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アルフォンソ・リンギス—「旅行記」としての哲学


はじめに:なぜ旅行記として哲学をするのか?

本発表では、アメリカの哲学者アルフォンソ・リンギス(1933-)の “The Alphonso Lingis Reader”(2018)(以下、『アルフォンソ・リンギス読本』)[1]に所収の論文 “The Unlived life is not worth examining”(1999)(以下、「生きられていない生は吟味するに値しない」)[2]の精読を通して、彼が訴えている「哲学における旅の重要性」とは何であるかという問いに答えることを目指す。

1960〜70年代、メルロ=ポンティやレヴィナスなどの現象学のアメリカへの輸入からキャリアをスタートさせたリンギスは、当初は現象学における著名な著作への標準的で批判的な解釈を提示していた。

しかし、80年代以降——『アルフォンソ・リンギス読本』編者のトム・スパロウが「後期」と呼ぶ時代——、初の単著『逸脱:エロスと文化』(Excesses: Eros and culture)[3]出版後は、彼は特定の場所での旅行記に哲学的省察を織り交ぜた独自の文体(style)で思想を展開している。

リンギスは「哲学は根底的に、現実について「暴露する言説」であるべきであり、哲学的なテキストや問題についての注釈であるべきではない。哲学は現実についてより一層良い描写を目指すべきであり、現象学はそれをするための機能がよく備わっている」[4]と考えている。これは多くの現象学研究者と共有可能な考え方だろう。だがリンギスの特異な点は、「現実について『暴露する言説』」を、徹底して旅行記の中で、モノグラフではなく雑多で首尾一貫性のないエッセイの中で綴っているというところにある。

なぜ80年代以降の彼の哲学は、旅行記として書かれなければならなかったのか。現実についての暴露が、なぜ旅行記になるのか。この問いについて考えるために、本発表では『アルフォンソ・リンギス読本』の第3章「旅」の冒頭に置かれた論文「生きられていない生は吟味するに値しない」を精読する。

第1節:「生きられていない生は吟味するに値しない」における5つの批判

表題について

本論文は、『アルフォンソ・リンギス読本』の第3章「旅」の冒頭に置かれている。第3章のこれ以降の論文が具体的な旅行記であるのに対して、この論文は「哲学における旅の重要性に対する省察」[5]として編者トム・スパロウに位置付けられている。短い論文だが、リンギスに固有な文体に対する彼自身の考察として、注意深く読んでいきたい。

本文に入る前に、表題を確認しておこう。「生きられていない生は吟味するに値しない」とある。これはほぼ間違いなく、『ソクラテスの弁明』でのソクラテスの言葉「吟味のない生は生きるに値しない」(38a5-6)を受けている。この「吟味」と「生きる」の関係性を反転させているところに、私たちは特別の注意を払わねばならない。後段で見ていくように、リンギスはソクラテスを起点とする西洋哲学に対して、いくつかの視点からその奇妙さを論じている。

実際、本論文では随所に “How strange that ……”から始まるセンテンスが段落冒頭に置かれており、その箇所で旧来の伝統的な西洋哲学に対する批判が展開されている。そこで以下では、このセンテンスが現れる度ごとに内容を区切りながら本論文を読解していくことにする。

第一批判:精神を否定性(negativity)と考えることに対する批判

1つ目の “How strange that ……” は本論文の中で最も短く、2段落で構成されている。1段落目に、その批判の内容が整理されている。

「人間が、生の有機体が、そのうちで欲求や欲望が外部へと自らを開き、その食欲を満たして満足のうちに引き籠らせるような事物を掴み取るように自らを刺激してくるような物質的体系として考えられているのは、なんと奇妙なことか。生が否定的な仕方で考えられ、その精神が否定性として考えられているのは、なんと奇妙なことか」(Lingis 2018: 183)。

ここでいう「否定性」(nagativity)は、自らの中にある欠乏感として解釈できる。人間の生が、その内部にある欠乏を埋めるために外部から事物を取り込んで満足するものであると考えることに、リンギスは強い違和感を覚えている。

というのも、「グッピー、鶏、猿、人は、弁済について考えることもなく、その必要もなく放出される過剰なエネルギーを常時生み出している有機体」(Ibid.)だからである。これらの「過剰なエネルギー」(excess energy)とは「情動」(emotions)であり、それは私たちの生を方向付けている。

第二批判:情動を、知覚され、同定され、評価された事物への反応と考えることへの批判

2点目の批判は、この「情動」に関わる論点に向けられている。「情動が、知覚され、同定され、評価された事物への反応と考えられていることの、なんと奇妙なことか」(Ibid.)。

情動は事物に対する単なる反応なのではなく、むしろ「事物のまとまりやラベリングを打ち砕く」(Ibid.)ものであり、「リアリティを探究し、それを巻き込む力」(Ibid.)である。

こうした情動の範例としてリンギスは笑い(laughter)/陽気さ(hilarity)/祝福(blessing)と涙(tears)/憐れみ(compassion)/呪い(curse)を挙げている。これらが人の生を動かさないならば、その人の生は活力を失っている、と彼は指摘する。

それらの情動の力について、リンギスは次のように言う。「祝福(blessing)は笑いによって、不完全性、謎、ひどい事故に対して向けられた力である。笑いの力によってそれらの出来事は豊かになり、光り輝く」(Lingis 2018: 184)。

逆に、「呪い(curses)を向けられた時には強く深い悲しみが現れる。呪いは、敵対する人の無思慮な攻撃に対する無効な反応ではない。[中略] 対面した時、人は自らの呪いの力が、呪う相手の平静を損なうのを見出す」(Ibid.)。

肯定的なものであれ否定的なものであれ、情動は単なる内的な反応—それ自体では何の実効性も持たない単なる反応—ではなく、その宛先となる他者に対して実際的な力を及ぼすものであることが、ここで確認されている。その力の具体的な諸相については後ほど検討するとして、同じく情動に関わる次の批判へ進もう。

第三批判:万物の支配・同定を目論むような類の理解/把握に対する批判

2点目の批判が情動に対する過小評価に向けられていたとすれば、この3点目の批判は、万物を支配し位置付けようとする「理解」(understanding)ないし「把握」(comprehension)に対する過大評価に向けられている。

そのような類の理解/把握は、何らかのネットワークを作るだけで、ゼロから何かを創造する力を有しているわけではない。これに対して、「生命力(vitality)は、もう一つの種の理解を推進する—それは、もっと多くを開き、さらなる果てへ進む。そのような理解は寛大と深い悲しみであり、祝福と呪いである」(Ibid.)。

「もっと多くを開き、さらなる果てへ進む」(opens up more, goes further)ような「理解」とはいかなる行為であろうか。この引用部の直後でリンギスは以下のように述べている。「現実への欲求の中には、内在的なモーメントがある。情動は放出された時に消失するのではなく、増大するのである」(Ibid.)。

山に住むために旅立った人は、(それだけに留まることなく)全ての山道を踏破することを望み、春の雨夜の中で、冬の雪の中で眠りたいと思い、全ての崖を登ってみたいと思うだろう。海に一度思いを馳せたら、船遊びしてダイブしたいと思うだろう。色欲は、相手を尊重し思慮に満ちた愛撫で満足されるわけではなく、別の、しかし野生的なオルガスムを望む。(そして増大された)色欲はジェット機の中で、そして南国の湿地でのオルガスムを望み、(さらには)拘束されること、鞭で打たれることを望む……とリンギスは指摘する。

そういった意味で、「祝福は、全ての環境的な、生態学的な倫理の始まりであり、終わりである。万物の苦痛に課せられた呪いは、全ての宗教の源泉である」(Lingis 2018: 184-185)。祝福の情動は、その放出と共に増大を続け、倫理の源泉かつ究極として世界を覆い尽くす。同じように呪いの悲しみも、小さなコミュニティから連鎖を続け、普遍宗教の礎となる。

第四批判:<他者>を客観性や間主観性、あるいは目的の国、ポリスの中に位置付けることに対する批判

表題を踏まえると、この4つ目の批判からがいよいよ核心の議論になると考えられる。

冒頭の段落には次のような一文がある。

「今日の哲学が客観性と間主観性との関係に主として関心を寄せていること、そして過日の哲学が、目的の国ないしポリス内市民に関心を寄せていたことの、なんと奇妙なことか」(Lingis 2018: 185)。

「今日の哲学」(philosophy today)として言われているのは、主に現象学だろう。そして「過日の哲学」(philosophy yesterday)はカント、そしてソクラテス・プラトンの倫理学を指すと考えられる。表題で暗示されていたソクラテス以後の西洋哲学批判が、いよいよここから本格的に開始されることを予感させる文である。この4つ目の批判が文量としては最も大きいが、注意深く読んでいくことにする。

上記引用部に続いて、リンギスは次のように警告する。「まるで他者が、私たちの信念を真理へと促す他我として、『文明』と呼ばれる共同の仕事における私たちの協働者として私たちに関わっているかのようだ」(Ibid.)。これはもちろん「実際にはそうであるはずがない」ということである。

この文と対置させる形で、彼は以下のように話を続けている。「強く活発な情動は、<他者>のリアリティに、他者性のリアリティに向けて、それを通して作用する。そうした情動は、人を笑わせ、嘆き悲しませ、祝福し、呪う。そして、祝福と呪い—世界、そして自分自身—と共に、共に笑い、嘆き悲しませるのだ」(Ibid.)。

2点目・3点目の批判の中でリンギスは、笑いや悲しみの情動は生を生気づける源泉であると指摘していた。ここで彼は、そうした情動は<他者>のリアリティ、他者性のリアリティに向けて/を通して作用するものであると論じている。ここでいう<他者>は私たちと共に仕事をする協働者ではないし、共に真理を探究する他我でもない。次の段落で言われているように「文化も宗教も共有されておらず、知られてすらおらず、共通の言葉を持たない」ような状況で出会う<他者>が、しかしながら「私の生そのものの依存先になっている」。

<他者>との出会いの範例として、リンギスはボゴタ(コロンビアの首都)での旅行経験を以下のように書き記している。

ボゴタに到着した夜、「私」(リンギス、以下「」なしで表記)はホテルを出て新聞を取りに行った。そこで女性が私に挨拶をしたのだが、彼女は微笑んで(with smile)挨拶したのではなく、笑いを共有するように(with laughter to share)挨拶した。

次の朝、私は100枚のタイピングシートを購入し、次の日は25枚の封筒を交遊した。レジ係は何度も何度もそれらの数を数えたが、彼女が思い出したか、あるいは作り出したジョークに笑い転げてしまい、数のカウントを忘れてしまった。

ウェイトレスは、あなたにメニューを渡す前に、自分が聞いたばかりのジョークを客に教える。

薄っぺらい新聞を持った見窄らしい男が、角の周りに立っている。毎朝6時に私がそこに行くと、彼は歌っている。彼は私に近づくと、私に向かって踊る。私は彼に10センタボを渡すが、返される。彼が呼ぶと、私は帰っていく。彼は私に、このジョークを知っているかと尋ねる。私は笑うが、彼は私がわかっていないことを知っている。私が笑っている時、彼はとても巧みな技術で、私の口の中にキャンディを一粒投げ入れる。午後遅く、彷徨する群衆。歩くたび、私が通り過ぎる人々の中から、次から次へと笑いの炸裂が聴こえる。

リンギスはこれらの経験に「海を渡る価値」(worth crossing the seas)(Lingis 2018: 186)を見ている。「それはこの世界の今日の社会におけるいかなる政治的・経済的・制度的現象よりも重要である」(Ibid.)。

この「海を渡る価値」が何であるかは後段の「第五論点」の解題で述べるとして、ここでは<他者>のリアリティに向けられた情動についての省察を続ける。

ボゴタでの経験を述べた後の段落では、「強く活発な情動は排泄物であり、返礼のない支出であり、実行可能性のないもの、不可能なものに対して増幅し続ける献身である」(Ibid.)と述べられ、その範例としてエロティシズムが提示されている。「<他者>が他者である—女神であり獰猛な女であり、神であり強欲な男である——のは、エロティックな激情を通してなのである。エロティシズムは所有することに対置されるものであり、奪われることへの耽溺である」(Ibid.)、と。

ここで思い起こすべきは1つ目の批判の内容である。本論文冒頭においてリンギスは、生の欠乏を、外部から満たし、外部の事物を我がものとして所有する運動が生の本質なのではないと私たちに注意を促していた。そうではなく、私たちは「必要もなく放出される過剰なエネルギーを常時生み出している有機体」(Lingis 2018: 183)であり、「過剰なエネルギー」たる「情動」が私たちの生を方向付けているのだった。

この点を踏まえると、確かにエロティシズムこそが「情動」の範例になることがわかる。エロティシズムとは(少なくともここで暗に前提とされているバタイユの『エロティシズム』においては)「消尽」であり、外部のものを内部に取り入れるどころか、まさに「排泄物」のように洗いざらい自らを相手に差し出してしまう、そういった「過剰な/逸脱した(excess)エネルギー」だからである。

ところで第一の批判の末尾では、「情動」は「事物の厚み」(the thick of things)へと私たちを導くと言われていた。この厚みは奥行きと言い換えてもいいだろうし、第三の批判で言われていた「もっと多くを開き、さらなる果てへ進む」(opens up more, goes further)力であると考えてもいいだろう。

世界の厚み、奥行き、果て——それらへの邁進は「喜び」(joy)であるとリンギスは言う。

「喜びだけが反形而上学であり、愛と憎しみ、悲哀、地獄、恥、不具、この世界を承認しうる」(Lingis 2018: 186)のだが、現代哲学は、喜びが世界について明示するものを信じる可能性を切り捨ててきたとリンギスは指摘する。「現代哲学は、情動を欠いた客観性の認識論を破壊し、喜びが最も包括的な精神であり、最も広く行き渡る精神であり、各人が取るべき道を見出すのは唯一喜びの頂点においてだけであるということを示す深い思想家を必要としている。重要な決定はいずれも、ただ喜びのうちに成されなければならないのだ」(Lingis 2018: 186-187)。

この「喜び」の指し示すところについては、本論の最終部でも触れられているので、そこで検討することにして最後の5点目の批判へ進む。

第五批判:精神の理性的活動の領域においてのみ「しなければならない」があるとする考え方に対する批判

最後の5点目の批判も、別の角度からの理性批判である。段落冒頭には次のように書かれてある。「精神の理性的活動の領域において「しなければならない」があり、他の全ての領域には満足以外に目的を持たない人間の生の打算的な計算しかないということの、なんと奇妙なことか」(Lingis 2018: 187)。

少なくともカントを踏まえる限り、理性的領域に対して、道徳の命法(imperative)が課せられることを疑う人はいない。しかしリンギスは、理性的領域にだけ命法が課されるわけではないと指摘する。

「知覚的生における目的論がある。知覚の現象学は次のことを説明する——知覚は固有で理解可能な事物、共存可能な諸事物の配置の知覚に向けて方向付けられている。知覚された事物は所与ではない。それは命法である。それは空虚な地理的空間と同等なもののうちに現れるのではない。それは秩序立てられた配置において、実体のある、連続的領域において現れるものであり、その部分は知覚に与えられたものなのではなく、命法である」(Ibid.)。

しかし、諸事物の知覚された配置は、「光の深さ、暖かさ、液体の流れの中で、大地の深さを支えるものの上に」(Ibid.)中断される。知覚された配置を中断するこれらのものは、単なる知覚の対象ではない。それらは「境界や輪郭を持たない感性的なエレメント(element、元基)であり、知覚されたものと知覚するものとを支え、維持するエレメントの深さである」(Ibid.)。

こうしたエレメントとの関わりは、単なる知覚ではなく「享受」によってのみ成されるとリンギスは指摘する。「(享受とは)、それによって感性的な主体性が形成される巻き込み(involution)である。私たちは光を享受し、自分自身を見始める。私たちは大地の支えを享受し、自ら動き出す。しかし光は見るための単なる手段ではなく、大地は私たちの自己ー運動を支え、事物を掴み取るための単なる手段ではない。エレメント的なものは、それ自体として私たちを命法的に呼び出し、明るく、温かく、情熱的に、色欲的に、地上のものにさせるのだ」(Ibid.)。

道徳的な命法は理性的な領域の独占物ではない。それは知覚の領域において作用する。ただし、その命法は単なる知覚対象だけから受け取られる物ではなく、知覚を可能にする光や大地などの「エレメント」からも授受されるものである。

またリンギスは、光などのエレメントだけでなく、夜の闇もまた命法を与えると考えている。感性的な生は事物だけに結びついているのではなく夜にも結びついている。「夜は全ての生に入り込んで脱人称化し、それらを命法的な形で呼び出す」(Lingis 2018: 188)。

さらに彼は、死もまた私たちに命法を与えると言う。

ソクラテスの「気概」(courage)は、人間の生を、死の淵で己自身の力を維持する力として初めに樹立されていた。自由に至高の価値をおく現代の哲学は、死に面した時の自由に最大の賭けを置いていた。ドストエフスキーとハイデガーは、死それ自体の力の全てを内面化させようとした。「しかし死は、それ自体のうちから到来し、私たちを呼び出す。いつの日か(one day)、いつの日でも(every day)、私たちは死の召喚に従わなければならなくなるだろう」(Ibid.)。

以上の議論を締めくくる形で、リンギスは最後にこう言っている。「哲学にとって不可欠な仕事は、知覚された風景の中に、エレメント的なものの中に、夜の中に、死の深淵の中に、多様な命法を認識することである。そして、喜びの洞察力と決定力を、命法に従うこととして打ち出すことである」(Ibid.)。

第2節:リンギスの批判内容の整理と論点の抽出

5つの批判内容の整理

ここまで、5つの批判の内容について順を追って見てきた。改めて表題を見直し、本論文の内容を踏まえてその意味を「吟味」してみよう。

「吟味されていない生は生きるに値しない」に対置される「生きられていない生は吟味するに値しない」とはいかなる意味か。

「生きられていない生」とは、祝福や嘆きなどの「情動」によって導かれていない生を指す。

第一批判での指摘の通り、生は単に自らの欠乏を埋めるために外部の事物を取り込んで満足するわけではない。生とは、「弁済について考えることもなく、その必要もなく放出される過剰なエネルギーを常時生み出している有機体」であり、その過剰なエネルギーが「情動」である。情動を欠いた生は、その有機体としての本質を欠いている。

また第二批判で言われていた通り、情動は事物に対する単なる反応なのではなく、むしろ「事物のまとまりやラベリングを打ち砕く」ものであり、「リアリティを探究し、それを巻き込む力」であり、その宛先である他なるものに実際的な力を及ぼす。その点で情動は、私たちの生のリアルを生気づけるような力でありうる。

それだけではない。第三批判で言われているように、情動はただ周囲に放出され、発散されて終わるのではなく、むしろ発散によって増幅する——エロティックな欲望が、その発散によって減衰することなく、むしろ増幅していくように。一個体の小さな力だった欲望が連鎖して大きくなっていくことで、やがてそれは世界を覆い尽くし、倫理や宗教の源泉になる。

エロティックな欲望は、ともすると自分と相手を一体化させる同化作用として理解されかねないが、ここでいう情動はそういった「恍惚」とは一線を画する。第四批判にある通り、情動は<他者>のリアリティ、他者性のリアリティに向けて/を通して作用するものであり、その<他者>は「私たちと共に仕事をする協働者ではないし、共に真理を探究する他我でもない」。いかなる文化も宗教も言語も共有されざる、合理的コミュニケーション不可能な<他者>に向けられた情動こそが、私たちの生の本源的な力となるとリンギスは論じる。

興味深いのは、第四批判の後段でリンギスはこの情動を「喜び」(joy)として言い換えているように見える点である。もちろん違う言葉を使っているので完全に同じ意味というわけではなく、直前のエロティシズムをめぐる文脈との繋がりから考えると、「<他者>に向けられたエロティックな欲望として結晶化された情動」が「喜び」なのではないかと解釈できる。

この「喜び」は、それゆえ単なる肯定的な情動として理解されてはならない。「喜びだけが愛と憎しみ、悲哀、地獄、恥、不具、この世界を承認しうる」と言われている通り、ここには「情動」の全ての内実が含まれている。なぜこの情動が「喜び」と言われるのかは後段で検討しよう。

最後の第五批判では、この「喜び」が、知覚された風景、エレメント的なもの、夜、死の深淵からの多様な「命法」(imperative)に従う行為であることが明かされている。

道徳的な義務・命法は、単に理性に対して与えられるものであるだけではない。それは知覚的・感性的生の領域においても与えられている。

私たちの知覚は、空虚な物理的空間に現れているわけではなく、何らかの秩序だった配置の中に現れている。私たちの知覚は、その秩序によって方向付けられており、それゆえ知覚することは自然の命法に従う行為でもある。

また知覚は、知覚対象と知覚主体を支え、維持するエレメント的な深さによって可能になっており、それらエレメント(光、暖かさなど)を享受する私たちは、エレメントからの命法に応答しながら生きている。

また、私たちの知覚を可能にするエレメントだけでなく、私たちを不能にさせる「夜」もまた私たちに命法を与える。夜は私たちの生に否応なく侵入し、私たちの人称性を動揺させる。その時私たちは、夜に対して従属しなければならなくなる。

そして死は、最も決定的な仕方で私たちの生を審問する。哲学は長い間死を何とかして支配したり内面化したりしようとしてきたが、死は常に私たちの外側から到来する。私たちの与り知らぬところから到来して、私たちを従属させる。

以上を踏まえ、「生きられていない生は吟味するに値しない」という表題の意味を改めて検討しよう。

生を生たらしめるのは情動である。祝福や嘆きなどの情動は、自らに同化されざる、自らと共有できるものを持たない<他者>に対して向けられた、逸脱したエネルギーであり、エロティックな欲望を範型とする。

統御不可能な形で発散し、増幅し続ける情動=「喜び」は、私たちの知覚的・感性的生の領域からの「命法」に従うことである。その点でこの情動は、内発的な欲望の力であるのと同時に、私たちの生きる世界に対する応答でもある。私たちの生は、この欲望にして応答である情動の力によって作動しており、それを欠いた生はもはや生(vitality)を失っており、吟味に値しないということになる。

5つの論点の抽出

本論文でのリンギスの主張は、概ね上記に尽きている。しかし本論文だけでは解消できない論点が、彼の主張にはいくつも宿っている。

第一に、「情動(emotion)がこのような生にとって本源的な力を持っていると言われるとき、それは具体的にはいかなる点でそう言えるのか」という点である。彼も情動について説明するときにいくつか具体例を出しているが、その簡潔な事例だけでは彼の主張を腑に落とすことができない。

第二に「情動が<他者>(the other)に向けられるものだとして、その<他者>は具体的には誰であるのか」という点である。第四批判においてリンギスは<他者>を「文化も宗教も共有されておらず、知られてすらおらず、共通の言葉を持たない」と形容しているが、これはおそらく<他者>の外面的属性の説明であって、<他者>自身を説明するものではない。<他者>は他性という働き/性質を持つものである以上は、その本源的な働きないし性質の説明が必要だろう。

第三に、「『喜び』はなぜ『喜び』(joy)として表現されているのか」という疑問がある。前述の通り、第四批判の末尾で出てくる「喜び」は、それゆえ単なる肯定的な情動として理解されてはならない。しかし日常的な語法としては「喜び」は肯定的な意味で使われる。だとするとこの「喜び」には、日常語としての意味とは別の含みがあるはずである。「命法」に従うこととしての「喜び」の意味を理解するためにも、この言葉の含意の理解は必要不可欠である。

第四に、「私たちの知覚的・感性的生における『命法』はどのような仕方で『命法』として働いているのか。なぜ『命法』なのか」という問いも避けて通れない。確かに私たちは、知覚されたものの背後にある秩序や、エレメント、夜、死の深淵に接しながら生きている。ある意味でその生は、それら世界への応答と言えるだろう。ただ、世界から私たちの生に及ぼす作用が「命法」(imperative)と言われるのは、いかなる点においてであろうか。またそれはなぜ「命法」と言われなければならないのだろうか。

最後に、「編者のスパロウは、本論文を哲学における旅の重要性の省察と位置付けているが、本論文において旅の重要性はどのように論じられているのか」という点を挙げておきたい。

結論だけ見れば、リンギスが本論文で言いたいことは以下の2点になる。

1.   感性的・知覚的生から、多様な命法を受け取ること

2.   その命法に従うこととして、「喜び」の洞察力と決定力を打ち出すこと

第四批判において、「訪れる価値のあった場所」について語っている箇所はあるが、旅をすることそのものの価値をここで語っているわけではない。スパロウの説明が間違っておらず、かつ旅の重要性が直接言明されていないとすると、私たちは本論文の結論を次のように解釈しなければならない。生における多様な命法を聞き取り、その応答として「喜ぶ」ことこそが「旅」であり、リンギスの言葉で言えば「哲学にとって必要不可欠な仕事」こそが「旅」である、と。

この論点は第一から第四の論点を総合的に含むものなので、その検討結果を整理して最後に論じることとする。

第3節:5つの論点の解題

第一論点の解題:情動が生にとって本源的な力となるのはいかなる点においてか

本項では、「情動(emotion)がこのような生にとって本源的な力を持っていると言われるとき、それは具体的にはいかなる点でそう言えるのか」という点について、『汝の敵を愛せ』所収の論文「祝福と呪い」[6]の記述を踏まえて論じる。

「祝福と呪い」には、「能動的な生物体はただ単にエネルギーを発散しているわけではなく、情動がそのエネルギーの流れに道筋をつけている」(Lingis 2000/2004a: 69/112)とある。情動とは単に反応性のものなのではなく、特定の物体や出来事を選び出して、それだけに焦点を当てる。

リンギスに言わせれば、笑いという情動は、不可解な出来事に対して背中を押す力=祝福を持っている。クロッチ・ロケット型のバイクにまたがって、西部の道をひと夏の間ぶっ放していこうとする若者を、父は心の底から笑って送り出す。逆に涙は、私たちの痛みへの反応ではない。「嘆きと悲しみは、私たちが他者の痛みに対して開いていく能動的な道であり、私たちが自分のことを超えて嘆き悲しむことができるとすれば、それは、いつも自分の通る道を越えたその向こうに、他者の嘆きや悲しみに通じる道を切り開くことによってである。嘆きや怒りは、よく管理された私たちのアパートメントの上と下に、崇高な天や途方もない深淵を開いている」(Lingis 2000/2004a: 71-72/116)。

もちろん、嘆きや悲しみが私たちの内側に向くこともある。しかしリンギスは、嘆きや悲しみの宛先はそんなに小さなものではないと言う。嘆きや悲しみは、ある意味で、その対象や出来事の「どうにもできなさ」から生じている。自分が直接関係するかどうかに関わらず、その出来事の「深淵」を嘆き、悲しむ。リンギスはここに、他者への悲しみへ向かう道を、そしてその道を開く嘆きと悲しみの力を見てとっている。

今ここで「力」という言葉を使ったが、情動を外部への力と見るリンギスに対して、次のように反論する人もいるだろう。「確かに祝福にせよ嘆きにせよ、単なる事物や出来事への反応ではなく、自らの内的次元を超えて遍く広がっていくだろう。しかしそれは『力』だろうか。『力』というからには、それが実際にその事物や出来事に対して作用しなければならないはずである。ではこれらの情動は、どのように作用するのか」と。

こういった反論は、満足感(contentment)や不快感(displeasure)などの「弱い感受性」(the weak sensitivity)と、祝福や嘆きの「情動」との混同に由来しているとリンギスならば言うだろう。

祝福にせよ嘆きにせよ、それはあまりにも激しく、当事者によるコントロール可能性をはるかに超えてしまっている。発散しても消失するどころか増幅を続ける情動の爆発を受けると、人は疲れ切ってしまう。その結果、「人は自分の要求と欲求が何であるかを明らかにしようとし始め、自分の正体が要求と欲求の集まりであるということを知る。[中略] 満足感とは、同化吸収されたある快感の上でぐつぐつ沸き立つ、閉鎖と充足の感情だ。不快や満足感は反応性(reactive)の感情であり、弱められた力である」(Lingis 2000/2004a: 76/122)。

フラストレーションや攻撃性を受けるとき、このような「弱い感受性」は、攻撃者そのものではなく攻撃を受けた後のイメージや印象に対して憤慨し、その自分の内的な可傷性の中に引きこもる。逆に賞賛を受けるときは、賞賛してくれた相手ではなく、その賞賛の言葉のイメージに満足して、内的な充足感を得る。

「弱い感受性」は、自らを触発する事物や出来事それ自体の力を「弱める」(weaken)。その代わりとなる表象、自分にとって支配可能な表象と戯れることで、傷を中和し、内的快楽を得ようとする。外的事物・出来事から自らを遠ざけて引きこもるとき、感受性はもはや無力なものになる。力の向かう宛先を、自ら払い退けてしまうからである。

祝福や嘆きなどの「情動」は、こうした「弱い感受性」から明確に区別される。情動が相手にするのは表象ではない。その事物や出来事それ自体であり、事物や出来事の支配不可能な「力」——「命法」(imperative)と後に言われるようになる力——である。情動が力であるのは、こうした事物や出来事の力に対して作用する限りにおいてである。いわばそれは力に対する力であり、命法に対する応答(response ≠ reaction(反応))である。

事物や出来事の力に対して働く情動の力は、それらの現実性(reality)を知る力でもあるとリンギスは言う。

「弱い感受性」の中で自らを守ろうとする人々は「カクテル・パーティやハント・バー」で「ガールフレンドや妻について自分が持つ幻想を具体化してくれる女性を探す」(Lingis 2000/2004a: 78/126)。そして、「その女性を誘惑して、自分のベッドやアパート、さらには、世界から引きこもるための家庭的な避難所に落ち着かせる。 [中略] しかし、私たちはまだ一人の女性さえ理解していない。その女性がいたからこそ自分で自分をさんざん笑うことができたのだと言って、万物を祝福し、彼女を祝福している自分に気づくまで、また、親指をハンマーで叩かれたり、投資が全て挫折した時以上に泣かされたと言ったりして、彼女を呪い、自分自身を呪っている自分に気づくまで、私たちはまだ一人の女性さえ理解していないのである」(Ibid.)。

「目を開けて出来事や事物を直視しよう」とリンギスが言うとき、その出来事や事物は決して直視可能なものとしては想定されていない。真っ直ぐ見ようとしたら目を焼いてしまうような、そのような圧倒的な諸力を有している。それらの出来事や事物を理解するとは、その圧倒的な力を正面から受けて、応答することである。その圧倒的な力を受けて掻き乱された生の全身全霊をもってして、情動という破壊的で逸脱したエネルギーを相手に投げつけること——現実の現実性を見出し、それに関わり、知るということは、そうした劇的な出来事なのである。

第二論点の解題:<他者>とは誰であるのか

第一論点での結論を踏まえると、第二論点の主題である<他者>の他者性とは差し当たり、情動の宛先となる事物や出来事の現実性——私たちの生を掻き乱す圧倒的な力——であると言える。だとすれば、いかなる瞬間、いかなる場面においてそうした事物や出来事の現実性・力は私たちに到来するのだろうか。「その女性がいたからこそ自分で自分をさんざん笑うことができたのだと言って、万物を祝福し、彼女を祝福している自分に気づく」のは、また「彼女を呪い、自分自身を呪っている自分に気づく」のは、どんな瞬間なのだろうか。

「侵害」(『汝の敵を愛せ』所収の論文)[7]でリンギスは、他者性の経験を言語理解に先立つものとして提示している。

「侵害」冒頭でリンギスは以下のように問いかけている。「しかし、言葉が機能しうるその前に、他者を認識する必要があるのではないだろうか。言葉は、誰かが意味を込めて口にしたものだと受け取らない限り、空中に浮かぶただの音に過ぎない」(Lingis 2000/2004b: 85/137-138)。

私たちの多くは、会話が成立するためには他者の言うことを理解しなければならないと考えている。他者を道徳的・倫理的に尊重し、敬意を払う行為は「対話する相手の言った情報内容だけでなく、話し手の背景、優先事項、能力をも私たちが理解するようになったときにのみ、真となる」(Lingis 2000/2004b: 89/143-144)という利他的な会話モデルは、広く受け入れられている。

しかし「この道徳の捉え方で具合が悪いのは、私たち自身は、会話においてこういう道徳的な扱われ方を望んでいないということだ」(Lingis 2000/2004b: 89/144)とリンギスは言う。

この宣言に続いて彼は、チベットの寺院での経験を語り始める。「対話する相手が私たちの正直さや誠実さを尊重し、私たちの言うことに真実が含まれていると思ってしまったならば、私たちにとってその会話は意味を持たない。私たちが探しているのは、私たちが言うことだけでなく、私たちが見たり、感じたり、経験したりしたことについても、異議を唱えられる人物である」(Lingis 2000/2004b: 90/145)。

「私たちの鈍さや愚かさを暴いて、私たちをチベットの寺へ連れ戻し、もう一度確かめさせるだけでなく、自分自身の屈辱(mortification)や不面目(humiliation)や傷(wound)を晒してみせる人物に偶然出くわすこともある。 [中略] そのような人に会ったときは、おそらく会話は役に立たない。チベットやチベットの寺とより激しくコミュニケートするためには、役に立たないのだ。しかし、話し手それぞれが自分の言っていることの中に自己の姿を感じ取れないその会話は、激しさの絶頂であり、渦であり、ブラックホールである」(Lingis 2000/2004b: 90-91/145-146)。

このような猥雑な経験は、合理的なコミュニケーション主体である「私」と「あなた」というイメージを破壊し、像を突き破って私たちを「透-明」(trans-parent)にして、絶頂へと導く。現実の現実性、<他者>の他者性の経験は、言語的理解に先立つ次元での、相手との激しいコミュニケーション(communication)に他ならない。

言語的理解の挫折は、多くの人にとって不快をもたらす経験であるようにも思える。しかし上記のチベットでの経験は「もはや自己を脱線させることも、制御することもできないような勢いで突き進み、危険を冒す喜び、危険な領域に侵入する喜び、自分の力を浪費する喜び」(Lingis 2000/2004b: 91/146)をもたらす。

この「喜び」の経験を考える上で重要なのは、確かにそれは言語的理解の外側の出来事だが、「理解できないこと」が問題なのではないという点である。そうではなく、言語的理解が不能になることによって私たちを取り巻く様々な境界が崩壊し、人々の身につけている鎧が破れ、それゆえに露わになった他人に対する——エロティックな——喜び(joy)が問題なのである。

この出来事を説明するために、リンギスは仙台空港での経験を語っている。

「一人の僧がホールに現れる。白と黒のシンプルな袈裟や草履は自信を漂わせ、非の打ち所がないほど清潔で、その落ち着いた物腰は、時間を超越した何かにしっかりと据えられているかのようだ。僧は床に広がったあなたの足に気づかず、よろめいて、隣の人に捕まるが、そうすると同時に袈裟から二本のシーヴァス・リーガル(ウィスキーの銘柄)が床に落ちて砕け、あなたはアルコールの飛沫を浴びてずぶ濡れになってしまう。 ガシャンという音、それどころか臭いまでが広がることは空港の待合室では滅多にないことで、見ている人は恐怖で凍りついたようになる。そして笑いがドッと起こり、何が起こったのか人が見に集まるにつれて、その笑いは広がっていく。笑い声が高くなるかと思えば低くなり、目と目があってはまた高くなる。僧もあなたも、目が合えば笑っている」(Lingis 2000/2004b: 91-92/147-148)(カッコ内は川崎)。

こっそり持ち込んだシーヴァス・リーガルを落としたのがトイレの個室の中であれば、誰も笑わなかっただろう。単にウィスキーを割ったのではなく、空港の待合室で転倒して懐から飛び出したウィスキーが割れて、さらにその水飛沫で見ず知らずの他人をビショビショにさせたという状況が、その場にいた人々を笑いに導いている。

繰り返すが、問題は状況の不可解さやシュールさではない。そのような状況に置かれて、それぞれの人が他者に対して明け透け(trans-parent)になることから、互いに対する笑いが生まれ、増幅されながら広がっていくのである。

それゆえ、<他者>の他者性が現れる瞬間とは、「他者性」と呼ばれる像が目の前に到来するような経験ではない。むしろそうした像が貫かれ、「明け透け」になった他者と自己に対して、えも言えぬ喜びを覚えるときにこそ、現実の現実性、<他者>の他者性が肌身に感じられるのである。


第三論点の解題:喜びはなぜ祝福と嘆きを共に含むのか

第二論点で取り上げた仙台空港の出来事についてリンギスは、「(僧や周囲の人々の喜びは)さまざまな境界の崩壊についての喜びであり、衣服の、すなわち空港に居合わせた人々が身につけている鎧の崩壊についての喜びとなる。つまりは、他人の隠しようもない明白な喜びについての喜びとなる。笑いは、笑いを解き放った物や出来事を注目の的からすり抜けさせ、激しいコミュニケーションをスタートさせる」と語っていた。

ここで言われている「激しいコミュニケーション」とは、チベットの寺院の事例で言われていた言語的次元に先立つコミュニケーションであるとともに、エロティシズムを範例とする(「生きられていない生は吟味するに値しない」の第三批判参照)情動の力のやりとりである。

こうしたコミュニケーションは、人々を精神の高揚・絶頂へ導く、肯定的情動の力の究極であるようにも見える。しかし「祝福と呪い」の中でリンギスは、この笑い・喜びが単に肯定的な情動だけを意味するわけではないことを示唆している。

「涙なしに笑いはない。私たちが涙なしに笑う出来事があるとすれば、それはショーであり、涙なしに笑い合える仲間があるとすれば、お互いに役を演じている仲間である。泣かない人は笑うこともなく、ただ、含み笑いや馬鹿笑いや忍び笑いをするだけだ。嘆きは、子どもの笑いや死んだ英雄の笑いを忘れることがないので、その笑いを再び聞くことができる。殺されたトゥパック・カタリすなわちチェ・ゲバラへの嘆きは、迫害ゆえに流されたゲバラの血がアンデス高地における複数の条約にお墨付きを与え、CIAの基地で爆弾を破裂させることになった時から、ワッと笑い始めた」(Lingis 2000/2004a: 73-74/120-121)。

また同様に、「祝福なしの呪いはなく、あらゆる祝福は運命であり、呪いでもある。共同会議室でウィスキーを飲み、タバコを吸う嫌な老人への怒りは、スラム街の野蛮な青年たちの罪を清める。ヒマラヤ山脈の崇高さはまた、全てを氷で覆う嵐であり、雪崩でもあるのだ」(Lingis 2000/2004a: 74/121)。

ここでは、祝福と呪い、笑いと憐れみ、喜びと悲しみは、相反する両極の関係ではなく、むしろ互いの存在によって立脚する兄弟姉妹の関係にあるとされている。確かに両者とも、現実の現実性、その他者性に直接触れる営みであり、その点で兄弟姉妹の関係にある。しかし、「涙なしに笑いはな」く、「祝福なしの呪いはな」いとまで言えるのはなぜか。第二論点での仙台空港の出来事でも、確かに周囲の人々は一瞬凍りついたが、そこに涙や呪いはあったのだろうか。祝福と呪いが互いに互いを必要とするとすれば、それはいかなる点においてのことなのか。

情動をめぐるこの両義性については、「臨終の喜び」(『汝の敵を愛せ』所収の論文)[8]で詳しく述べられている。

激しい情動は、自己のアイデンティティを「明け透け」にして崩壊へと導くと同時に、事物や出来事の力に直接触れさせることで、自己を死の危険へと誘う。この時私たちは「自分の技術や習慣の安定した構造が消えていき、心のダイヤグラムや地図が崩壊していくのを感じる。私たちは、馴染みの社会で保持してきたものが、冷淡で空虚な空の中で崩壊していくのを感じる。その時私たちは、人間のものと思えないほどの気持ちの高揚を覚え、不安に陥る」(Lingis 2000/2004c: 161/254)。

また、「そういった気持ちの高揚には、私たちをさらに高く、さらに高い崖へと、アンデス山脈やヒマラヤ山脈へと駆り立てる勢い(momentum)がある。 [中略] 私たちは、気持ちが高揚する度に、深淵に身を投げる時の苦悩が歓喜へと変わっていくのを感じる。私たちは気持ちが高揚するたびに、深淵への最終跳躍(final leap)が喜びとして経験される可能性を感じ取る」(Ibid.)。

喜びは、まさに「臨終」(dying)の只中でのみ生まれる。私たちを死へと導く深淵と、その不安・嘆きの中にこそ、「最終跳躍」の喜びがある。厳格な衣装に身を包んだ僧が、懐に忍ばせたウィスキーを派手に割って無関係の人を水浸しにしたとき、彼のアイデンティティは一瞬のうちに台無しになり、死へと開かれ恐怖が到来した。しかし、まさにその深淵への開かれの勢い(momentum)が彼を高揚させ、笑いと祝福が自然と場を包みこむこととなった。だからこそ、喜びは嘆きと共にあり、情動は「常に」祝福と呪い——両者はもはや切り離せない——になるのである。

ちなみにこの「臨終の喜び」では、この「喜び」の考察に随伴する形で『ソクラテスの弁明』および『クリトン』におけるソクラテスの生が批判的に検討されている。「臨終に際して苦悩を喜びに変える力をいったん感じてしまえば、私たちはあらゆる喜びへと解き放たれる。 [中略] 喜びによって死の恐れから解放された生は、牢獄においてあらゆる不当な状態に服従することを受諾して、追放の苦難を回避しようとしたソクラテスの生ではない。深淵を覗き込む優れた洞察力は、その澄んだ光で、あらゆる人間活動の本質を照らし出すはずである」(Lingis 2000/2004c: 162/256)。

「ソクラテスは、哲学を、身体の麻痺から生じ、身体が死んだ後も続く精神のエクスタシーによって、死に先立つ苦悩を克服することと定義した」(Lingis 2000/2004c: 162/255)。ソクラテスもリンギスも、死の恐れに向かい合っている点では同じだが、ソクラテスが死の恐れを普遍的な精神—魂—の作用によって「克服」しようとするのに対して、リンギスはむしろ死を恐るるに足るものとする「深淵」に跳躍しようとする際の喜びによって、恐れが「解放」されると考えている。

この差異を踏まえると、本発表の主たる検討対象だった「生きられていない生は吟味するに値しない」という表題の意味をより鮮明に理解することができる。ソクラテスは、死を克服せしめる「精神のエクスタシー」に賭け、「吟味されていない生は生きるに値しない」と力強く宣言した。他方でリンギスは、死の淵へと向かう——最終跳躍する(final leap)——経験こそが生のリアルであり、その喜びの「洞察力」なくして「吟味」は不可能であると訴えた。

「生きられていない生は吟味するに値しない」の第一批判を思い出そう。そこでは精神を否定性とみなす考えが批判されていた。自らの欠如、究極的には死の可能性を超克することが精神の作用なのではない。リンギスにおいてはむしろ死へと跳躍すること、その生の喜びこそが知であり、洞察力であり、吟味する精神の作用なのである。

第四論点の解題:命法はどんな仕方で私たちに作用するのか

第三論点では主として<私>の死について取り扱ってきたが、<私>の死の可能性はむしろ周囲の事物・出来事・他者の死の可能性から到来する。

前述の「臨終の喜び」にはこう書かれてある。「私たちは、事故の犠牲者をゾッとするような気持ちで眺める。棺が埋められ、私たちは仕事場に戻り、他人を襲った死は覆い隠される。しかし、闇の完全な静寂の中にいると、自分自身が死と隣り合わせになっていることが感じられ、そのことは、仕事場の道を舗装する不動の石や、自分を取り巻く鋭利な道具や壊れやすい道具、重い道具や小型化された道具の内にあるような、どことなく脅迫するような雰囲気によって思い出される」(Lingis 2000/2004c: 159/251-252)。

エピクロス以来主張され続けているように、私は私自身の死を経験しない。死が恐るべきものとして経験されるのは、自分以外の他者や事物・出来事の死に直面するからである。他者の死に直面することで、<私>は自らの死の可能性に触れる。死の深淵は、常に「私たち」に対して開かれている。

この他者の死——それが他者を<他者>たらしめる——が、<私>に「命法」(imperative)を与えるとリンギスは指摘する。「命法的諸表面」(『異邦の身体』所収の論文)[9]には次のように書かれてある。「死のブラックホールから依然として流出してくる何かがあり、それはもはやそれ自身に表現を与えることはできないが、命法的(imperatively)に私たちを苦しめる。私たちはどこへ逃れようとも、その支配からは振り解かれない。生きている者の顔(faces of the living)の中で、死が私たちに召命する(summon)。死の顔(faces of death)の中で、命法が私たちに向けられる」(Lingis 1994/2005a: 168/242)。

第四論点の核心は、この命法が、いかなる諸表面からいかなる形で向けられるかという点にある。そこで以下では、「命法的諸表面」の記述をベースにして、この問いに対する考察を行う。

上記引用部において示されているように、「顔において、死は可視的なものになる」とリンギスは言う。では、顔とはいかなる現れなのか。いかにして私たちに命法を与えるのか。

「生きられていない生は吟味するに値しない」の第五批判にあったように、私たちに命法を与えるのは知覚されたもの・エレメント・夜・死だった。死が最も深淵(abyss)からの命法なのだとすれば、それはより表面(surface)に近しいところから届けられる命法と言えるだろう。だとすれば、命法の探究は、知覚されたものの表面から徐々に深淵へと降りていく形を取ることになる。

「命法的諸表面」においてリンギスは、「顔」との関係を「奥行き知覚」(depth perception)、「表面知覚」(surface perception)、「表面接触」(surface contact)の3種類に分類している。

「奥行き知覚」とは、深みの-構造の剥き出しの表面(the exposed surface of depth-structure)として顔を知覚することを指す。例えば、「表面を波立たせる運動と眼の内部や皮膚の上で煌めく分泌液は、顔の筋肉が乱れ動くのを目立たせ、肉に嵌め込まれた腺や大脳から胴体・四肢にまで広がる神経繊維を触知せずとも正しく言い当てることを可能にする」(Ibid.)。

奥行きの「知覚」と言っても、奥行きそのものが目に見えているわけではない。そうではなく、表面に現れてくる諸々の運動から、私たちは不可視な「奥行き」の構造の働きを見通している。私たちの諸事物の表面の知覚は、この「奥行きの知覚」によって方向付けられている。つまり、単に私たちは表面を見ているのではなく、見通された「奥行き」の構造の働きに即して——構造からある意味で「命じられて」——知覚しているのである。

2つ目の「表面知覚」は、「他者の顔と記号が私たち自身の諸表面を私たちに知らせてくれる環境で、諸表面の位置や状態を知らせてくれる記号」(Ibid.)として顔を見ることである。

「表面知覚」における「表面」とは、単に事物や人の可視的な表面を意味するわけではない。それは「私たちの」諸表面であり、<私>と他者が対面するとき、その周囲の環境に広がって構成される諸表面である。「表面」が<私>と他者との間で共有される形で構成されることで、顔の記号としての意味(不審、驚き、無関心、不快、歓喜、興奮など)の共有が可能になるとリンギスは考えている。「私が最初に会話を始めるのは他人の顔を前にしてからであり、私自身の諸表面が最初に意味を表すようになるのも、他人の顔を前にしたとき」(Lingis 1994/2005a: 169/243)であるがゆえに、記号としての顔の意味作用は根源的な地位を持っている。

3点目の「表面接触」は、「表面知覚」とは対照的に、他者が<私>に顔を向けていないときにのみ生じる。他者が私と対面していないときにのみ、「私は造形された粘土の形を知覚するように頭蓋骨の形を知覚できるのであり、彫刻を施された木の物質性を知覚するように顔の表面のザラザラした肌の手触りや色合いを知覚することができる」(Lingis 1994/2005a: 169-170/244)。

つまり「表面接触」とは、顔の「肉感的な物質性」(carnal materiality)(Lingis 1994/2005a: 170/245)との接触を意味する。そしてこの肉感性は、そのエロティシズムによって私を誘い、「私が顔を向けることを要求しながら、私に向けて動作を開始」しつつ、それに先立って「まず世界の中で意味されていた形に対して動作を始める」(Ibid.)ような、「場」(the place)である。

「表面知覚」でもたらされる顔の記号は、「表面接触」される肉感性の場から到来する。顔の記号が、その内容を伝達する命法だとすれば、肉感性の場としての顔は、その記号を聴くように私に呼びかける命法と言えるだろう。

この肉感性は極めて両義的である。というのも、第三論点で述べた「祝福」と「呪い」の両義性としての喜びこそ、この肉感性の場としての顔に対して宛てられたものだからである。

物質の物質性、肉感性、現実性は、そのリアリティの力によって私を高揚させ、それらによって生きるように、それらを享受するように私を誘惑する。他方でそれらは、私の意味理解から常に逸脱する仕方で、私に応答を命じる。現実の現実性、<他者>の他者性は裸である=明け透けになることであり、これ以上ないほどの傷つきやすさがその表面に露出している。そのリアリティに魅了されている私は、その傷つきやすさから目を離せない。傷つきやすさそのものが命法となり、「私の顔に応ぜよ」と告げる。この申命は私にとって不可避なものであり、「表面知覚」における意味理解はこの不可避な応答責任から可能になっている。

以上の3つの顔の関係と、「生きられていない生は吟味するに値しない」で示されていた命法の4つの起源は、差し当たっては以下のように対応づけられる。

知覚されたものからの命法は、それが私たちの事物の知覚を方向付けるものである限り、「奥行きの知覚」における命法として理解できる。また「表面知覚」も「知覚されたものからの命法」として解釈できる。知覚されたものの命法は一つの意味理解であり、事物を対象とする場合は「奥行きの知覚」、人間的な情動や理性を対象とする場合は「表面知覚」からその命法を受け取ると考えられる。

図式的に見ると非常に歪だが、エレメント・夜・死の深淵からの命法は「表面接触」から得られる。「生きられていない生は吟味するに値しない」の第五批判に書かれてあった通り、「エレメント的なものは、それ自体として私たちを命法的に呼び出し、明るく、温かく、情熱的に、色欲的に、地上のものにさせる」。従って表面接触における誘惑の作用は、エレメンタルなものと解釈できる。

他方でそれは「夜」の中の出来事でもある。「表面接触」のみが、他の2つと違って「接触」と呼ばれているわけだが、この接触は「目的なき前進」(aimless advance)としての「愛撫」(caress)である。肉感的な物質性は、いかなる点でも意味づけされない生の物質性であり、触れることはできるものの、「Xであるもの」として知覚することはできない。向かうべき方角を失って、ただ目の前にある肉的物質を手でなぞる。この愛撫が、光を欠いた闇の中で行われることであることが、物質の物質性を証し立てている。

そして、この物質性が「夜」において私の生を高揚させるからこそ、反面でそれは「死」を、つまり明け透けにされた事物や出来事の裸性を、その傷つきやすさや苦悩を露出させる。私を魅了するエネルギーを持つ深淵であるからこそ、そのグロテスクな生、傷、苦しみは、私にとって絶対的な呪いとなり、命法となるのである。

第五論点の解題:命法に応答する=「喜ぶ」ことは「旅」になるのか

以上4つの論点の検討を通して、「生きられていない生は吟味するに値しない」の末尾に書かれてあった「生における多様な命法を聞き取り、その応答として「喜ぶ」こと」を「旅」として位置付けることができるだろうか。

第三論点で挙げた「臨終の喜び」の記述を素朴に読むと、「喜び」の「深淵への最終跳躍」が「旅」であると解釈できる。実際、この「最終跳躍」という表現が出てくる箇所では「そういった気持ちの高揚には、私たちをさらに高く、さらに高い崖へと、アンデス山脈やヒマラヤ山脈へと駆り立てる勢い(momentum)がある」(Lingis 2000/2004c: 161/254)と言われていた。

しかし、翻って「生きられていない生は吟味するに値しない」の記述を見直してみると、単に「最終跳躍=旅」とは位置付けられない記述がある。

「思想家は、パリ・ベルリン・東京・上海に旅行しても、何も得るものがない。会議や在外研究のために行くとしても、あなたが民主主義や市場経済について、キリスト教やイスラム教の原理主義やセンデロ・ルミノソ(ペルーの極左テロ組織)について、知的なコンセプチュアル・アートや俗的なマドンナについて、仮想現実や携帯電話について考えていることを考えている、教育を受けた人たちにしか出会わないだろう。

可能な限り月日をかけて旅行したり住んでみたりする価値がある唯一の場所は、イリアンジャヤ(ニューギニア島の西半分のインドネシア領地域)、カルカッタ、バングラデシュ、ラオス、ホンジュラス、ナイジェリア、ブータンである」(Lingis 2018: 185)(カッコ内は川崎)。

そういった場所はリンギスにとっては「文化が荒廃し、人々は貧困で、病にかかり、絶望しているような場所」(Ibid.)であり、そこに住むことは「危険や孤独や空腹や寒さに飛び込んでいくこと」(Ibid.)である。つまり、異邦・異国ならどこでも良いわけではなく、言ってみれば意味内容の疎通が難しく、生活が危機に瀕しているような場所でなくては「旅」としての価値はないのである。

チベット寺院での出来事から分かる通り「自分自身の屈辱(mortification)や不面目(humiliation)や傷(wound)を晒してみせる人物」との出会いがなければ、言語的次元に先立つコミュニケーションはないし、現実の現実性、<他者>の他者性に触れる「喜び」もあり得ない。そういった経験をするには、「安全で快適な場所」に止まるのではなく、むしろ自らを危険に曝す場所に旅をするのが有効であるという主張には一定の説得力があるように見える。

しかし、イリアンジャヤやカルカッタ、バングラデシュなどの場所を「文化が荒廃し、人々は貧困で、病にかかり、絶望しているような場所」と見なして旅に出ることは、その場所の現実にラベルをすることであり、「明け透けにする」という「喜び」の情動と根底から対立してしまう。裏を返せば、パリやベルリンや東京・上海であっても、死を告知する深淵への「最終跳躍」を可能にするような経験はありうるのではないかと考えることもできる。いずれにせよ、パリやベルリンには旅する価値がなく、イリアンジャヤやカルカッタにはその価値があると断定するのは難しいように思える。

理解が困難なリンギスのこの主張を理解するためには、第一論点で示した幸福と不快の「弱い感受性」を参照する必要がある。

私たちが日常的に暮らしている世界は、意味内容によって既に飽和しているが、そのような世界は私たちに複雑で膨大な知的調整を強いる。「あまりにも激しくあまりにも矛盾した情動が剣を交えるその戦場で、すっかり疲れてヘトヘトになる」(Lingis 2000/2004a: 71-75/121)。その疲労の中で、さまざまな不快感の中で、人は自らが必要とするものの欠乏を見出し、諸情報の同化吸収を通して満足感を得ようとする。こうして人は、自らと周囲の出来事や事物との間にイメージの壁を作り、外部の刺激を弱めて自らを守り、緩やかな幸福の飽和状態を維持することに努めるようになる。

「喜び」の情動によって生を生きられたものにするためには、意味内容に満たされていてはならない。周囲をみれば瞬時にどこにいるかが分かり、道標を追っていけば目的地に着いてしまうような環境では、人はそれらの意味内容と自らとの調整に明け暮れてしまう。

「喜び」の情動は、意味内容が生成される場、つまり知覚された事物・人・享受するエレメント・夜・死の深淵から命法を聞き取り、応答する場において生起する。逆にいえば、いかなる意味内容も最初は与えられていないような場においてのみ、そうした命法は聴取可能な声になる。だからこそリンギスは、日常的な意思疎通が不可能であり、文化も生活環境も経済状況も何もかもが「異邦」であるような環境へと「跳躍」することが「旅」であると主張したと考えられる。

「生きられていない生は吟味に値しない」の末尾でリンギスは、以下のように宣言していた。

「哲学にとって不可欠な仕事は、知覚された風景の中に、エレメント的なものの中に、夜の中に、死の深淵の中に、多様な命法を認識することである。そして、喜びの洞察力と決定力を、命法に従うこととして打ち出すことである」(Lingis 2018: 188)。

現実を知る営みの極限としての哲学は、その現実のリアリティから到来する命法を聞き取り、「喜び」の情動を通して応答すること——旅をすることである。だとすれば、哲学をし続けるということは旅をし続けることであり、圧倒的な力によって意味が生成される場に立ち会い続けることに他ならない。リンギスの哲学が「旅行記」(travelogue)として書かれているのは、旅をすることこそが哲学の営みだからであると、差し当たりは結論づけることができるだろう。

終わりに:私たちは既に旅に出る準備を始めてしまっている!

ここまで、「生きられていない生は吟味するに値しない」の内容を整理し、主要な論点に着いて関連著作の記述をベースに解題してきた。

しかし、ここまでの考察で「旅行記」としてのリンギスの哲学を十分に理解し尽くしたとは言い難い。というのも、ここまでの考察は「リンギスが書いていることの断片的な整理」でしかないからである。より具体的に言えば、私はまだリンギスのテキストから命法を受け取っていない。テキストに現前している意味内容を「調整」し、負担なく消化できるように体系化して満足感を得ているだけであり、いわば「弱い感受性」の自閉性に閉じこもってしまっている。第五論点で私は哲学における旅の重要性を説明したが、私自身は全く旅に出ていないのである。

リンギスを理解するとは、リンギスとともに旅をすることに他ならない。だとすればやるべきことは二つある。リンギスが歩んできた道を辿ること、そしてリンギスのように旅路へ歩を進めることである。前者は、リンギスと彼の思想的隣人たちとの関係・距離感を理解する営みであり、後者は、前者を踏まえてリンギスの固有なエネルギーを共有する営みである。

旅を始める準備として、前者の問いには真剣に向き合わなければならない。

第一論点と第三論点で主題として扱った「祝福」と「嘆き」としての情動の力についてはバタイユとニーチェを、第二論点の<他者>についてはレヴィナスとバタイユを、第四論点の「命法」はカント、メルロ=ポンティ、ハイデガー、レヴィナスを、第五論点の「旅」についてはドゥルーズ+ガタリを、上記の全てに関わる「死」に関してはソクラテス、ハイデガー、レヴィナス、バタイユ、ニーチェを最低限参照し、リンギスが彼らの哲学をどのように解釈し、どのように距離をとっているかを測り取らねばならない[10]

アメリカを中心として、リンギスの哲学を主題とした研究論文集が既にいくつも出版されている[11]とはいえ、特に日本においてはまだ彼の哲学の固有性が価値づけられているとは言い難い。彼の哲学の来し方を理解するためにも、そして彼自身の哲学の固有な価値を見出すためにも、この仕事は重要な意味を持つ。

他方で、リンギスと共に旅を始めることは、否定的な仕方(「リンギスは〜〜ではない」という主張)では捉えられない、より積極的な意味を持つ仕事である。しかし、リンギスの古くからの読者であるジャニス・マックレーンが言うように、「リンギスを真似ることは、彼の仕事の核心を究極的に失う」[12]ことになる。重要なのは「リンギスの」世界との出会いを精査することではなく、「私たち自身の」世界との出会いを精査することである。

とはいえ、リンギスの世界と私たち自身の世界は断絶しているわけではない。それは、私たちが同じ大地を共有しているという点においてもそうであるし、何よりリンギスが記す旅行記の中に、既に私たち自身も参与させられているのである。

リンギスの旅行記には、その場にいないはずの読者たる 「あなた」(you)が随所に登場する。この “you”は非人称のyouではなく、「読者や聴衆を指し示すのに用いている」[13]とリンギス自身が言及している。つまりリンギスは、自分の経験をそのまま書いているわけではない。自分の経験を、不特定多数の読者や聴衆に向けられたものとして解釈し、そのように書いているのである。リンギス研究の第一人者であるアレクサンダー・E・ホークとヴォルフガング・W・フックスが指摘しているように、「リンギスは、自分のエッセイの多くが友達への手紙として始まることを認めている」[14]

従って私たち読者は、彼の旅行記を読む時、自分自身もその旅行記の登場人物として読まなければならない。リンギスの経験は本の中の出来事なのではなく、読者自身の目の前で起こった出来事として理解されなければならない。

実際、スパロウが指摘するように「彼のテキストは、一人称、二人称、三人称の視点をしばしば切り替えるので、読者は、彼の物語によって自らが語り掛けられ、指し示されているのを見出す。彼の物語は詳細に書かれてあるが、同時にその意味を断続的に消失させる。[中略] そうした態度は、他者と接触しようとする時の、世界を旅している時に私たちが不可避に面する他性を感覚しようと足掻く時の、私たちのコミュニケーションの知覚的失敗をテキストの上での等価物である」[15]

リンギスのテキストは極めて断片的で、首尾一貫しておらず、読者を困惑した気分にさせる。しかしそれゆえに、リンギスのテキストには現実の現実性が、<他者>の他者性が露呈している。私たちはこのテキストを「表面接触」し、その魅力を享受しつつも、その肉感的な物質性・不明瞭さに迷い、苦しむ……言い換えれば、リンギスを読むことは「喜び」であり、旅の始まりなのである。

リンギスのテキストの物質的リアリティに触発され、その喜びのエネルギーに促されるとき、私たちは死の深淵に立っている。読めば読むほど、「最終跳躍」へと背中を押す力が強くなる。そしてついに旅へ飛び出すとき、私たちはもはや研究室の住人ではなくなる。リンギスのテキストの声に導かれながら、私たちは私たちの旅を始めるだろう。きっとそこで私たちは、タイピングシートの数を数えていたのに「ふと思い出したか、あるいは作り出したジョークに笑い転げてしまい、数のカウントを忘れてしまった」レジ係と、「お客さんにメニューを渡す前に、自分が聞いたばかりのジョークを客に教える」ウェイトレスと、「私が笑っている時に、とても巧みな技術で、私の口の中にキャンディを一粒投げ入れる」見窄らしい身なりのダンサー&シンガーと出会い、笑い、悲しみ、祝福し、嘆き、「生きる」ことになるだろう。

補論

今後の研究に向けて、本発表で触れた論点を踏まえた発展的問題をいくつか挙げておく。


l  情動について

Ø  情動(emotion)の力は、より具体的にはどのような仕方で作用するのか

²  情動が表象ではなく、その像を貫いた事物のリアリティそのものの力に対する力=応答であるのだとすれば、そこでは一体どのような応答がなされることになるのか。それは「弱い感受性」の働きから具体的にはどのように区別されるのか。

Ø  この「情動」という言葉は(関連語である「喜び」も含めて)、どのような思想的バックグラウンドを有しているのか。どういった背景を受けて、「情動」という言葉にこのような意味を持たせているのか。


l  <他者>について

Ø  他者が明け透けになるとすれば、それはもはや他「者」ではないのではないか。だとすれば、その不在の他者、力そのものと私たちはどのように関わるのか。

Ø  他者が「明け透け」になるとき、ともすると他者は私と一体化するようにも思える。それでもなお「他」であるのはいかなる点においてか。あるいは、なぜ「明け透け」になった他者を「他者」と呼ぶのか。

l  命法について

Ø  命法が、知覚されたものの表面と奥行きの知覚から、そしてそれらへの接触から聴き取られるのだとして、それはどのような形で聴取されるのか。

Ø  「命法的諸表面」においてリンギスは「イマニュエル・カント、マルティン・ハイデガー、エマニュエル・レヴィナスは、命法、死、他者がそれぞれ互いを示していることを理解していた。しかし、他者の姿の上で現された定言命法とそこで明かされた死は、これらの思想家によって異なった理解がなされていた」(Lingis 1994/2005: 177-178/257)と記している。ここに知覚の仕方についてリンギスが依拠しているメルロ=ポンティを加えた四者の議論を、リンギスはどのように整理して自らの主張を構築しているのか。

l  旅について

Ø  第五論点では、弱い感受性による幸福や不快ではなく、情動によって現実の現実性に触れるためには、意味内容によって既に飽和していないような異邦に身を置く必要があるのではないかと指摘した。しかしこの指摘はあくまで「異邦に身を置くこと」の意味の説明であり、「異邦に赴くこと」という移動の意味の説明にはなっていない。「情動」(e-motion)と「移動」(move)の語源的な強い関連を考慮すれば、旅について語るために必要なのはむしろ「移動」の説明になるはずである。だとすれば、それはどのように説明できるだろうか。

Ø  (↑上記に関連して)例えば「エレメンタルな身体」(『異邦の身体』所収)[16]においてリンギスは、ミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』(デフォー『ロビンソン・クルーソー』の変形譚)におけるロビンソンの旅について「幼少期へのあるいは原生の人間性への回帰ではなく、[中略] 肉体的な欲望が切望するものの彼方へと連れ出す」(Lingis 1994/2005b: 189/270)ものとして、そして「存在論的境域を超えたその場での旅を記し、リビドー的身体の変形の運命を発見する」(Lingis 1994/2005b: 189/271)ものとして評価している。ロビンソンの「過剰なエネルギー」としての欲望が、いかにして彼の身体を変形させていくのか。移動の旅路と共にある「リビドー的身体の変形の運命」を、私たちもまた発見しなければならない。





[1] Lingis, A. Sparrow, T. (ed.) (2018). The Alphonso Lingis Reader. University of Minnesota Press.

[2] Ibid., pp.183-188. 以下本論文引用時は、(Lingis 2018: ページ数)の形で表記。

[3] Lingis, A. (1984). Excesses: Eros and culture. State University of New York Press.

[4] Sparrow, T. (2018). Editor’s Introduction: A Philosopher of Transience. In The Alphonso Lingis Reader. University of Minnesota Press, p x.

[5] Sparrow (2018), p.xvii.

[6] Lingis, A. (2000). Blessings and Curses. In Dangerous Emotions. University of California Press, pp.67-83. リンギス、アルフォンソ(2004)「祝福と呪い」『汝の敵を愛せ』、中村裕子訳、洛北出版、109-133頁。以下本論文引用時は、(Lingis 2000/2004a: 原典ページ数/邦訳ページ数)で示す。

[7] Lingis, A. (2000). Violations. In Dangerous Emotions. University of California Press, pp.85-101. リンギス、アルフォンソ(2004)「侵害」『汝の敵を愛せ』、中村裕子訳、洛北出版、137-163頁。以下本論文引用時は、(Lingis 2000/2004b: 原典ページ数/邦訳ページ数)で示す。

[8] Lingis, A. (2000). Joy in Dying. In Dangerous Emotions. University of California Press, pp.159-171. リンギス、アルフォンソ(2004)「臨終の喜び」『汝の敵を愛せ』、中村裕子訳、洛北出版、251-267頁。以下本論文引用時は、(Lingis 2000/2004c: 原典ページ数/邦訳ページ数)で示す。

[9] Lingis, A. (1994). Imperative Surfaces. In Foreign Bodies. Routledge, pp.167-185. リンギス、アルフォンソ(2005)「命法的諸表面」『異邦の身体』、松本潤一郎・笹田恭史・杉本隆久訳、洛北出版、240-269頁。以下本論文引用時は、(Lingis 1994/2005a: 原典ページ数/邦訳ページ数)で示す。

[10] 後述のホークとフックスによれば、リンギスはレヴィナスとメルロ=ポンティ以外に、大陸思想としてはバタイユ、ハイデガー、フーコー、ミシェル=ド・セルトー、ドゥルーズ、フッサール、ニーチェ、そして英米思想としてはヒラリー・パトナム、バーナード・ウィリアムズ、ファイヤアーベントから影響を受けている(Hooke, E. Alexander., Fuchs,W. Wolfgang. (2003) Introduction. In Encounters with Alphonso Lingis. Lexington Books, p ix, xi.

[11] 以下に代表的な文献を挙げる。

Bobby George, T. (1993). Itinerant Philosophy: On Alphonso Lingis. Punktum books.

Hooke, A. E., & Fuchs, W. W. (Eds.). (2003). Encounters with Alphonso Lingis. Lexington Books.

Wheeler, R., Ashbaugh, A., Fuchs, W. W., Harman, G., Hooke, A. E., Lingis, A., ... & Sugarman, R. I. (2016). Passion in Philosophy: Essays in Honor of Alphonso Lingis. Rowman & Littlefield.

Hooke, A. E. (2019). Alphonso Lingis and Existential Genealogy: The First Full Length Study Of The Work Of Alphonso Lingis. John Hunt Publishing.

[12] Maclane, J. (2003) Encounter the World, Keep a Clear Eye. In Encounters with Alphonso Lingis. Lexington Books, p60.

[13] Zournazi, M. (2003) Foreign Bodies: Interview with Alphonso Lingis (1996). In Encounters with Alphonso Lingis. Lexington Books, p86.

[14] Hooke, E. Alexander., Fuchs, W. Wolfgang. (2003) Introduction. In Encounters with Alphonso Lingis. Lexington Books, p xii.

[15] Sparrow, T. (2018). Editor’s Introduction: A Philosopher of Transience. In The Alphonso Lingis Reader. University of Minnesota Press, p xiv.

[16] [16] Lingis, A. (1994). Elemental bodies. In Foreign Bodies. Routledge, pp.189-212. リンギス、アルフォンソ(2005)「命法的諸表面」『異邦の身体』、松本潤一郎・笹田恭史・杉本隆久訳、洛北出版、270-307頁。以下本論文引用時は、(Lingis 1994/2005b: 原典ページ数/邦訳ページ数)で示す。


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