心を持っていたような気がします。

つまり、上で説明した「理由」は、少なくとも私にとっての根源的な理由ではありません。それは、結果的に(つまり後から)気がついた効能のようなものです。たとえて言うならば、温泉が気持ちよくて通っていたら、リュウマチが良くなった、的なものです。メインは「温泉が気持ちよくて」であって、リュウマチを直すことではありません。

しかしもし、温泉の気持ちよさが他の人に伝わらないなら、「温泉に浸かれば、リュウマチが治りますよ」とアピールしてもいいのではないか、とも思います。ちょっとしたレトリックのようなものでしょう。

■■レトリックの弊害

とは言え、そのレトリックには二つ弊害があります。一つは、リュウマチが本当に治るのかどうかを保証できないことです。あくまで「私の場合はそうなった」だけであって、他の人に同じことが起こるのかは科学的な証明ができません。それは多少不誠実な言説に思えます。しかし、書き方にさえ気をつければ、その点は許容範囲かもしれません。しかし、もう一つの弊害はもっと深刻です。

というのも、もしリュウマチが治らなかったら、その人は温泉にまったく興味をなくしてしまうでしょう。結果的な効能と「理由」を直に結びつけてしまうと、そうならなかったときに「じゃあ、いいや」とサヨナラされてしまうのです。

これは一つ目の弊害と重なって、結果的にその行為に見切りをつけてしまう人を増やしてしまうかもしれません。つまり、もともと少し興味を持っていた人に、その興味を捨て去ることを促してしまうのです。

さすがにそれは避けたいところです。

だから、私が関心を向けている「知的生産の技術」を、他の人に伝えたいと願うなら、結果としての効能ではなく、直接の「御利益」を見出す必要があるでしょう。言い換えれば、私はまず、私自身の関心を探らなければなりません。

■私の知的生産はどこから始まったか

私の胸中に「知的生産の技術」的なものへの興味が目覚めたのはいったいつ頃だったのでしょうか。なかなか思い出すのも難しくあります。

小学生の頃からノートが好きで、勉強以外の事柄にもよく使っていました(これは次回のかーそるで紹介予定です)。中学生の終わりくらいにはワープロ(ワープロ専用機)で、ひいき目に見ても小説とは呼びがたい小説を書いていましたし、高校生の頃は(主に授業中に)原稿用紙でショートショートを書いていました。

もちろん、こうした行為は「知的生産」と呼べるのですが、私にはその自覚はなく、単に遊びの一環としてそれをやっていただけです。

少し変化があったのは、高校時代の後半でしょうか。そう、大学受験です。私は、「良い大学を出て、一流企業に就職する」というロールモデルに中指を立てて生きていたものの、それでも行けるなら大学に行って、たとえばコンピュータ系の勉強をしたいと考えていました。なぜか。プログラマになれば、独立して生きていけると(かなり甘く)考えていたからです。

実際、コードが書けるだけでフリーのプログラマとして生きていくのは相当難しいと思いますが、社会のことをろくに知らない私は、技術さえあればひとりで生きていけると考えていました。組織に属さず、自分の腕一本でやっていけると信じていたのです。

ではなぜプログラマだったのか。実際は、何でも良かったのです。技能職でやっていけるなら、職種にえり好みはありませんでした。ただ、私は子供の頃からテレビゲームが大好きでよく遊んでいたので、そうしたものを自分で作れたらいいだろうなとは考えていました。わりと安直な「進路」です。

ともかくそのような動機づけがあり、ある程度真面目に勉強をする必要がありました。そこで出会ったのが野口悠紀雄の『「超」勉強法』です。

それまでは、「参考書トラップ」──新しい参考書を買い、それを少しやってみるものの結局続かず、「自分に合った」別の参考書を買って、以下繰り返し──に嵌まり込んでいた私ですが、本書と出会ってから、勉強法が大きく変わりました。ともかく何度も一冊をやり込むスタイルに変化したのです。

その変化と共に、「〜〜法」への興味も生まれてきました。というか、ファミコンで遊んでいた時代から、「攻略法」や「裏技」などは大好きだったのです。そして、それと同じものが、学業にもあるのだと発見したのでした。だとすれば、その他の分野にもさまざまな「方法」があると思い至れます。「方法」との出会いです。

結局『「超」勉強法』から『「超」整理法』へと進み、さらに他の知的生産の技術本へとアクセスすることになりました。このように、読書は芋づる式にどんどんとつながっていきます。出会いは次なる出会いを呼び、その道程は旅と呼ぶにふさわしいものへと変容していくのです。

■■三つの観点

このように自分の歩みを振り返ってみると、「知的生産の技術」への興味は、以下の三つの観点が集まる焦点だということに気がつきます。

・方法への興味
・表現や作ることの楽しさ
・自分の腕で仕事すること

「知的生産の技術」は、名前の通り「技術」です。あるいはノウハウです。私はノウハウ・技術・方法に興味があり、知的生産の技術は、それが技術というだけで興味を惹かれます。別の言い方をすれば、知的生産以外でも、それが技術であれば私は興味を持ちます。

また、私は小説やゲームを自分でcreateすることが好きです。知的生産の技術は、まさに何かを生み出すための技術なので、私の好きなことをサポートしてくれます。

さらに、現代では、そうして何かを生み出すことが価値を伴います。言い換えれば、情報や知識を使って仕事ができます。「プログラマーになりたい」という私の夢(あるいは甘すぎる願望)は未達に終わりましたが、大学生時代に小さい企業のホームページを作成するアルバイトをしたり、喫茶店のメニューのデザイン作業などを請け負った経験から、「企業に所属することなく、単純作業でもなく、仕事をしてお金をもらえる」ことを理解していて、その理解が今の仕事(文章を書いて、生活費を稼ぐ)にもつながっています。

当然、そうした仕事をうまくこなしていくために、「方法」は役立つわけですから、これで三つの点は見事に重なります。

■■加わるもう一つの点

もう一つ、インターネットが普及したことで、上記の三つに新たな点が加わりました。それが人とのつながりです。

正直に言って、大学生の頃まではこの社会に馴染めず、どこかはぐれた感覚を持っていました。しかし、インターネット以降、急激に「知り合い」が増えることになります。ブログやTwitterのおかげです。

社交的でもなければ、協調性も高くない人間にとって、あの時代のインターネットは素晴らしい「逃げ場所」であり、「もう一つの現実」でした。そこには、人がいて、場所があったのです。そして、それを生み出していたのが情報発信でした。自分で自分のブログを書くこと。あるいは、他の人のブログにコメントを書くこと。そうした行為によって、リアルな社会生活では得難い人とのつながりを持つことができました。これはまったく予想していなかった出来事です。

インターネットによって、ひとりの人間がたくさんの情報につながれるようになることは自明ですが、実はその奥に多くの他者とつながれる可能性もあるのです。そして、そのトリガーを引くのが発信・更新・アウトプットと呼ばれる行為です。

単に、ROM(Reading Only Member)しているだけではダメなのです。何か言うこと。それが欠かせません。

何かを語れば、必然的にその語りは、語り手そのものについても語ることになります。「その人がどんな人か」というWho情報を開示するのです。

もちろん、それによって遠ざかっていく人もいるでしょうが、逆に寄ってくる人もいます。当然、そうした人たちは興味のベクトルが近しい人であり、生まれや育ちといった共通項で括られる人たちではありません。それまでの日本社会から考えれば、そうとう異質な人間関係と言えるでしょう。

インターネットで発信することによって、私は(オフラインでは得られなかった)人と人とのつながりを得ることができました。その実際的な体験があったからこそ、梅棹が「積極的な社会参加」だと述べた文章を読んだときに、「まさにその通りだ」と深く頷いたのです。

今ではもう、そうしたつながりを抜きにした「日常」は想像もできません。むしろ、私の軸足の半分くらいはそちらの「日常」にあるくらいです。

もし、あの時代にインターネットがなく、ブログという文化が花咲いていなければ、私の人生はもっとじめじめしたものになっていたでしょう。その意味で感謝してもしきれませんし、同じような境遇に陥っている人に、ぜひとも発信を勧めたい気持ちがあります。

■■いくつか付け加えること

二、三付言しておきましょう。

まず、プログラミングや文章執筆で仕事をすることは、参入するための設備投資が極めて安価です。言い換えれば、経済的に恵まれた環境になくとも、とりあえずその仕事を始めることができます。もちろん、知識労働者としての最低限の能力を身につける必要はありますが、少なくとも工場を立てたり店舗を構えたりすることよりははるかに低コストでスタートできます。その点が、知的生産活動の大きな魅力の一つであり、現代のインターネットにおける活動の魅力にもつながっています。

とは言え、継続的に高いクオリティーで仕事を続けていくためには、知識の習得や技能の開発などでコストがかかる、という点は忘れてはいけないでしょう。あくまで、参入するためのコストが低いだけです。それでも、その特性が開く門戸は、多くの人にとって意味があるはずですし、これからの日本においてはさらに重要になるかもしれません。

次に、ここまで書いてきたことは、どちらかと言えば「生産」や「アウトプット」を重視した話で、「読書」や「インプット」に関してはやや置き去りでした。私の読書遍歴については、片方で能力開発的な読書もありつつ、もう片方ではいわゆる「インテリへのあこがれ」の側面もあり、なかなかうまく腑分けできません。

しかし、「知的生産の技術」を構成するのは、「読む・書く・考える」なのですから、読むことも無視するわけにはいきません。この点については、また改めて「なぜ本を読むのか」という(大きな)テーマで考えてみたいと思います。

■ふたたび「知的生産」について

さて、もう一度、「知的生産」という言葉に戻ってみます。

「知的生産」は、「物的生産」(ものづくり)と対比的に持ち出された言葉です。正確に言えば、「物的生産」と「知的消費」に対比する形で、この言葉は位置づけられています。

急激な工業的発展を遂げた日本において、生産とは「物的生産」を意味していました。しかし、放送局など新しい情報産業が立ち上がる中で、その「情報生産」にも生産的価値があるんだよと、高らかと宣言したのが『知的生産の技術』であり、『情報の文明学』だったのだと思います。

その宣言は、知的生産の技術の有用性と共に、これから訪れる情報社会を予見するものでもありました。そして、実際に2020年の今は、情報社会になっています。情報との付き合い方を知らなければ、いろいろな面で損をしたり、被害を被ったりする状況はたしかにあります。逆に、情報の力を使うことで、新しい人とのつながりや、自分の腕を使った仕事と出会えるようになってもいます。

自分の経験から言っても、つまり梅棹さんの著作を一冊も読まなかったとしても、私はそのような技術が有用であると実感を込めて断言していたでしょう。もちろん、『知的生産の技術』を読んだことで、その思想的枠組みにバックボーンが得られたことも間違いありません。

しかし、それは何も「知的生産」と呼ばれなくても良いのです。私はその言葉を出会う前から、そうした行為を行っていましたし、また、そのための技術にも興味を持っていました。もちろん、そうした技術が世に問われるようになったのは、回り回って『知的生産の技術』のおかげなのですから、この本が間接的にであれ私の原点(ないしは原典)ではあるのでしょう。でも、私はこの言葉にそれほど強いこだわりはありません。

たしかに、「知的生産」は知的生産以外に呼びようがない行為です。情報に知的作用を与えて、新しい情報を生み出す行為は、「知的生産」以外のなんだというのでしょうか。しかし、「知的生産の技術」は違います。情報に知的作用を与えて、新しい情報を生み出すための技術は、他の場面でも活躍するはずです。

だから私の中では、「知的生産」と「知的生産の技術」という言葉は、それぞれ別の本棚にしまわれています。片方は、もはや動かしがたいものとして、もう片方は何か別の言葉に差し替えられるのを待つものとして収納されているのです。

そして、私が注目しているのは、後者の言葉の変容です。

■考えることの再焦点

長らくあれやこれやと書いてきました。まったく結論めいたものはありませんが、以下の問いが新しく立ち上がってきています。

「考えることや作り出すこと、あるいはそのための能力の技術は何の役に立つのか」

おそらく現代において、「情報を作り出すことに価値がある」などと強調する必要はないでしょう。情報から価値が生まれるのはもはや当たり前になっています。だからこそ、「知的生産」と言ったときに、情報生産の意味が背景に消えていき、「知的」という部分が際立って感じられるのだと思います。

情報が身近で、溢れ返っている現代においては、1969年とは違ったものを強調する必要があるのでしょう。

では、そうした生産を行うことでどんなメリットがあるのかと言えば、端的に言って価値を生み出せる(≒お金が稼げる)ことなのですが、転売でもアフィリエイトでもお金が稼げるのですから、「お金が稼げる」だけでは説明は十分ではないでしょう。でもって、「お金が稼げる」だけの行為との違いが、まさに先ほど書いた「強調する必要」があるものだと推測します。

では、それは一体なんなのでしょうか。

謎は深まるばかりです。

■■昨今の事情

もともと日本の経済は下降気味でありましたが、コロナで一気にその悪化具合が加速したように感じられます。そんな厳しい状況の中で、お金持ちのインテリが行う余暇のしての知的営為を、さも救世のしるべのように旗振りすることはとてもできません。

一方で、その知的営為には、私が若い頃に感じていた息苦しさを脱する力があることも確かです。その力は、まさに今厳しい状況に置かれている人にこそ必要なものだと言えるでしょう。というか、おそらく「知的生産の技術がある」のではなく、「知的生産の技術しかない」という状況にこそ、私は注目すべきなのかもしれません。

かつて村上春樹は、小説は原稿用紙さえあれば、何の後ろ盾もない青年でも社会に向けて言葉を投げ掛けることが可能な表現である、といった旨を述べましたが、私が知的生産の技術(とそれに関係する生産活動)に感じているのも同じ気持ちです。

情報を扱って、価値を生み出すことは、ほとんど他に何も持たない人間でもスタートさせることができる営為です。「私」と社会を関連づけることが可能な活動です。つまり、この社会と切断されている人であるほど、その営為が持つ価値は高いはずなのです。

しかし、知的営為においてはインテリ趣味の活動が、情報生産においては短期的な効能しかないアフィリエイト活動が生息し、大きな力を持っています。そうしたものたちに、伝えたい知的営為が吸収されてしまうことを私は恐れています。

明らかに力(≒お金)があるのは、そうしたものたちなわけですから、心配しすぎということはないでしょう。

■■君の名は?

どちらにせよ、社会は変革のときを迎えています。情報化へのシフトと共に、旧態然とした社会構造はどんどんと機能不全に陥っていくでしょう。そうした難局を乗り切る上でも、情報を扱い、価値を作り出し、人とつながれる力は極めて重要だと考えられます。

私が名付けることを切望している知的営為とは、そうした行為の総体です。たしかにそれは、「知的生産」とは呼べるのですが、きっともっと違った言い方があるでしょう。現代にふさわしい言い方が。

一体、その名前は何なのでしょうか。

まだしばらく、その問いと付き合っていくことになりそうです。

(なぜ本を読むのか編に続く)

○「おわりに」

お疲れ様でした。本編は以上です。

というわけで、今週は特別号でした。来週はまた通常号に戻る予定なので「なぜ本を読むのか編」はもう少し先になりそうです。お楽しみに。

それでは、来週またお目にかかれるのを楽しみにしております。

______________________
メールマガジン「Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~」

当メルマガは、読む・書く・考えるについての探求を中心にお送りするメルマガです。

本の読み方、文章の書き方、何かについての考え方。その実際例を、舞台裏を含めてお見せします。皆さんの思考の材料や刺激剤になれば幸いです。

本メルマガの引用は、ご自由にどうぞ。一般的な引用の範囲であればどのようにお使い頂いても構いません。

また、知り合いの方に「こういうメルマガあるよ」ということで転送してもらうのも問題ありません。常識の範囲内で、パブリックなスペースに掲載されてしまう可能性がなければ、回し読みしていただいても著者は文句は言いません。

もし、何かご質問があれば、全力でお答えします。

「こんなこと、書いてください」

というテーマのリクエストもお待ちしております。

こちらのメールに返信していただくか、tadanorik6@gmail.com までお送りください。

また、Twitterでの感想もお待ちしております。

https://twitter.com/rashita2/timelines/427262290753097729

上記のように #WRM感想 のハッシュタグを付けていただければ、私が発見しやすくなります、

もちろん、@rashita2 へ直接リプライいただいても結構です。

ここから先は

0字

¥ 180

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?