抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(8)

「本日は誠にありがとうございました。ご検討をよろしくお願いします」
機械の稼働音が大きい上、藤原がぼそぼそとしゃべるのでいまいち聞き取れない部分はあったが、概ねデモンストレーションは滞りなく終わった。ショールームの出入口で木村と藤原が深々と頭を下げ、脇内と宇都宮を見送った。小倉に帰ろうと思えば帰れる時間だった。終了時間が読めなかったため、ビジネスホテルの予約はしていた。明日は昼からの出勤で良いと会社からの了承も得ていた。

「接待に誘われるかと思ってたけど、拍子抜けだったな」脇内がスマホをいじりながら言った。
「まあ、まだ買ってませんからね」宇都宮はそのような席での振る舞いが苦手だったので、内心ホッとしていた。
「飯食ってキャバクラ行こうぜ!」脇内はキャバクラが大好きだった。
「いやあ、苦手なんで」
「なんで、ここ、大阪だぜ!」
「はい、大阪ですね」
「大阪来たらキャバクラ行くだろう!」脇内にとって大阪と言えばキャバクラだった。
「いや、行きません」宇都宮には大阪とキャバクラの因果関係がわからなかった。
「嫌いなの、女の子?」
「いや、女の子は好きです」
「じゃ行こうぜ、キャバクラ!」脇内にとっては何県でもキャバクラなのだった。
「初対面の女の子と話すのが苦手なんです」
「誰だって最初は初対面だよ。行こうぜキャバクラ!」
「金もないんで、すいません」
「つまんねえ!」脇内は傘をアスファルトに打ちつけた。雨はやんでいた。

ショールームから歩いて数分のビジネスホテルにチェックインした。脇内は三階、宇都宮は四階の部屋だった。エレベーターが三階に到着した時、「じゃあ、ここからは別行動で。俺、キャバクラ行くから。明日8時にフロントで!」と脇内は軽い足取りでエレベーターを降りて行った。奥さんと子どもから解放され、脇内は羽を伸ばす気満々だった。なんだかんだ言いつつ、脇内はうまくやっている。
部屋に入って荷物を置き、ベッドに腰掛け、宇都宮はマサミ姉ちゃんに電話をしてみた。マサミ姉ちゃんが電話に出なかったら、どこか適当な所で飯を食い、そのまま北九州に帰ろうと思っていた。
マサミ姉ちゃんは宇都宮の従姉妹で、母のお姉さんの娘だった。伯母さんはどこで知り合ったのか知らないが、岡山の男の人と結婚した。なのでマサミ姉ちゃんと会うのも、伯母さんが福岡に帰省してくる年に一回か二回だけだった。マサミ姉ちゃんは初めて会った時から瓶底のようなメガネをかけていた。近視と乱視が両方入っていると言っていた。子どもの頃はヤンチャで、宇都宮と隆広を連れて近所の駄菓子屋で爆竹を買って公園で鳴らしまくり、スキンヘッドのおっさんに怒鳴り散らされた。宇都宮と隆広は大泣きしたが、マサミ姉ちゃんは「じゃあ爆竹はどこで鳴らしゃええんなら!」とおっさんに負けず文句を言った。

宇都宮も小学生の頃に一度だけ、マサミ姉ちゃんのうちに遊びに行った。冬休みか何かで、マサミ姉ちゃんは風邪をひいてずっと寝ていた。宇都宮はマサミ姉ちゃんと遊びたくて、寝室の付近をちょろちょろと歩き回っていたので、マサミ姉ちゃんも仕方なく、布団の中から宇都宮に話しかけてくれた。熱があったからだが、マサミ姉ちゃんの顔は上気して色っぽかった。宇都宮が初めて、異性として女性を意識したのがマサミ姉ちゃんだった。
マサミ姉ちゃんは中学生になった頃から、宇都宮の家に遊びに来なくなった。宇都宮は誕生日やクリスマスのイベントごとと同じくらい、マサミ姉ちゃんと遊ぶのを楽しみにしていたので残念だった。
マサミ姉ちゃんが高校を卒業してすぐ、伯母さんと伯父さんは離婚して、伯母さんは岡山を出て北海道に移住し、牧場に併設された食堂に住み込みで働いた。調理場勤務として雇われたにも関わらず牛やニワトリの世話もした。マサミ姉ちゃんは大阪の芸大に合格し、一人暮らしを始めた。
宇都宮も受験の際、大阪の大学を志望しており、数年ぶりにマサミ姉ちゃんに会った。世間知らずの息子を大阪のような大きな街に一人で行かせるのが不安だったのか、母がマサミ姉ちゃんに連絡を取り、よろしくお願いしていたのだ。宿泊するホテルの前で待ち合わせたマサミ姉ちゃんはすっかり大人の女性になっており、宇都宮はどぎまぎした。メガネではなくコンタクトをしていた。宇都宮は自分のことを急に幼く感じた。ホテルに荷物を置き、ご飯を食べに大阪の街を歩いた。マサミ姉ちゃんは煙草を吸い、道端に捨てた。どこで何を食べたのかさっぱり覚えていないが、マサミ姉ちゃんが大学の落研に所属して変な高座名を名乗っていることや、彼氏がテレビゲームか何かのデザイナーで格闘ゲームに自分がモデルのキャラクターが出ていることなど、しゃべった内容はよく覚えていた。あと宇都宮に彼女はできたのかと根掘り葉掘り聞かれた。岡山弁は抜けていなかったが、知らない人みたいだった。宇都宮は、街とマサミ姉ちゃんの都会的な雰囲気に飲まれてふわふわした。大阪の大学は落ちた。
それからまたしばらく会っていなかったが、マサミ姉ちゃんから結婚式の招待状が届き、出席した。式には伯父さんと、再婚した奥さんが親族として出席しており、伯母さんの姿はなかった。席次表に宇都宮は従兄弟ではなく友人として表記されており、マサミ姉ちゃんも伯父さんも普通に話しかけてくれたがなんだか複雑だった。旦那さんはゲームデザイナーではなく国土交通省の公務員だった。実家は軽井沢の避暑地で土産物を売っているらしく、自分も将来的には軽井沢に行くだろう、とマサミ姉ちゃんは言っていた。それが去年の春のことで、今年に入ってすぐ、マサミ姉ちゃんは離婚した。軽井沢にも行っていない。

マサミ姉ちゃんは電話に出なかった。宇都宮は電話を切り、便所で小便をし、荷物を持ってエレベーターを降りて、フロントにカードキーを置いて「チェックアウトします」と言った。フロントの男は「え?」という顔をした。チェックインしてから10分も経っていない。
「……お部屋がお気に召しませんでしたでしょうか」フロントの男が言った。
「いや、そういうわけじゃないんですが」
「では、キャンセルということで?」
「いや、普通に、宿泊したってことでかまいません」どうせ会社の金だった。それに脇内は宿泊するのに宇都宮だけキャンセルすると、後々ややこしいことになる。
「……本当によろしいのでしょうか」
「はい。便所、使いましたし」
「……はあ」フロントの男は腑に落ちない顔をしていた。
「ちょっと用事ができて、帰りますので」用事がないから帰るのだった。料金を支払い、ホテルを出た。

駅までぷらぷら歩きながら、脇内に何と言おうか考えた。「ハムスターのことが気になるので」と言うことにした。ハムスターには多めにエサを用意してきたのでおそらく大丈夫だったが、他に理由が思い浮かばなかった。途中、ホテルに傘を忘れてきたことに気付いたが、まあいいかと思い、そのまま電車に乗った。
新大阪で新幹線の改札をくぐり、パスタのお店に入った。昼間、藤原を見てパスタだとかゴボウだとか考えたので、パスタにしたのだった。ミートスパゲティとコーラを注文した。大阪らしさゼロだった。
宇都宮はミートスパゲティが好きでよく食べるのだが、必ずと言っていいほど服にミートソースを散らす。今回も当然のようにシャツに散った。まあ、あとは帰って寝るだけなので、盛大にまき散らしながらパスタをすすった。
コーラを一口飲んでスマホを見ると、マサミ姉ちゃんから着信が入っていた。宇都宮は急いでかけ直した。
「……もしもし、」マサミ姉ちゃんが電話に出た。
「あ、もしもし、」
「……もしもし?」
「もしもし、あ、俺、」
「あれ……、もしもーし?」
「え、もしもし、もしもーし、」
「もしもーし……、あれ、聞こえない、」どうやら通話の接続がうまくいっていないらしく、宇都宮にはマサミ姉ちゃんの声が聞こえるのだが、マサミ姉ちゃんには宇都宮の声は聞こえていないようだった。
「もしもーし、もしもーし、」宇都宮は声を大きくした。電話同士の接続に問題があるのに、声の大きさを変えた所で意味はないのだった。パスタ屋の客がちらちらと宇都宮を見た。
電話からバン、バンと音がした。マサミ姉ちゃんが電話を叩いていた。接続に問題があるのに、叩いた所で意味はないのだった。
「もしもーし、マサミ姉ちゃん? もしもーし、」
「(バン、バン)もしもーし、」
「もしもーし、」
「セイヤ?」
「おん、俺」叩いたらつながった。
「……もしもーし、」
「あれ、もしもーし?」つながっていなかった。
「もしもーし、もしもーし、」
「これ、一回切った方がよくない?」
「もしもーし、セイヤ? もしもーし、」
「一回切るよ、姉ちゃん」
「……っかしいな、もしもーし、」
「もしもーし、もしもーし、」宇都宮の声がさらに大きくなった。店員の目線が気になり始めた。
「もしもーし、(バン、バン)」
「姉ちゃん、一回、一回切るから」
「(バン、バン)もしもーし、」
「もしもーし、切りますよ、姉ちゃん」
「もしもーし……、っかしいな……」マサミ姉ちゃんに電話を切られた。宇都宮は右手にフォーク、左手にスマホを持っていた。パスタはあと三口分くらい残っていた。急いでパスタをほおばると、またマサミ姉ちゃんから電話がかかってきた。
「もしもーし、セイヤ?」
「……」パスタで口の中がもごもごし過ぎて、宇都宮はしゃべれないのだった。
「あっれ、もしもーし、もしもーし(バン、バン)」
マサミ姉ちゃんはまた接続がうまくいっていないと思っている。宇都宮はほとんど噛んでいないパスタをコーラで流し込んだ。
「……ゲホっ、もしもし、」
「あ、もしもし?」
「もしも……、ゲホっ、ゲホン……」宇都宮はコーラでむせた。
「……え、何、大丈夫?」
「ゲホ、もし、ゲホン……」
「……かけ直そうか?」
「ゲホ、大丈夫……」
「……セイヤよね?」
「……おん、俺」
「あ、よかった、つながったわ」
「うん、よかった」本当によかった。
「どうした?」
「あ、マサミ姉ちゃん、仕事?」
「なんかセイヤ久しぶり」
「うん、姉ちゃん仕事?」
「え、いつぶり? 一年ぶりくらい?」
「一年ぶりくらいだね。姉ちゃん仕事?」
「ていうかそんな連絡取らんから、いつも久しぶりじゃわな。あはは」
「姉ちゃん、仕事は?」電話は接続しても、会話の接続がうまくいっていなかった。
「え、仕事、さっき終わったけど」
「そう。俺、今日大阪なんだ」
「へえ、そうなの」
「大阪なんだ。会わない?」
「何、観光?」
「いや、仕事」
「じゃダメじゃん」
「もう終わった。今から会えない?」
「ええよ」

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