第十二回 ブログの声の作り方

村上春樹さんの『職業としての小説家』を読んでいたら、米国の雑誌「ザ・ニューヨーカー」の話が出てきた。春樹さんの短編が何度か掲載された雑誌である。

教養に欠ける私は、この雑誌を読んだことはないのだが、どうやらすごい雑誌らしい。少なくともここに掲載されると「一目置かれる」ようだ。

なぜかというと、そこに掲載されるのがとても難しいからだ。編集部が納得しない作品は、話題の作家のものであろうと掲載しない。そういう強いこだわりの元で運営されているらしい。逆に言えば、そこに掲載されたということは、「一定のレベルを越えている」と編集部が判を押したことになる。

そうした機能は、ある種の権威でもあるし、キュレーションとも言える。それに信頼を置く人が、この「ザ・ニューヨーカー」を買うのだろうし、また「ザ・ニューヨーカー」印がついた作品を読んだりもするのだろう。

こだわりが一つの価値を形成している好例である。

さて、以下のような記事がブログ「ライフ×メモ」に上がっていた。

「ブログ術」は何かが違うのではないかと思った人のための「地味なブログ」という選択(ライフ×メモ)

著者である堀さんは、以下のように述べる。

しかし、たとえば「この話題・キーワードは検索流入が少なそうだな」と思って言葉を選ぶよりは、「まあいい、このほうが自分らしいからこれでいこう」という選択を優先する。たったそれだけでいいのです。

ここでは、面白い選択肢が提示されている。

一つは、「この話題・キーワードは検索流入が少なそうだな(だからやめておこう)」という選択である。もう一つは、「まあいい、このほうが自分らしいからこれでいこう」という選択だ。

一見簡単な選択のようだが、その実、非常に難しい要素が含まれている。つまり「自分らしい」とは何か、という問題だ。

その時点で、わずかでも「自分らしい」を捉まえられている人ならば、この選択は少々の勇気(あるいは諦め)があれば容易に選べるだろう。しかし、それが捉まえられていなければ、たいへん困難に違いない。

さらに、初期の段階で刷り込みが行われ、「検索流入が多い言葉を選ぶことが、自分らしい」なんて思ってしまうと、そもそも選択肢すら立ち上がってこない。そこではもう、個性という概念は消失している。

でもまてよ、と頭の良い方(あるはひねくれた方)なら気がつくだろう。「検索流入が多い言葉を選び続けること」が一つの個性の表れではないか、と。僕は、そこに強く反論することはできない。少なくとも、その選択が実際的な力を伴っているうちは、僕の言葉には何の力もない。

でも、僕はこういう風にも考える。「検索流入が多い言葉」を知っているのがその人だけであれば、それはたしかに個性のように機能するだろう。が、そうした言葉が知れ渡ればどうだろうか。

テクニックや分析の手法が、広く知れ渡るようになれば、それはそれまで通り個性として機能してくれるだろうか。僕はいささか怪しいように思う。幸い、Webの世界では一度強者になると、圧倒的に有利な立場に立てる。そういう状況であれば、たぶん個性みたいな扱いが難しいものはなくても良いのだろう。別の言い方をすれば、強者であることそのものが個性となって、その他の要素は付随物となる。だから、軽んじてもいいのだ。

いささか不穏な結論かもしれない。でも、現在のWebを取り巻く環境には、そういう側面があることはどうしたって否めないところがある。

別の方向から考えよう。

「メディア的に生きる」とは、何かと何かをつなぐような生き方のことだ。

さて、誰しもが使いそうな話題・キーワードを用いて記事を生み出すことに、そのつながりを生成するような力はあるだろうか。すでに1000つながっているものに、1001個目のつながりを与える力くらいはあるかもしれない。でも、それはまったくつながりがなかったものに1のつながりを与えるのとは意味が大きく違っている。

話題のテーマをバンバン流していくとしよう。当然、そこには流行りの話題を気にする人が集まる。そして、流行りの話題は、その定義から言って、あちらこちらに溢れている。つまり、そうした情報を知っている人たちに向けて、そうした情報を流していくことになる。違いがあるとすれば、ほとんど速度ぐらいなものであろう。

もちろん、それをやりたいのならば、それをやればいい。メディアとは自由である。

自由とは何か。

哲学的な問いではあるが、簡単に言えば「選択できること」ではないだろうか。少なくとも「言いなり」な状態は自由とは言えない。

効果的なテクニックがあり、それを追いかける。あるいは、追いかけざるを得ない。それは「選択」だろうか、それとも「自由」だろうか。

ブログの声は、「選択」の積み重ねによって立ち上がる。「ザ・ニューヨーカー」だって、何を掲載するのかを選んでいるのだ。そうした選択が、一種の権威(ブランド)としても機能する場合もあるが、それは重要なことではない。そういうのは全て後付けの話である。

大切なのは、あなたが何を「選択」するのか、ということだ。

あなたが真摯に何かと何かをつなげたいと思い、そこに工夫を重ねているならば、意識的な「差別化」はほとんど必要なくなる。むしろ、同調しようとしても、どうしても同調しえない部分が出てくるだろう。それが結果として差別化要因(=個性)として機能してくれる。

テクニックはいくらでもコピーできる。でも、コンセプトは無理だ。コンセプトをコピーすれば、「コンセプトをコピーしたコンセプト」になってしまい、完全に同じなものにはなりえない。

何をどのように、誰に知ってもらいたいのか。メディアというのは、本当に基本的なこの問題に常に立ち返ることになる。本来マネタイズというのは、この話の二階の部分であって、土台ではない。

もちろん、ブログに声なんてなくてもいい。ブログは自由だ。そういう主義を否定することはできない。

ただ、僕は思うのだ。声のあるブログが読みたいな、と。

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