第十回 あなたはYouTuberを笑うのか?(4)

さて、僕は何が言いたいのだろうか。

人生は何が起こるかわからない。

自分の人生ですらそうだ。他人の人生ならなおさらだろう。何に意味があって、何に意味がないなんて事前には知りようがない。だから知った風な顔で他人の行為を軽んじるのは、自らの愚かしさの表明である。

だったら、僕はYouTuberに熱いエールを送るのだろうか。背中を叩きながら、「こいつらが未来の日本を作っていくんだ」と全体的に肯定するのだろうか。

どうにも、そういう風にはなりそうもない。否定しないことと、全体的に肯定することには、躓きそうなくらい大きな乖離がある。

だからといって、黙っているのも違う気がする。ただし、これは微妙なところだ。本当は黙っていた方が良いのかもしれない。黙っていても僕が損することはないし、むしろ何かを口に出せば、煙たがられることの方が多いだろう。仮に僕のアドバイスが彼らの利になっても、僕にリターンは返ってこない。総じてみれば、黙っていた方が利得の期待値は大きい。

でも、やはり黙っているのは違う気がするのだ。それは義侠心とか正義感とはちょっと違う。単に、この情報社会で黙っていることは、それ自体が一つの表明になってしまう__という点に関係している。

ともかく、これは単なる自己満足である。自己満足的老婆心の発露。それが、これから僕が言おうとしていることだ。

さて、その内容だが、非常に簡潔である。何かをやるならば、「真剣」に取り組んだ方がいい。以上。

もう少し柔らかくするなら、「自分の血肉になることは、真剣に取り組んだことだけ」という言い方もできる。前者はアドバイス、後者は教訓だ。どちらでも好きな方を採用してくれればいい。もちろんどちらを採用しなくても構わない。

ただし一点だけ注意して欲しい。それは「真剣」と「真面目」は違う、ということだ。この二つは、なんとなくごちゃ混ぜにされがちだが、基本的には別種のスタンスである。ときには相容れないくらいに異なっている。

「真面目」にやる、というのは、誰かが「こうしなさい。こうすればいいですよ」という前例的ルールに盲目的に従うことだ。そこには、遊びや工夫が入り込む余地はない。

でも、「真剣」は違う。真剣さに前例的ルールは関与しない。むしろ逸脱の対象だったりする。ルールが形骸化しているならば、なおさらだろう。その代わり、真剣には(一見相容れない)遊びが入り込む余地はあるし、工夫は必須とである。真剣さと工夫は表裏一体の関係だ。

創意工夫という言葉があるように、工夫はイマジネーションと切っても切れない。目指すべき目的のために、現状の変えられるものを意欲的に変えていく。「真剣」に物事にあたるならば、必ずそうした創意が出てくるはずである。「真面目」な態度はむしろそれを封殺する。この違いは大きい。

工夫のない行為は、少なくとも人生経験値的にみてあまり「美味しく」ない。せいぜいスライムぐらいである。対して、目一杯の工夫がある行為は、メタルスライムくらいになる。見た目は似ているが全然違う。

そこに他者とのインタラクションが混じってくれば一気にはぐれメタルにまでいってしまう。それくらい豊かなものへと昇華する。

真剣には、工夫もあるし、反省もある。内省もあるし、自重もある。もちろん冒険もある。そこには過剰とも言えるエネルギーの投下があり、大きな時間も必要する。

この点において、真剣と真面目の違いは、経験と体験の違いに近いのかもしれない。そのあたりはまた別の機会に改めて考えてみたい。

前回僕があげたいくつかの妄想に基づく「修行」(とあえて言う)は、今の仕事には役に立っていないものの、自分の中ではたしかな経験値になっている。

プログラミングは単に自分で使う程度のスクリプトが書けるスキルにつながったというだけでなく、「プログラマー的」な考え方を身につけることにもつながった。投資やパチスロは確率論との実践的な付き合い方を、麻雀は理論と心理の関係性を僕に開示してくれた。

今こうやって、そうした「修行」の名前を挙げられるのも、それを僕が覚えているからだ。たぶん多趣味な僕はほかにもいろいろ手を出している。でも、そうしたものの中で「真剣」に取り組んでいないものは、思い出すこともできない。たぶん、血肉にもなっていないし、脳神経学的に言えばニューロンにも刻まれていない。

工夫は必死に脳を動かす。考えに考えに考え抜く。真剣に事にあたるとは、つまり自分の頭で考えるということだ。

もし、人生の時間を同じだけ使うなら、真剣にやった方が良い。その方が経験値が高いし、たぶんずっと面白くなる。もちろん、ぺらっとした面白さではなく、しんどさを織り込んだ複雑な模様の面白さのことだ。

ジョブズの「点と点をコネクトする」を実現するためにも、やはり点をばしっと打った方がいい。目立たないような点は、別の点と線がつなぎにくい。

不確定性原理を持ち出すまでもなく、人生は何が起こるかはわからない。「こうすれば、こうなります」と予言者めいたことは、よっぽどイノセントな人か、よっぽど強欲な人でない限り口にできない。

でも、「何事も真剣に当たれば、人が持つ経験は増えるし、それが後々役に立つこともあるかもしれない」くらいなら言えそうだ。

だって、少なくとも「経験が増える」に関しては生体的な変化であって、ある程度までは脳内を観察することで測定できるはずだから。時間当たりで頭を使った回数が多いほど、脳内が活性化してネットワークが豊かになる。なんのことはない。当たり前の話だ。

そのネットワークがどのように役立つのかは事前にはわからない。でも、だからこそ、つまり人生は何が起きるかわからないからこそ、真剣に過ごす時間は多い方がいい。その方が、多方向的に対応できるはずだから。それはつまり、何かと何かをつなぐというメディア的な生き方の役にも立つはずだ。

今回は、行為と経験とその価値について考えてみた。もう一つ「成功の定義」についても考えたかったのだが、それはまた別のテーマに絡めるとしよう。

(了)

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