第二回:手帳とはなんぞや
前回は、情報整理をひとまず以下のように定義した。
情報を適切に配置し、必要に応じて取り出せるようにしておくこと。
無論、曖昧な定義である。特に「適切に」という部分が怪しい。しかし、ひとまずはその行為が何を欲しているのかのスケッチは描けているだろう。
我々の課題は、ここから各々の部分を掘り下げていくことである。
手帳について
ここで「手帳」について考えよう。前回も参照したが、私たちの「情報整理」において、手帳は(あるいは手帳的なものは)欠くことができない存在である。
では、手帳とは何だろうか。手帳評論家である舘神龍彦の言葉を引けば以下のようになる。
手帳とは「社会に共有される暦と時間軸を前提に、個人の予定記入欄を持ち、主に予定管理に用いられる小型のノート」である。
『手帳と日本人』(舘神龍彦)
三つ要件があるが、ここでは一番最後に注目する。
「主に予定管理に用いられる小型のノート」
「主に」という言葉が効いていることに注意されたい。主要な目的は「予定管理」なのだが、それだけではない点に手帳の特徴がある。それは、前回確認した手帳の四要素からもうかがえる。
・スケジュール管理
・ToDo
・備忘録・住所録
・メモ
『手帳と日本人』において舘神は、「手帳は予定を管理するための冊子である」と述べた上で、「メモ欄・メモページがない手帳も考えられない」と付言している。この指摘は、私たちの実感にも即しているだろう。もし予定管理機能しか持たなければ、私たちはスケジューラーやプランナーとそれを呼ぶだろう。そうした存在は、機能的に手帳に重なる部分があるものの、「手帳」と称されるある種の道具(ツール)とピタリ重なるものではない。
私たちが(つまり、私たち日本人が)「手帳」というときには、非常に独特な、あるいは複合的なツールを名指しているのである。
「手帳買ってきて」
たとえば、こんな状況を考えてみよう。あなたが手帳を欲しているのだが、足を骨折していて出歩けないので知人に「何でもいいから手帳を買ってきて」と頼んだとする。その知人が買ってきたのが、真っ白なページが綴じられたノートだったらどうだろうか。「手帳」を買ってきてもらった、という感じがするだろうか。どちらかと言えば、日記帳というのが印象に近いのではないか。
あるいは、空欄のカレンダーページが付いたノートであったならば、どうか。この場合は「手帳」と言える感じがする。少なくとも日記帳よりは手帳の感じが近い。
では、カレンダーがあればいいのだろうか。たとえば、もし知人が壁掛けのカレンダーを買ってきたとしたらどうか。その場合は、やっぱり「手帳」という感じはしないのではないか。
このような感覚のグラデーションの中に「手帳」は位置している。
むしろ明確な手帳の定義があるというよりも、ウィトゲンシュタインが言う家族的類似性として「手帳」なるものを認識しているという方が実体に近いだろう。「手帳」の定義を知らなくても、「これは手帳で、これは手帳ではない」と感覚的に判断できるからだ。別の言い方をすれば、その道具(ツール)に手帳っぽさがあるかどうか、という点を私たちの感覚は捉えている。
その感覚においては、日記帳と壁掛けカレンダーは「手帳」ではないのである。
「手」のサイズ感
では、なぜ壁掛けカレンダーは「手帳」ではないのだろうか。
「だって、デカいじゃん」
という答えが返ってくるだろう。そのとおりだ。ここでは大きさ(サイズ)が重要な意味を持っている。
そもそもとして「手帳」の"手"は、手持ちの、というニュアンスであろう。「手鏡」などと同じだ。手に収まるものであるから、手帳であり、それは「小型のノート」である必要がある。
「ちょっと待ってよ。A4とかのデカい手帳も売られてるじゃん」
というご意見があるだろうが、あれは「卓上手帳」と呼ばれるものだ。わざわざ頭に「卓上」とつく、特別な(つまり本流から外れた)位置づけなのである。
でもって、手帳の本義に返れば、卓上に置かざるを得ないものでも手帳と言える。なぜか。
それは、そもそもなぜ手帳が「手」サイズでなければならないのかと関係している。ここで冒頭に挙げた定義が効いてくるのだ。つまり、
情報を適切に配置し、必要に応じて取り出せるようにしておくこと。
において、手帳は「手」サイズでなければならず、また卓上手帳もその意味において卓上であることが肯定されるのである。
(つづく)