【古文のはなし】『土佐日記』を読む。船が葉っぱに見えるので、海に散ると秋の落葉みたいだ。

前回のあらすじ(正月二十日、一週間室津から進まず)
月夜に海原へ出ると、水面に反射した月が浮かぶのでまるで空を漕いでいるようだ。阿倍仲麻呂も言っていたが、月というのはどこにいても同じものだね。

原文↓

前回↓


廿一日、卯の時ばかりに船出す。皆人々の船出づ。これを見れば春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける。おぼろげの願に依りてにやあらむ、風も吹かずよき日いできて漕ぎ行く。この間につかはれむとて、附きてくる童あり。それがうたふ舟うた、「なほこそ國のかたは見やらるれ、わが父母ありとしおもへば。かへらや」とうたふぞ哀なる。

二十一日、五時〜七時の朝に船を出す。みんなそれぞれの船が出た。その様子が、春の海に秋の葉が散ったように見える。船の形が葉っぱのようなので。格別の願掛けのおかげであろうか、風も吹かず良い天気で進んでいく。船の出なかった間にお仕えにと付いてきた童がいる。その童が歌う舟唄が「やっぱり国の方を見てしまうよ。我が父母がいると思ったら。帰ろうよ。」といったもので哀しい。

>最近QuizKnockの動画で今年の正月の日の出が卯の刻と知ったので、それくらいの時間なのかなと思ったがどうだろう。当時と今の時間の違いって分からんな。今とほとんど変わらない時刻に日の出と日の入りがあったのかどうか。ああ、でも多分月は同じように回っているだろうから、太陽も同じ感じかなあ。ロマンがあるね。


かくうたふを聞きつゝ漕ぎくるに、くろとりといふ鳥岩のうへに集り居り。その岩のもとに浪しろくうち寄す。楫取のいふやう「黒鳥のもとに白き浪をよす」とぞいふ。この詞何とにはなけれど、ものいふやうにぞ聞えたる。人の程にあはねば咎むるなり。

そのような歌を聞きながら船を漕いでいくと、黒鳥という鳥が岩の上に集まっていた。その岩の根元に波が泡立って白く打ち寄せる。舵取が「黒鳥のもとに白い波を寄せる」という。この言葉は特段なんともないのだけど、何か引っかかる。舵取の身分に合わないから気になるのだ。


かくいひつゝ行くに、船君なる人浪を見て、國よりはじめて海賊報いせむといふなる事を思ふうへに、海の又おそろしければ、頭も皆しらけぬ。七十八十は海にあるものなりけり。「わが髮のゆきといそべのしら浪といづれまされりおきつ島もり楫取いへ。」

そんなこんなで進んでいくと、船のあるじが波を見て、土佐を出てから海賊が報いにやってくるだろうと考えるせいで、海が恐ろしく、頭髪がみな白くなってしまった。七十、八十歳になる理由は海にあるのだな。「私の髪の雪と磯辺の白波とどちらの方が白いだろうか。沖つ島守の代わりに舵取が教えてくれ。」

>全然関係なくはないんだけどさ、雪が降った時に頭に雪が積もったのをさして「白髪になったね」「急に年取ったね」みたいな雪国ジョークってあるのかな。頭が白くなる=歳をとるのイメージはあるけど、頭に白いものが付いた時にそういう冗談を言う文化に触れた事がない。


廿二日、よんべのとまりよりことゞまりをおひてぞ行く。遙に山見ゆ。年九つばかりなるをの童、年よりは幼くぞある。この童、船を漕ぐまにまに、山も行くと見ゆるを見て、あやしきこと歌をぞよめる。そのうた、「漕ぎて行く船にて見ればあしびきの山さへゆくを松は知らずや」とぞいへる。幼き童のことにては似つかはし。けふ海あらげにて磯に雪ふり浪の花さけり。ある人のよめる。「浪とのみひとへに聞けどいろ見れば雪と花とにまがひけるかな」。

二十二日、昨夜の泊から別の泊に向けて出発する。向こうに山が見える。九歳ほどの男の子、年齢より幼い振る舞いをする子が、船を漕いでいくと山も付いてくるように見えるのを見て、おかしなことに和歌を詠んだ。「漕いでいく船から見たら山さえ一緒に行くのを松は知らないのか」という。幼い童にふさわしい和歌だ。
今日、海が荒れ気味のため、磯に寄せる波が雪が降っているようであり花が咲いているようであり。ある人が「波とだけ一言でいうけれど、色を見れば雪と花とに見違えてしまうものだなあ」

>童のいう「松」ってどこに生えてる松のことなんだろう。山か、海辺か。山よりも船に近い松は船についてこないけど、山は船についてくるよねということか?


廿三日、日てりて曇りぬ。此のわたり、海賊のおそりありといへば神佛を祈る。
廿四日、昨日のおなじ所なり。
廿五日、楫取らの北風あしといへば、船いださず。海賊追ひくといふ事絶えずきこゆ。

二十三日、日が照って、それから曇った。この辺りは海賊の危険があるので神仏に祈る。
二十四日、昨日と同じところ。
二十五日、舵取たちが北風が悪いというので、船を出さなかった。海賊が追ってくるという話がずっと聞こえる。

>見えない敵に怯えるのストレスだろうなあ。見えないが確かな敵、片目を開けて寝なきゃいけなくなるような。


廿六日、まことにやあらむ、海賊追ふといへば夜はばかりより船をいだして漕ぎくる。道にたむけする所あり。楫取してぬさたいまつらするに、幣のひんがしへちれば楫取の申し奉ることは、「この幣のちるかたにみふね速にこがしめ給へ」と申してたてまつる。

二十六日、本当かどうか分からないが、海賊がやってきたというので夜半くらいから船を出して漕いでいく。道中に神へ手向をするところがある。舵取に幣を奉納させると、幣が東へ散ったので、舵取が言うことには「この幣の散った方へ御船を早く漕がせてください」とのこと。

>楫取の「申し奉る」の敬意って船のあるじに対するものかな。神託だからかな。特別に丁寧さを感じる。


これを聞きてある女の童のよめる、「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなむ」とぞ詠める。このあひだに風のよければ楫取いたくほこりて、船に帆あげなど喜ぶ。その音を聞きてわらはもおきなもいつしかとし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。このなかに淡路のたうめといふ人のよめる歌、「追風の吹きぬる時はゆくふねの帆手うちてこそうれしかりけれ」とぞ。ていけのことにつけていのる。

これを聞いてある女の童が「海の道触の神に手向する幣をなびかせる風が止まずに吹いて追い風となって船を押してください」と詠んだ。風がいい具合なので舵取が得意げになって、船に帆を上げろなどと喜ぶ。青の音を聞いて、童も翁もいつ以来だったかと思うほどに大変喜ぶ。この中に淡路のたうめと言う人が詠んだ歌「追い風の吹くときは風に乗っていく船の帆も手を打つような音を立てて喜んでいる」。天気のことを祈る。

>船の帆の音を、喜びの拍手のようだというの良いねえ。「箱根駅伝の応援する旗が風でパタパタ音を立てるのが拍手のように聞こえる」というのを来年使っていいよ。



舵取がそれっぽいことを言ったら「ふさわしくない」って言われるの可哀想すぎる。舵取いいやつっぽいのになあ。ちゃんと無理せず安全に船旅進んでるしさあ。

今回は途中で雑談挟みまくっているから、これくらいにしておこう。



こういう系の話が好きな方は↓をどうぞ。

次回更新 1/22:続きかも→22日にやるの忘れてた。次回更新29日。
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。