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『人を賢くする道具』「第5章 人間の心」のまとめ

この章には何が書かれているか?

人間特有の知的能力についての解説がある。

まず、以前までの「心の研究」では、実験室で再現可能なものばかりが対象にされていた。精神物理学、反応時間、記憶、問題解決、etc……。それらは、ハードサイエンスではあるものの、ソフトサイエンスの観点がない。

重要なのは、人間はそもそも社会的な動物であり、その知性はインタラクションにおいて効果を発揮するように進化してきた、という点。実験室にたった一人だけで何かをすること、特に正確な操作や計算を迫られることは、進化においては想定されていない。そうした測定だけでは、人間の知性については十分に理解が進まないだろう、という懸念が著者からは提示される。

ハードサイエンス的な観点では、人間の知性をあたかも機械であるかのように測定しようとしてしまうが、実際その二つはかなり違いが大きいと著者は述べる。でもってその指摘は、現代においてより重要性を増しているとは言えるだろう。コンピュータと脳を単純なアナロジーで接続し、その上で機械から見て劣っていると言える脳の知性をバカにする。そういう価値観は現代でもごく当たり前に(あるいはコンピュータが溢れる現代だからこそよりいっそう)遍在している。

人間は、独自に動くのではなく、他者と協力的に動く生物である。だから、自分の意図を他者に伝えようとしたり、他者の意図を汲み取ろうとしたりする。おそらくそうした心の働きによって、「物語」という形式が一番うまく働くのだろう。

物語には、形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を、適格に捉えてくれるすばらしい能力がある。論理は一般化をしようとする。結論を、特定の文脈から切り離したり、主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は、文脈を捉え、感情を捉える、論理は一般化し、物語は特殊化する。論理を使えば、文脈に依存しない汎用的な結論を導き出すことができる。物語を使えば、個人的な視点で、その結論が関係者にどのようなインパクトを与えるか、理解できるのである。

物語は、私たちが世界を理解するためのフォーマットである。その物語によって、多くの人々と心理的な結びつきを得ることができるが、それだけではない。

おそらく「私」という人格(自己意識)もまた、そうした物語形式によって、生成・維持されているものなのだろう。「私」という認識は、物語の産物なのである。

そうした心の性質を踏まえた上で、それがよりよく働く方向へと道具や場をデザインすることも可能だろうし、著者は触れていないが悪しき物語によって人々をevilな方向に導くことすらも可能だろう。この辺の話は、ジョナサン・ゴットシャルの『ストーリーが世界を滅ぼす――物語があなたの脳を操作する』でも多く論じられているので興味があればそちらもご覧頂きたい。


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