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第五回:「これより、オペを開始する」

二つの神話を解体していきましょう。

「天才の個人性」と、「マスメディアの絶対性」です。

ジョシュア・ウルフ・シェンクの『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』は、面白い事実を突き止めています。その事実とは、私たちが認識する「天才」は、絶対孤高の存在などではなく、むしろペアとなる存在との相互作用でその力を発揮している、というものです。

どちらか1人がいつも岸に立っていれば、もう1人が水中に沈みかけても命綱を投げることができる。さらに、気分や安定、健全さを保とうとするときは、2人の個人ではなく、自動平衡制御装置がついた1つのシステムの2つの部品として機能する。

この見方に立てば、天才の作品は当人のみの「仕事」ではなく、むしろ彼を一つの部品としたより大きなシステム(系)の出力として捉えられます。

もちろん、その「部品」なくしては作品の完成には至らなかったでしょうが、かといってその「部品」だけあればよいというものでもありません。

現代でも、プロダクション形式で作品を生み出し続けているグループ(たとえば、「さいとう・プロダクション」)はありますし、時計の針をぐるっと戻しても、ルネッサンス時代には「工房」がチームで作品を作成していました。

一人でコツコツと書き続ける作家であっても、編集者とのペアで最終的な制作物に磨きをかけますし、そうでなくとも家族やパートナーにちょっとした相談を持ちかけることは多いでしょう。

程度の差はあれ、「たった一人」で何かを生み出している人は誰もいません。稀代の天才だって、人類が積み上げてきた文化という「支援」を受けて、作品を生み出しているはずです。

しかし、このような考え方は、あるものと相性がよくありません。そう、著作権です。

グーテンベルクの革命以降、著作を複製(コピー)できるようになり、それを制限したり、あるいは複製から発生する利益を分配したりといった、新しい「問題事」が生じるようになりました。その解決策として生まれたのが、著作権です。

むしろそれまでは、作品や物語を誰が「作ったのか」はあまり問題とされなかったのでしょう。そもそも、古来の物語は伝承的であり、言い伝えの中で多くの改編が施されていることがほとんどです。そのような作品は、厳密に「誰が作ったのか」は定義できないのですが、それでは著作権をうまく設定できません。だからこそ、そうしたややこしい背景はひとまず捨象して、誰かひとりの個人がその作品を「作った」(≒複製のための権利を持つ)としたわけです。

これはもちろん、ヨーロッパ的な「個人とその権利の発達」をバックグランドに持っていることでしょう。個人意識の芽生えと、個人が持つ権利の設定というのは、著作権の設定と非常に噛み合っています。

また、情報の受け手である私たちも、「たくさんの人で構成されるチームが作った作品」という認識は認知的に負荷が高いので、たいていは思い浮かべやすい人間ひとりをその代表に据えてしまうものです。映画なら俳優や監督が、プロダクションなら看板を張る人間が思い浮かび、「その人の作品」として認識されやすい、ということです。このことも、著作権が作者ひとりに帰属するという考え方とうまく調和します。

乱暴にまとめれば、「その作品の真なる創造者は誰か」という問題は一旦捨て置かれ、制度的・認知的に処理しやすいように権利が設定されている、と言えるかもしれません。

その設定が正しいのかどうかはさておき、そうした設定が技術的課題に起因するものだと考えるなら、たとえば鈴木健さんが『なめらかな社会とその敵』で提唱されている伝播投資貨幣(PICSY)などによって新しい解決を見せるかもしれません。

しかし、逆に言えば、大きなパラダイムシフトが起きない限りは、著作権は現状のままでしょうし、出版をサポートするプラットフォームも「ひとりの天才」型のシステムを続けるのではないかと想像できます。

とは言え、です。

そうした世間的な流れは流れとして、辺境者たる私たちは、そんなものとは無縁に物事を進めていけます。気楽なものです。

実際、私が主催する「かーそる」というデジタル雑誌は、執筆者の貢献(主に作業量)に応じて印税を分配しています。中には印税受け取りをパスされている方もいますが、基本的にはごくフラットに割り振っています。なにせ皆が著者なのですから、当然でしょう。これも一つの、セルブズパブリッシングの形です。

「セルフパブリッシング」という言葉に引きずられて、本当に何もかもを一人で行う必要はありません。言い換えれば、誰の助けも借りずに行う、なんて考え方はまるっと捨てて大丈夫です。

むしろ、『二人で一人の天才』が示すように、他人の影響をうまく受けてクリエーションする方が、自分ひとりではたどり着けない場所にいける可能性があります。

そしてその場所こそが、現状くすぶりつつある「セルフパブリッシング」の次なる舞台になるのかもしれません。

と、まずは「天才の個人性」について解体してみました。次は、「マスメディアの絶対性」に取りかかりたいところですが、一旦ここで鷹野さんにバトンを渡しておきましょう。

鷹野さんの原稿に続く

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