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直接的であり、極めて間接的な情報摂取が生む怪物


テクノロジーの進歩によって、ある国Aの人が他の国BやCの情報を大量に得ることができるようになった。その国のことを本当には理解していないのに、理解した気になってしまうほど、人々は日々他国からの情報を受けとるようになってしまった。
その結果、ある国Aにくらす人々のつくる世論がその国家の外交を左右し、別の国Bの社会システムに口出ししたり、逆に頑なに無視したりするようになった。

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システムは、内部で閉じていたりしない。外部との、つまり他者との相互作用によって、その形を変えていくものである。まずは、ここから話を始めよう。

ポテトサラダの話

スーパーでポテトサラダを見ていたら、「それくらい自分で作れ」と見知らぬ他人に言われた、というつぶやきを見かけた。真実かどうかはわからない。でも、いかにもありそうな話ではある。

ここには二つのポイントがある。

第一に、そうして声をかけた他者は、当然そのポテトサラダを見ていた人の内情はまったく知らない。どれだけ忙しいのか、どれだけ体力があるのか、どれだけ料理が下手なのか、といった「ポテトサラダを買いたくなる」状況があるかどうかを想像していない。当人がイメージする「主婦像」に基づいて話が進められている。

それは、その人が知る主婦のサンプルがものすごく限定的なのかもしれないし、知り合いが少ないのかもしれないし、「かくあるべし」というニュースを鵜呑みにしているのかもしれないが、ともかく内情を知らないで発言しているし、また、内情を知らないから、そんなに簡単に発言できている。

第二に、そうやって見ず知らずの他人に言われたことであっても、聞き流せる人は少ない。精神的にダメージを受けてしまう人もいるし、たとえ「はっ? お前何言っているの?」とキレたとしても、やっぱりそこでは反応が生じてしまっている。人間という系は、それ自身で閉じ切っていないのである。

わかりやすくなければ聞かない

ここでいう「わりやすさ」が具体的に何を示しているのかはわからない。ただし、「わかりやすい表現でわたしを納得させてみろ」という精神性が本当にあるとしたら、それが示す姿勢ははっきりしている。すなわち、自分から歩み寄る気持ちはいっさい持ち合わせていない、ということだ。

先ほどの見知らぬ他人の例で言えば、「料理が下手で自分が作ったポテトサラダがまずくて食べられたもんじゃないっていうなら、〈私は料理が下手です〉というプレートでもつけて出歩け」とキレるようなものである。

もちろん、そもそも他人の生活についてやいやい言うべきではないという前提はあるものの、それにいったん目をつむったとしてもひどい態度である。そこには「なぜ」という気持ちがない。怒りに満ちた修辞的な「なぜ作らないんだ」という疑問はあるかもしれないが、自分が理解していない領域に踏み出そうとする「なぜだろう」という疑問はみじんもない。

自分は動かず、自分に流れ込んでくる情報を当てにしている。そして、その情報のみから世界を構築し、その世界を正しいと信じて疑わず、実際にA国に訪れてみようなどという気持ちは一切持ち合わせていない。

「わかりやすい」ことが問題なのではない。また、「わかりやすさ」を求めることがいけいないわけでもない。単に、世界を「私がわかりうるもの」として単純に捉えていることが問題なのだ。

そのような状況で、情報の濁流に巻き込まれたら、実に悲惨なことになる。

短いコツの弊害

インターネット、特にTwitterでは、ちょっとしたコツがたくさん流れてくる。おそらく、そうしたものの方がウケがいいのだろう。

しかし、それらの情報は極めて限定的なものである。複雑な条件分岐は抹消され、モデル化につぐモデル化が行われて短文で表現されている。実に「単純」で「わかりやすい」。

そのコツが、情報の濁流に乗ってやってきたらどうなるだろうか。実際におこなったことがない人(≒A国に訪れたことがない人)は、その行為をどのように捉えるだろうか。

コツが大量に流れることは、本当に良いことなのだろうか。

さいごに

「群盲象を撫でる」という言葉がある。部分しか知らない人が全体を推測したら間違いを犯しやすい、という意味だろう。あるいは、私たちはイデアには永遠にたどり着けないという警句なのかもしれない。

情報の濁流が存在する環境では、そもそも撫でてすらいない象について言及できてしまう機会が増える。他人がもらした象の印象を三つ統合して生まれるイメージとはどんなものだろうか。おそらくは、グロテスクな怪物だろう。

私たちは、インターネットによってダイレクトに情報を得られるようになった。何重もの工程を踏むことなく、たったワンクリックで情報を手に出来るようになった。一方で、その情報は、対象そのものからは極めてインダイレクトになっている。目の前にいる人に直接尋ねれば済むことを、実際にやってみればわかるさまざまなことを、インターネットを(もっと言えばGoogleを)経由して入手するようになっている。

今必要なのは、もっとたくさんの情報だろうか。それとも、ピンポイントの検索結果だろうか。私は違うように思う。

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