見出し画像

阪神淡路大震災から26年

もう26年も経ってしまってたんですね。
わりかし大震災と縁のある会社で今働いているので、会社から缶詰を貰いました。

26年前私は神戸の2つ隣の市に住んでいて、そこから神戸の北隣くらいにある短大に通ってました。なので、被災者と言うには少し距離がある立ち位置です。

ライフラインはきちんと揃っていたし、スーパーも品薄にはなっていたけれど買い物ができた。そんな感じの地域でした。

ただ学校の位置的に神戸から通っている子が多かったので、色々と話を聞いたりできる範囲で支援したりしていました。

まず震災の時はどうしていたかと言うと、寝てました(そりゃそうだ…)
当時は天性の楽天家だったので、揺れて本棚から本が降っていても布団をかぶってれば数分だ。今は眠気の方が勝つなどとのたまい寝てました。
寝るつもりでしたが正しいか…。
結局寝れませんでした、当時認知症になりかけだった祖母がダッシュで玄関から走り出したの追えと母から命令が出て追っかけてました。

そこから、テレビを「震度が出ないなぁ」「神戸の地元局の番組がちらし寿司の料理番組?」と不思議に思いながら見ていました。
今考えると、被害が深刻過ぎて放送ができなかったんだな、それほど深刻な事態だったんだと理解できるのですが、当時はそれが思いつきませんでした。

しばらくして学校の友達から電話が鳴って、学校の近くの合同下宿が停電で何の情報もないことを知りました。見ていたテレビの情報を少しずつ伝え、漠然と不安な気持ちになっていました。学校今日あるのかな? まだそんなことを考える余裕がありました。

そこから1時間2時間経ち、シャレにならんくらいの被害を映像で見せられて、ボーゼンとしました。

仲の良い友達には全く電話がつながらないし、遠くに住んでいる親戚からは家に電話がかかってきて安否確認をされ、とにかくずっと電話を触っていた記憶があります。

そこからはただただ忙しかったです。
当時は学校はしっかり休みになってしまい、ガソリンスタンドでアルバイトをしていたので、支援物資を運ぶ人に抜ける道を聞かれたり、品切れのポリタンクの入荷未定をずっと説明してました。

神戸に住んでいた親戚は、一時的避難場所として家に来てお風呂に入ったり、近所のスーパーで必要なものを買い足し、避難所に帰って行ったりしていました。
近所のスーパーも朝入り口に人が並んで、日持ちしそうなカップラーメンやパンを抱え込んでレジに並ぶ人がたくさんいました。

当時私は大阪に住んでいる人と遠距離恋愛をしていたので、交通網が途切れたことでなかなか苦労して会いに行っていました。
行けるところまで電車に乗って、そこからバスに乗り換えて、バスからまた電車に乗り換えて冬の寒い中に乗れるバスを待っている時に見える神戸の風景に心を痛めていました。
そんな中でカイロを配っている某宗教団体と反社会的勢力の人たちには普段はうわぁ…って思うけどあの時だけは感謝しました。

初めて電車に乗った時は、知ってる街のあまりの惨状に持っていた吊革から落ちるほどの手汗をかいていました。

何かこれを書いてても思い出してちょっと辛くなります。いろんなものも混じった少し焦げ臭い匂いと知っているものがなくなって映画のシーンのようになってしまっている惨状がどうしても信じられませんでした。

数年して少しずつ復興が始まってきれいになっていく神戸の街を見ながら、忘れてしまったらあかんって思ったことだけは記憶に残っています。

あと、三宮で5000円でホットドックを売っていたやつだけは死んだらいいのにといまだに思います。

そんなこんなで、がっつり被災者って言うわけではないけれど、ほんの少し巻き込まれた学生としては、防災情報やグッズは本当に確認しておくべきだとと切実に思います。