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石垣島の小さな園のお話

今日は、"集うと憩う"のある敷地内にある、うちの次男坊も通うシュタイナー園"にじのわこども園"について。

こども園と言っても、認可の降りた保育園ではなく、いわゆる"自主保育"と呼ばれるお母さん達が主宰になる園である。

どうゆう事かと言うと、保育に携わる運営などを、園に通う園児の保護者達が担っている。

なので、実際に保育者が足りない時は私も保育に入る事もあって、サニータイムの業務や集うと憩うの運営以外にも"子供達と遊ぶ大人"になっている日もある。

よく「忙しそうだね」って言われるけど、たまーにびっくりするぐらい時間がないのは、注文が鳴り止まなくて大変だぜ、って事じゃなくて、こんな理由があったりして。

そもそもこの園に入ったのは、「3歳ぐらいまでは子供を見ながら仕事をしよう」みたいな完全なる私の判断ミスにより(2人目なのにね)、結果、一歳半ぐらいで仕事も子育ても手詰まりになった時にSNSでヘルプを出したのがきっかけで、昔から付き合いのあった、園長的な存在ののんちゃんが声を掛けてくれたとゆう経緯。

元々は仕事の時間の為にお願いし始めたのだけど、自主保育園なので、関わり合いが長くなって来ると頼りっぱなしというわけにもいかず、もちろん親としてやる事も増える。

集うと憩うで働いてくれているスタッフは、園児のママだったりするので、結果的に一番自由に時間を使えるのが私になってしまったと言うのも、ある。

仕事の為に子供を預けてるはずなのに、保育に時間を取られて本末転倒。と、いう気持ちも正直ゼロではないけど、保育をサービスと捉えてしまってはいけないな、とゆうのをちゃんと心に持っていられるのもこの園のおかげで。

いわゆる"保育園"ではないので、お迎えも3時だし、金曜日はお休みだったり、月曜日は更に時間が短かったりお弁当だったり。制限や、やる事は色々ある。

けど、年間を通しての祝祭の大切さを感じたのもこの園に通い出してからだし、去年オープンした"集うと憩う"もこの園に通っていなければ絶対に作っていなかったし、結果、私にとっても色々と特別な園になった。

園舎の朝はお散歩から始まる。
年度末になると、バンナ横断と言って、山一つが県立公園になっている公園を横断する事も。毎年、子供たちの体力や成長にびっくりと感動を覚える年間行事。
写真は園の前の道。
雨も楽しい。
月曜日、バンナ公園にお迎えに行ったら
発掘石屋さん。
シチュー作ってくれた。
あるものを全て使って全力で何でも作る。
彼らにとっては"遊び"でも"仕事"でもない。
お片付け。使ったものは一旦全部かごの中へ。
それから仕分けしていくんだけど、
どのかごにどのおもちゃが入ってたのかを
みんな知ってるのに毎回驚く。
遊びに紐は必須。これも、全部みんなで丸める。
きれい。
毎週水曜日に作るうどん。

人数の少ない園で本当に数名しかいないのと、時期によって今までに色んな子どもがいたので私の知らない時代ももちろんあるけど、私が保育に入っていて思うのは、子ども達から大人に褒められたいとかゆう雰囲気のアピールや承認欲求的な気配を感じない。

昔、少人数の幼稚園の先生の補佐のようなお仕事をした事があるし、年齢は違えど学童保育で働いた経験もある。

優劣の話ではなくて、子ども達の纏う空気感の質のようなものが全く違うな、と感じる。

あと、園の中では、大人が意図的に子供に何かをやらせようとゆうようなわざとらしさが感じられない。

みんな各々思いのまま過ごしていて、私も"大人だから"とか"保育に入っているから"とゆう理由で「何かしなきゃ」と気負わずにそこにいる事が出来る。

大人数の中にいると割と何をしたら良いのか分からなくなりがちな私が、何となく安心してそこにいられる理由もそこにあると思う。

何もしなくてただ存在しているだけで、それ以上でも以下でもない。

何のジャッジメントもなく、ただ各々が思い思いに過ごしている、それこそが今必要と言われている〈自肯定感〉の根っこじゃないかな、とも思う。

大袈裟に褒めるところを見つけようとしなくても良いし、自分のアピールをしなくても良い心理的安心感。

そして、"そこにあなたがいるのは当たり前だし素晴らしい"
これを態度とユーモアで伝える事が出来るのんちゃんは本当にすごい。
シュタイナー教育の事を勉強出来たわけではないけど、「自由になる為の教育」ってすごい深くて。いつも考えさせられている。

記憶に残るのかは分からないけど、この時期にこの園で過ごした子ども達はどんな大人になるのかな。


散歩中、突然寝転がる。
「あー気持ちいい」
これ、実はすっごい高い屏の上。

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