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無知の力・情報の選別・ゆっくり学ぶこと「逆説の情報摂取学」

(*本記事は、2017年02月22日にシミルボンに投稿された連載「僕らの生存戦略ブックガイド」からの転載です)

今回のコラム「僕らの生存戦略ブックガイド」では、逆説的な情報摂取術についてお送りします。

情報が溢れかえるような現代社会では、ぜひとも考えておきたいポイントです。

知識=力?

「知識は力なり」

イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが残した思想です。

知識とは、「こうすれば、こうなる」という一連の記述です。それを知っていれば、「こうなる」という結果を意識的に生み出せるようになります。つまり、成果をよりたくさん得たければ、知識を多く有することが必要である──わかりやすい論法です。

仮にこれを正しいことだとして受け入れれば、どのような考え方・価値観が生じてくるでしょうか。

単純に考えれば、「知っていることは良いこと」が生まれ、そこから「知らないことは悪いこと」が導かれます。また、よりたくさんの知識を得ることも善となるでしょうし、必然的にそれはよりスピーディーに知識を得ることも善となるでしょう。

はたしてそれは、正しいのでしょうか。

「知らない」が持つ力

スティーブン・デスーザとダイアナ・レナーによる『「無知」の技法』は、「知らない」という状態を受け入れるための指南書です。

本書ではさまざまな角度から「無知」の力について検討されていますが、通底するのは、私たちは基本的に知りたがりであり、また確信したがりでもある、ということです。

心理的な記述では、確信していた方が落ち着く(安心できる)のでしょうし、脳神経的に言えば、その方がエネルギー消費量が小さいのでしょう。どのような記述をとるにせよ、私たちはまるでそこに重力でもあるかのように、「知っている」という状態に引き込まれます。そして、そこからの離脱を好みません。

「知っていること」に焦点を置くあまり、知っていることを疑ったり、知らないと認めたりすることができなくなるのだ。

一度何かを「知ってしまう」と、あたかもそれが真理であるかのように扱い、疑ってかかる心を持たなくなってしまう。その状態をご破算にして、「知らない」という状態に戻せなくなる。結果、専門家が言ったことならなんでも鵜呑みにしたり、自分が第一直感で思いついたものをそのまま信用してしまう。そのようなことが起こりえます。有知の誤謬がそこにはあるのです。

その傾向──確証バイアスならぬ確信バイアス──がもたらす問題は、ときに世界経済にまで影響を与えます。ナシーム・ニコラス・タレブが『ブラック・スワン』で鳴らしているのがその警鐘です。

本来わかりえないものを矮小化して「わかった」気になり、必要な検討がまったく行われずに未曾有の事態が引き起こされてしまう。そこまで大規模なものでなくても、私たちの身の回りにはそのような「わかったつもり」問題がしょっちゅう生じています。

「知らない」や「わからない」を引き受け、さまざまな視点から物事を再検討してみたり、「わかりようもないものもある」と虚心に向き合うことは、複雑な現代社会でこそ必要な態度なはずです。
大量の情報は有用か

知識が力ならば、手に入れる情報は多ければ多いほどよい、とは言えないことについて書いてあるのがノリーナ・ハーツの『情報を捨てるセンス 選ぶ技術』です。

仮に情報がたくさんあるとしても、本当にそれが必要な情報なのかはわかりません。さらに言えば、それが正しい情報なのかもわかりません。塵も積もれば山となるとは言いますが、ゴミ情報をどれだけ集めてもゴミの山ができあがるだけでしょう。情報が大量にある現代からこそ、情報は選ばなければなりません。

本書では、ウェブ情報の見極め方なども紹介されているので、フェイクニュースが話題となる昨今では有用なノウハウ書と言えるでしょう。

さらにその話を専門的に広げると、ネイト・シルバーの『シグナル&ノイズ』に辿り着きます。

本書は予測について書かれた本ですが、予測とは「こうなっていれば、次はこうなる」であり、「こうすれば、こうなる」の亜種だと言えます。これもまた大切な知識です。

しかしその予測も、単に大量のデータがあればそれで正確さが増すわけではないことが、本書を読めばわかります。それは集めたデータをどのような視点で解析するのかの問題もありますし、「ブラックスワン」のようなそもそも予測できない問題もありますし、さらに言えば、大量に集まったゴミデータ(ノイズ)によって、真実とはまるで関係ないストーリーが描けてしまう問題もあります。

考えてみましょう。星の数ほど星があれば、夜空にいくらでも好きな絵柄を描くことができます。ノイズたっぷりのデータも同様です。

仮に「知識は力」が真だったとしても、その知識を生み出すための情報は多ければ多いほど良いとイノセントに言うことは難しそうです。
知識は拙速を尊ぶか

もし、知識の量が多ければ多いほど良いのならば、すばやく知識を蓄えられることは素晴らしいことでしょう。

しかし、今井むつみさんの『学びとは何か』を読んでいると、そのような考え方はどうにもうさんくさいことが浮かび上がってきます。

知識の吸収、つまり「学び」が、頭の中にある空っぽの棚に書類をどんどん投げ込んでいくようなものであれば、速読ならぬ速学(あるいは即学)はもっとも効果的・効率的な手法だと言えるでしょう。しかし、本書ではそのような知識モデル──ドネルケバブ・モデルという非常に食欲をそそるネーミングが当てられています──は退けれられ、代わりに自らで知識(情報)のネットワークを作り上げる「生きた知識のシステム」構築が提唱されています。

詳細は本書に譲るとして、このような「学び」にはたいへんな時間がかかります。あるいはゆっくりと進むと表現してもよいでしょう。

たとえば、私たちはさまざまな人が書いた細部の異なる「あ」という文字を、同じ「あ」だと認識できます。しかし素早い学びで、最初に見た「あ」だけを「あ」という文字だと認識し、それで「知ったつもり」になっていたらどうなるでしょう。多少形の崩れた「あ」は「あ」だとは認識されなくなります。

さまざまな「あ」の形を目にし、そこに共通するパターンを「自らで発見すること」。これが生きた知識を得るための学びです。素早い知識の吸収を目指してしまえば、応用力のない「あ」の断片的な知識だけが集まるばかりでしょう。
さいごに

GRANRODEOが歌う「進化と堕落の二元論」は次のように始まります。

知らない事が罪だという 
ならば知るという事は罰だ

たしかに「知らないこと」が悪い状態ならば、知ることはそれに与えられた罰、せいぜいそれを回避するための手段にしかならないでしょう。それはあまりにも悲しいことです。

知識が大切なことは間違いありませんが、間違った知識・応用力のない知識を獲得するのに躍起になっても仕方がありません。大切なのは自分で使えるたしかな知識を増やしていくことであり、自らの中にその欲求が根付いていることです。その欲求は、いつでも自分を「知らない」状態における勇気だとも言えるでしょう。

知識を重要視し、無知を軽んじるあまり、「知っている」状態に安住してしまっていては、知識ネットワークは拡張していきません。私たちは、「知らない」というパスポートを持って、無知の領域へと旅立たねばならないのです。

最後に、文化人類学者の梅棹忠夫さんの言葉を置いておきます。

なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これはいちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている。

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