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ラジオについて思うこと

ここ数年、よくラジオを聴く。
リアルタイムは難しいが、録音やアプリなどの手段を使い聴いている。

いっとき、偏見もあったかもしれない。
テレビは自分の意思で電源を入れ、能動的に観るイメージ。
ラジオは自分の意思とは関係無く流れていて、受動的に聴く/聞き流す/聞こえている、というような。

でもここ最近は能動的、積極的に聴いている。

テレビは「テレビの前のみなさん!」という感じ。
ラジオは「ラジオの前のあなた。」という感じ。
『 みなさん』と『 あなた』では受け取る印象が随分違う。

この時の『僕』は、前者なら多数の中の1人にすぎない。
後者の場合は紛れもなく自分1人。
パーソナリティが『大多数の中の1人である僕』ではなく『一分の一である僕』に語りかけている気持ちになる。
(このようなことを立川志の輔師匠も何かの噺の枕でおっしゃっていた…気がする)


パーソナリティがどのような気持ちで語りかけているかは人それぞれだが、また、他の方がどのように聴いているかは定かではないが、少なくとも僕はそんな風に感じている。

最近ラジオ聴いてるなー、と思っていたが、よくよく思い出してみると小中学生の頃も結構聴いていた。
案外僕の人生はそれなりの割合でラジオから影響を受けているのかもしれない。

「赤坂泰彦のミリオンナイツ」では大人の世界を垣間見た。
大して音質も良くない、安いイヤホンで聴くFMは、甘美で、大人っぽく、自分が大きく成長した気分に浸れた。

数あるコーナーの中でも、「うさんくさいポップス」というコーナーがあり、毎週楽しみにしていた。

最終回、ラジオDJが涙混じりに最後の挨拶をしているのを聞いて、大人の芸能人も泣くことがあるんだなー、と思いながら聴いていた。

今思えば事の重大さもよく理解していなかったが、貰い泣きしながら聴いていた。
インターネットが無いに等しい時代、顔も素性も良く知らない大人の一人語りに聴き入っていた。

「藤井フミヤのFMスナイパー」では、“100点のテストを局に送ったら賞状を進呈”的な企画をやっていた。
一方通行で一方的に音を受け取っていた僕は、意を決して技術・家庭のテストで取った100点の答案用紙をラジオ局に送った。
半信半疑で数日を過ごした後、藤井フミヤ氏の署名が入った認定証が自宅に送られてきた。
生まれて初めてラジオと双方向のコミユニケーションを取った出来事だった。
なにかとんでもないことを成し遂げたような、小っ恥ずかしいような、不思議な気持ちになったことを覚えている。
ちなみに今もその認定証は、実家にある中学校の卒業アルバムに挟み込んである。

その頃から約20年が経過し、今またラジオまみれの生活を送っている。
いま聴いている番組は次の通り。

月曜日:
壇蜜の耳蜜
伊集院光 深夜の馬鹿力

火曜日:
アルコ&ピース DCガレージ
爆笑問題カーボーイ
星野源のオールナイトニッポン
#むかいの喋り方

水曜日:
山里亮太の不毛な議論

木曜日:
ハライチのターン
おぎやはぎのメガネびいき

金曜日:
バナナマンのバナナムーンGOLD

土曜日:
オードリーのオールナイトニッポン

日曜日:
有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER

※2022/7 リスト修正。

まさかの12番組。
羅列して初めて気付いたが、なかなか多い…。

個々の番組に対する思いはたくさんあるが、それはまた別の機会に。

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