人的資本経営:日本企業はどこに向かうべきか? Cranet Survey から読み解く国際比較と日本企業の特徴
はじめに
近年、ビジネスの世界で「人的資本経営」という言葉を耳にすることが増えました。これは、従業員を「コスト」ではなく、企業の成長を支える「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで企業価値を高める経営手法です。
研究概要
本稿では、古沢昌之氏と谷口智彦氏による論文「人的資本経営に関する一考察 - Cranet Survey に基づく6ヵ国の比較研究 -」を参考に、人的資本経営の現状と課題、そして日本企業の進むべき方向性について、より詳細に解説していきます。
この論文では、国際的な人事管理調査である Cranet Survey のデータを用いて、日本、中国、イギリス、ドイツ、アメリカ、カナダの6ヵ国の民間企業における人的資本経営を比較分析しています。
結論
主な結論として、日本企業は欧米諸国に比べて、人的資本経営の導入において遅れが見られることが指摘されています。特に、経営戦略と人事戦略の連動、人事部門の経営への関与、人材育成への投資、人事情報システムの活用などの面で課題が多いようです。
研究方法
Cranet Survey は、世界38ヵ国、5,899の組織を対象とした人事管理に関する国際比較調査です。この調査では、求人・採用、教育・訓練、賃金・福利厚生、労使関係、人事部門など、多岐にわたる質問項目が設定されています。
第1章 はじめに
要約
企業の価値において、目に見える資産(有形資産)だけでなく、目に見えない資産(無形資産)の重要性が増しています。その中でも特に、「人的資本」への関心が高まっています。人的資本とは、従業員の知識、スキル、経験、能力など、企業の価値創造に貢献する能力を指します。
従来の日本企業は、終身雇用や年功序列を前提とした人材管理を行ってきました。しかし、グローバル化や技術革新の進展に伴い、企業は変化への対応力や競争力を強化するために、従業員の能力を最大限に引き出す必要性に迫られています。
そこで注目されているのが「人的資本経営」です。人的資本経営とは、人材を「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方を指します。
第2章 文献レビュー
要約
この章では、先行研究をレビューすることで、人的資本および人的資本経営の定義、その背景、そして日本における現状について整理しています。
人的資本:従業員の知識、スキル、能力、経験など、企業の価値創造に貢献するものを指します。
人的資本経営:人材を「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営手法を指します。
人的資本経営が求められる背景としては、企業価値における無形資産の重要性が高まっていることが挙げられます。アメリカのS&P500企業を例に挙げると、時価総額全体に占める無形資産の割合は、1975年には17%でしたが、2020年には90%にまで上昇しています。
日本企業は、長らく終身雇用を前提とした人材管理を行ってきましたが、近年では、人材への投資不足が競争力や収益力の低下を招いているとの指摘もあります。
詳細な解説
この章では、まず「人的資本」と「人的資本経営」の定義について、様々な学者の見解を比較検討しながら、その概念を明確化しています。
次に、人的資本経営が注目されるようになった背景として、以下の3つの要因を挙げています。
知識経済化社会の進展: 知識や情報が経済活動の重要な資源となる中で、従業員の持つ知識やスキルが企業の競争力を左右するようになりました。
グローバル化の進展: グローバル競争が激化する中で、企業は優秀な人材を獲得・育成し、グローバルな視点で事業を展開していく必要性が高まりました。
企業の社会的責任の重視: 企業は、従業員の働きがいを高め、人権を尊重し、社会に貢献する責任を負っています。
これらの要因により、企業は人材を「コスト」ではなく「資本」と捉え、戦略的に投資していく必要性が高まっています。
しかし、日本企業は、伝統的な終身雇用制度や年功序列制度の影響から、人材の流動性が低く、人材育成への投資も不足している傾向があります。また、人事部門の役割も、採用や給与計算といった管理業務に偏っていることが多く、経営戦略への貢献が十分とは言えない状況です。
具体的な事例
論文では、日本企業における人材への投資不足の実態として、経済産業省が2019年に実施した「企業活動基本調査」の結果を引用しています。
この調査によると、従業員一人当たり年間教育訓練費は、日本企業は約12万円で、アメリカ企業の約36万円、イギリス企業の約24万円に比べて大幅に低いことが明らかになっています。
また、人材の流動性についても、OECDのデータによると、日本の転職率は3.2%で、OECD加盟国平均の7.9%を大きく下回っています。
第3章 実証研究報告: Cranet Survey のデータに基づいて
要約
この章では、Cranet Survey のデータを用いて、6ヵ国の民間企業における人的資本経営の現状を比較分析しています。分析対象は、G7に加盟する先進国である日本、イギリス、ドイツ、アメリカ、カナダ、そして新興国の代表格である中国です。
詳細な解説
Cranet Survey は、世界各国の人事管理の実態を調査する国際的なプロジェクトです。この調査では、企業規模や業種別に、人事管理に関する様々な質問項目が設定されています。
分析結果
分析の結果、以下のような点が明らかになりました。
人事部門の地位: 人事部門の責任者が取締役またはそれと同等の役職に就任している企業の割合は、ドイツが100%と最も高く、次いでイギリスが93.2%でした。日本は68.0%で5位、中国は62.2%で最下位という結果でした。
また、人事部門の責任者の登用元については、イギリスでは自社の人事部門からの登用が67.1%と最も高かったのに対し、中国とアメリカでは31.4と低くなりました。日本は、社内からの登用が85.4%と最も高く、終身雇用的な慣行の影響が示唆されました。 * さらに、人事部門の責任者が経営会議に「常に参加する」と回答した企業の割合は、イギリスが最も高く85.5%、次いでアメリカが78.6%でした。一方、日本は52.0%と、6ヵ国中最低という結果でした。
人事戦略の策定: 経営戦略や人事戦略などを明文化している企業の割合は、イギリス、アメリカ、カナダで高く、中国で低い傾向が見られました。日本は、これらの項目でいずれも3位以内に入らず、明文化が遅れていることが示唆されました。
具体的には、「経営戦略を明文化している」と回答した企業の割合は、イギリスが96.6%と最も高く、次いでアメリカが89.3%、カナダが82.4%でした。一方、日本は74.0%で4位、中国は58.8%で最下位という結果でした。
「人事戦略を明文化している」と回答した企業の割合も、イギリスが93.2%と最も高く、次いでアメリカが85.9%、カナダが79.0%でした。日本は68.0%で4位、中国は47.1%で最下位という結果でした。
人事部門の役割: 人事部門の経営への関与については、日本企業は欧米企業と大きな差は見られませんでした。しかし、M&A関連の事象に関しては、日本企業の人事部門の関与度は低い傾向が見られました。
例えば、「新製品・サービス開発」や「事業の再構築」といった経営課題への人事部門の関与度は、6ヵ国間で大きな差はありませんでした。しかし、「企業買収」や「事業の売却」といったM&A関連の事象への関与度は、日本企業が他の5ヵ国に比べて低い傾向が見られました。
また、人事施策の意思決定における人事部門の責任については、日本企業は5項目全てで「人事部門が責任を負う」が最多となり、ライン部門との連携が相対的に少ない可能性が示唆されました。
具体的には、「採用」や「教育訓練」といった人事施策について、「人事部門が単独で責任を負う」と回答した企業の割合が、日本は他の5ヵ国に比べて高い傾向が見られました。
人材育成: 教育・訓練の必要性や効果を測定している企業の割合は、イギリスが最も高く、日本は最下位でした。
例えば、「従業員の教育訓練ニーズを定期的に評価している」と回答した企業の割合は、イギリスが89.7%と最も高く、次いでカナダが79.0%、アメリカが75.3%でした。一方、日本は52.0%と、6ヵ国中最低という結果でした。
また、「教育訓練の効果を測定している」と回答した企業の割合も、イギリスが72.6%と最も高く、次いでカナダが64.7%、アメリカが61.0%でした。日本は45.3%と、6ヵ国中最低という結果でした。
人事情報システムの活用: 人事情報システムやピープルアナリティクスの活用についても、日本は低い傾向が見られました。
「人事情報システムを導入している」と回答した企業の割合は、6ヵ国全てで90%を超えていましたが、「人事情報システムを活用して、従業員のスキルや能力を分析している」と回答した企業の割合は、イギリスが62.9%と最も高く、次いでアメリカが54.3%、カナダが47.1%でした。一方、日本は35.3%と、6ヵ国中最低という結果でした。
さらに、「ピープルアナリティクスを活用している」と回答した企業の割合も、イギリスが39.7%と最も高く、次いでアメリカが34.3%、カナダが23.5%でした。日本は17.6%と、6ヵ国中最低という結果でした。
考察
これらの分析結果から、日本企業は人的資本経営の導入において、欧米諸国に比べて遅れが見られる可能性が示唆されました。特に、人材育成への投資や人事情報システムの活用、そしてライン部門との連携といった面で課題が多いようです。
具体的な課題
人材育成への投資不足: 日本企業は、欧米諸国に比べて、従業員一人当たり年間教育訓練費が低い傾向があります。また、教育訓練の必要性や効果を測定している企業の割合も低く、人材育成に対する意識が低い可能性があります。
人事情報システムの活用不足: 人事情報システムを導入している企業は多いものの、その活用は進んでいません。特に、従業員のスキルや能力を分析したり、ピープルアナリティクスを活用したりするなど、データに基づいた人材管理が行われていない可能性があります。
ライン部門との連携不足: 人事施策の意思決定において、人事部門が単独で責任を負う傾向が強く、ライン部門との連携が不足している可能性があります。
日本企業は、伝統的な終身雇用制度の影響から、人材を「コスト」として捉えがちで、人材への投資や能力開発が十分に行われていない可能性があります。また、人事部門の役割も、社員の採用や給与計算といった管理業務に偏っている傾向があり、経営戦略への関与やライン部門との連携が不足している可能性があります。
しかし、グローバル化や技術革新が加速する現代において、企業は変化に対応できる人材を育成し、従業員の能力を最大限に引き出す必要があります。そのためには、人材を「資本」と捉え、戦略的に育成・活用する人的資本経営への転換が不可欠です。
古沢昌之・谷口智彦. (2024). 人的資本経営に関する一考察 - Cranet Survey に基づく6ヵ国の比較研究 -. 商経学叢, 70(4), 135-158.