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古谷田作品と湧き出す元気のことー「無限の玄」

一度「古谷田奈月の小説を読むと元気がでる現象に名前をつけたい」とツイートしたことがある。しかし、よくよく考えてみると、この作家の小説は湧き出た元気に水をかけるような作りになっている。それで元気が消沈するわけではなく、くすぶりながら残っている。

まず、湧き出てくる元気に名前をつけるなら「ごちゃごちゃ面倒なことを言わないノリ」であろう。左派リベラル的な心性があれば当然難癖をつけたくなる新自由主義的な、ホモソーシャルなシチュエーションを、古谷田の主人公たちはスタスタ歩く。古谷田の文体にも同じような軽やかさ、そして、静かな暴力性のようなものがある。

そこにはたしかに暴力性がある。例えば、駅のホームでゆっくり歩く人の背に飛ばす「ここは丸の内ですよ。ちんたら歩かないでくれ」との思念。資本主義社会で生きるために、誰からともなく配備された武器としての暴力性。実際に暴力が振るわれるわけではないが、ホームで立ち止まった時にたしかに身をかすめていく威迫。わたしの中にもそれが配備されているが、それを肥大化させ、研ぎ澄ましてくれるような要素が古谷田作品にはある。

面倒なことは言わない。ベタベタした関係はいらない。この「無限の玄」という短編に沿って言えば、ノスタルジーなどくそ食らえ。「女々しい」という言葉でくくりたくなるようなものが、執拗に廃棄される。

しかし、「無限の玄」に限らず、古谷田作品では、そうした廃棄する人物の中に、あるいはその人物の死角となっている至近距離に、そのまさに廃棄されたものが、かなり純粋な形で根付いていることが明らかにされる。七面倒なものベタついたものに足をとられ後ろ髪をひかれている。

すると、立ち上がった元気に、水がかけられる。

こういう事態そのものはーー文学作品でも日常生活でもーー高頻度で起きることだと言える。わたしは、そうした矛盾を描き出す手つきに惚れて古谷田作品を好んでいるわけではない。古谷田作品が独特なのは、このような物語を書きながら尚、①作者が暴力のようなものと手を切れないこと、②その暴力の始原にあるベタついたものに再び目をつぶることを止められないこと、にある。

②については、あまり自信がない。たぶん、そうなのだと思ってる。

この暴力を手放すわけにはいかないのだ。作者がそう考えているかは知らないが、わたしは「この暴力を手放すわけにはいかないのだ」とそう思う。ベタついたものや弱さの存在を認めないといけない。しかし、同様にそうしたものの存在を否認したがる暴力を否認することもできない。認否など問題にならず、わたしはそれの囚われの身なのかもしれない。

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