【読書】アイヌと縄文 ーーもうひとつの日本の歴史
概要
狩猟を主とした縄文人は、稲作技術の伝来と共に農耕を主とする弥生人へ変貌した。しかしその時代に農耕を行わず狩猟での生活を継続した人達がアイヌの祖先である。つまりアイヌは縄文人の正統な末裔である。本書では、縄文時代以降の北海道の文化及び本州や大陸との交流の変遷について述べている。
北海道と本州の文化は縄文時代終焉とともに分岐したため、それ以降の時代名称が異なる。以下に時代名称の一覧を本書より引用する。
北海道の考古学年表(本書より引用)
用語
続縄文時代
本州の弥生時代・古墳時代に並行する時代。弥生文化に影響される形で続縄文文化が成立した。卜骨による占い文化を本州から取り入れた。道南では銛頭や擬似餌などが発展し、海獣狩猟・海底魚漁が発達した。
擦文時代
本州の奈良・平安時代に並行する時代。本州の農耕民の文化に影響される形で擦文文化が成立した。住居はカマドを持つ深さ1メートルほどの竪穴式、土器は表面を板で撫でつけた擦文土器になった。交易が活発化し農耕も行われた。
ニブタニ時代
本州の鎌倉時代以降に並行する時代。本州に影響される形でニブタニ文化が成立した。住居は平面式、土器はなくなり鉄鍋と漆器が使われるようになった。ニブタニ時代のアイヌは鮭、オオワシなどの交易品生産者であると同時に本州と北東アジアを結ぶ交易中継者でもあった。和人が北海道に進出し、アイヌと対立、支配していった。
(ニブタニ文化は一般にはアイヌ文化とも呼ばれる。)
オホーツク文化
続縄文時代に樺太から進出してきたオホーツク人の文化。道北で発展し、海獣狩猟・漁業に特化していた。大陸の靺鞨文化と深い関係があった。最終的に擦文文化に吸収された。
トビニタイ文化
オホーツク文化が変容して成立した折衷文化。オホーツク人は、擦文人に押される形で居住範囲が狭まった(道北全域→根室海峡・南千島)。オホーツク人の居住地域は海岸沿いから内陸へ移動した。
へーと思ったポイント(長いよ!)
・縄文時代にはヒスイや漆などの"自給できないが必要なもの"や祭祀道具が列島各地に流通しており、縄文イデオロギーが共有されていた。
・縄文時代には猪を焼く祭りが列島各地で行われていた。猪が生息していない北海道からも猪の骨が出土している。
・日本列島周辺に集中する孤立語(日本語、アイヌ語、朝鮮語、ニヴフ語)は、かなり古い時代に繋がっていた(言語学者 松本克己による説)。
・万葉集の東国歌、防人歌、肥前風土記にアイヌ語からの借用語が見られる。
・弥生時代に入ると、貝の腕輪や卜骨などが道内を含む列島で流通するようになり、それらの宝が続縄文人の階層化をもたらした。
・古墳時代には続縄文人は本州の仙台平野〜新潟平野あたりまで南下し、古墳時代の人と続縄文人が共存していた。
・古墳時代ごろ北海道から石器がなくなり鉄器が激増した。本州との交易で入手したもの。
・続縄文人の南下と同時にオホーツク人が北海道へ南下してきた。
・道南まで進出したオホーツク人はヤマト王権からは粛慎と呼ばれ、ヤマト王権の遠征で攻撃された(日本書紀より)。
・北海道の人々の生業が狩猟から交易に変わり、続縄文時代から擦文時代に移行した。
・東北北部の人々(雑穀栽培を行う人々。続縄文人ではない)は道央(石狩)に移住し、国家の支配に抵抗してエミシと呼ばれるようになった。
・本州からの移住者の影響を受けて、続縄文人の文化は変容した(カマドを持つ竪穴住居、文様を持たない土師器)。
・十世紀以降、オオワシの尾羽、アシカの毛皮、干しアワビなどが交易品として流通した。
・道北、道東、北千島に進出していたオホーツク人は全道に再進出した擦文人に吸収・同化されていった。
・道東の擦文人には、オホーツク文化の特徴(樹皮葺き屋根、竪穴の隅に斜めに空いたカマド、大陸タイプのオオムギ栽培)が見られた。
・日本海沿岸は本州と樺太を繋ぐ大動脈であり、十一世紀末にいち早くニブタニ文化(アイヌ文化)への変容をとげた。全道では十二世紀末から十三世紀初頭まで擦文文化が継続した。
・サハリンアイヌにはミイラ文化があった。首長が死ぬと内臓を抜き戸外に安置して、女が毎日拭き清めた。1年後遺体が綺麗なら女は褒美を与えられ、腐っていれば女は殺されて一緒に葬られた。
・このような人工的にミイラを作成する文化は周辺地域にはない(自然ミイラは即身仏として例あり)。
・藤原四代のミイラとの関連があるのでは?といわれたが藤原四代のミイラは内臓を抜いておらず自然ミイラと思われる。
・サハリンアイヌの棺の装飾は、本州の神社建築の「千木」とよく似ている。
・古代日本には遺体を埋葬せずモヤ(喪屋)という建物に長期間安置するモガリという風習があった。北海道でも同様の風習が縄文時代〜中世まで確認されている。
・奄美では近年までモガリに似た風習があった。
・アイヌは交易を行なっていたが物々交換を行うことは避けた。この形式はアイヌ社会の結束を高めるためだったと考えられる。
・チャシには獣の解体に使われたものがあった。聖域であるチャシで解体を行うことは、本来神である獣を和人交易用の商品とするための"無縁化"の意味があると考えられる。
感想
従来私の中でアイヌは"和人に居住地を荒らされ、虐げられ、同化させられた少数民族"という認識だった。現代においては保護されるべき少数民族。確かにその認識は政治的には正しいかもしれない。しかしそれだけだった。
それに対して、"縄文文化を継承する民族"という言葉のなんとロマン溢れることか! これを知った瞬間、私にとってアイヌは単なる隣人ではなく、遥か昔に異なる道へと別れた兄弟になった。
日本語は他言語との系統関係が不明な言語である。これはアイヌ語・朝鮮語も同様だ。どういった言語から進化してきたのか分からないのだ。インドとヨーロッパのほとんどの言語が、インド・ヨーロッパ語族として系統関係が明らかになっているのとは対照的である。我々の文化的な祖先はいつどこから来たのか。その疑問には本書は残念ながら答えてくれない。しかし謎解きの一片だけでも垣間見せてくれるロマン溢れる旅だった。
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