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第九回:アイデアの「整理」はいかに行うか その3

前回は、「やりたいこと」(ネタ以外のアイデアで、コミットしている対象がない思いつき)の扱いについて検討した。

ポイントは、「書いたものが目に入るようにしておくこと」にある。日常的にコミットしていないので、利用される可能性が著しく低いのがこうした「やりたいこと」に関するアイデアなのだ。それと同時に「十全に活用しよう」などとは努々思わない方がよい。人生には他にも大切なことがたくさんある。

さて、ここまでで明確にコミット先がある「ネタ」と、そうでない「やりたいこと」の扱いについて検討したわけだが、最後に控えるのは、この二つではない(あるいはこの二つである)アイデアである。そうした狭間にあるアイデアは、極めて厄介であり、混乱を引き起こす原因になりかねない。

慎重に検討を進めよう。

モットー

その狭間にあるものを、仮に名づけるとしたら「モットー」になるだろうか。モットーとは、ようするに標語のことであり、辞書を引けば以下のような意味が出てくる。

モットー(motto)とは、個人や組織の信念・美徳・行動指針などを簡潔な言葉で表明したもののこと。各々が常に心の内に掲げ、それに則って行動する、標語、信条、訓辞、座右の銘。あるいは金言、格言。

◇モットーとは何? Weblio辞書

意味だけみると、いかにも堅苦しいものが想像されるが、別にキリっとしたものだけがモットーではない。「もうちょっと早起きしたい」とか「英語の勉強をしよう」みたいな緩いものも含まれる。

世の中には、上記のような「思いつき」をまったく思いつかない人もいるだろうが、しかしそうした人は少数派ではないだろうか。むしろ、巷のビジネス書を見る限りでは、たくさんの人が上記のようなモットーを思いつき、その扱いに苦労している印象を受ける。

それもそのはずだ。この「モットー」は中間的な存在なのである。性質が狭間なのだ。どういうことだろうか。

狭間の情報

たとえば、「もうちょっと早起きしたい」について考えてみよう。

まずこれは「具体的な行動」ではない。「日付の決まった行動」でも「参照したい資料」でもない。"タスク管理"の文脈にはそのまま置けない情報である。

その意味で、これは"アイデア"の文脈に置ける情報だ(アイデアは否定的に定義されるのであった)。では、「ネタ」かというと、微妙である。別段その情報を利用して何かが行われるわけではない。だったら「やりたいこと」なのかと言えば、半分はそうなのだが、しかしコミット先が皆無というわけでもない。「毎朝起きる」という行為は、確実に自分がコミットしている対象である。

これが狭間ということの意味だ。

「モットー」は、実行される行動でもなければ、参照して利用される資料でもない。かといって、更新に使われるネタでもなければ、たまに思い返してそのとき必要とあれば利用される「やりたいこと」でもない。それらすべてと完全には重ならない性質を持っている。

一方で逆から見れば、「モットー」はこのすべての性質をいくばくかは持っている。どことなく、「それっぽさ」があるのだ。

よって大ざっぱに捉えてしまうと、このモットーが何か別のものとして捉えられてしまう。タスクではないのにタスクだと扱われたり、アイデアではないのにアイデアと扱われたり、といったことが起こるのだ。こういう状況を「理解の解像度が粗い」などとも表現されるが、当然よく見えていなければ、それを扱う手つきも間違ってしまう。

でもって、すべての属性を持つこうした「モットー」は非常にその混濁が起こりやすいのである。

ブレイクダウンという変換

では、どうしたらいいのか。その答えは簡単ではない。私も、このモットーの扱いに悪戦苦闘してきた。他の情報(タスクやアイデア)と同じ手つきで管理しても、どうしても違和感が拭えないのである。あるいは、うまく効果を発揮しない。

「もうちょっと早起きしたい」はタスクではないので、タスクリストに並べていると極めて強い違和感が生じる。かといって、それをアイデアノートに書いてしまうとほぼ思い出さず、それが実行に移されることはなくなる。どうにもうまくいかないのだ。

タスク管理の猛者であれば、「そういうのは具体的な行動にブレイクダウンするんですよ」とアドバイスをくれるだろう。たしかに、それを「実行」しようと思うならば、そうするしかない。しかし、そうして分解された"それ"は一体何なのだろうか。「もうちょっと早起きしたい」プロジェクトになるのだろうか。あるいは、そうしたプロジェクトを経由せず、ルーチンとして繰り返される行為になるのだろうか。

どちらにせよ、私が持っていた「もうちょっと早起きしたい」という気持ちはすっかり変換されてしまっている。「行動」を確実に生み出すためには必要なことだとしても、何か「判で押したような」(あるいは鋳型でくりぬいたような)奇妙な感覚を受ける。その違和感は、中長期的にこの"管理"全体を続けていく上で、大きな抵抗値となるだろう。

難しいのはここなのだ。

上記のような変換にまったく違和感を感じない人もいて、その人たちはさまざまなモットーを(あるいは思いを)行動に変換して、成果を生み出していく。おそらく、そうした人たちの"生産性"は飛び抜けて高いのだろうし、そうした人たちの手法が──成功法の文脈で──語られることも多い。私もその語り口に引きずられてしまったクチだ。

とにかく具体的な行動にすること。それが行動を生み出し、成果につながる。

何一つ間違っていない。しかし、違和感はどうしても残るのだ。違和感だけでなく、結局そういう試み自体がどこかで頓挫する事実も残ってしまう。なぜなのか。

急に言われても

答えは簡単で、私は「もうちょっと早起きしたい」と思っていただけだからだ。

たしかにそれを「行動」に移すためには具体化・細分化が必要だろう。しかし、私はまでそこまでの決意(コミット)を持っていたわけではない。単にちょっとそう思っただけだ。私が記録し、保存しておきたかったのは、その「ちょっと思った」という感触なのであって、それを一足飛びに「タスクにしましょう」と言われても、町中でナンパされて喫茶店で婚姻届にハンコを押すことを迫られるくらいに"急な"感じがしてしまう。

うまくいくはずがない。

私に必要だったのは、具体的なタスクにするわけではないが、定期的に思い出したいもの、それも「やりたいこと」のように保存され、必要に応じて見返されるものではなく、もっと「こちらに迫ってくるように」思い出せるものだ。「よし、自分のモットーを書き留めたノートを見返そう!」なんて動機の発露はまず期待できない。"おりに触れて"のその「おり」が意識的にデザインされたものでないと機能しないのだ。

さいごに

ここまでわかれば、あとは簡単だ。その要件に沿ってシステムをデザインすればいい。

長くなってきたので、続きは次回としよう。

(つづく)


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