私が死んだら喪服を着せて、灰は静かな森に撒いて

※死に関することを書き連ねているので、気分が落ち込んでいる方や、元気でいたい方はご注意ください。


 死にたいより死にたくないが勝っている話、人の死の話、自分が一番死に近かった時の話、最近の身の回りで起きた死にまつわる話など。


 中学生のころから最近に至るまで、定期的に死んでしまいたいと思うことがあった。自分のことを嫌いになる出来事があった時、適応障害と診断された時、大事な人・人ではない家族を亡くした時、或いはPMDDの時など、理由は多岐に渡った。

 最近まで、と記したが、今後も希死念慮を感じることはあると思う。以前より悪化する可能性だって、十二分にある。未来のことはわからない。

 ただ、希死念慮よりも死ぬことが怖い! という方に気持ちが傾いている今の自分に、今日、気づいた。

 少しずつ自分に諦めがついたような、それでいてまだ諦めたくないという気持ちがあるような、目指すところが少しずつわかってきたような、運が少し自分に回ってきたような、そんな感覚なある。だから今死ぬのは勿体無いと感じる。

 あとは病により痛み、もがき、苦しむことが何より怖い。ピンピンコロリに憧れる。それは先月に母が病気で入院し、いっときは話せないほどの痛みに苦しんでいる姿を見たからだと思う。母は仕事のストレスで病気になったと、しきりに言っていた。現代医療のおかげで母は退院して職場に戻ったが、体力・筋力が低下し以前のように働くことが難しいとボヤいている。転職も検討しているようだ。

 母の入院当初は、このまま死んでしまうのではないかと考え、怯えた。このまま死んでほしくないと思い、私自身絶対同じ病気になりたくないと感じるほどの、あの、声にならない声で激痛を訴える母の顔! 健康が一番だと思った。

 他にも、キツイ職場で脳と体を壊しかけてしまったインターネット上の友人(実際には相互フォロワーという方が正しい気もするが、フォロワーと呼ぶより、こうやって呼びたいという気持ちが強いので、そうする。相手がどう思っているかは知らない……)と実際に会ってやりとりした時も、身を粉にしてまで働くことが正解じゃないよな、それで死にゆくのは嫌だな、と感じた。

 この人が「不穏なツイートを残して連絡が取れなくなったフォロワーが何人かいるんです」と話していた時、私はその人の目を見ることができなかった。その友人も、連絡が取れなくなった時があった。あなたはそうならないでねと思いつつ、その時は願いを口に出せなかった。

 その友人により近しい方が「⚪︎⚪︎さん(友人)と連絡が取れない」も慌てたメッセージを送ってきた時、すごく、怖かった。連絡が取れた時は心の底からほっとした。

 そう、自分の死は怖いが、それとは別に、当たり前に生きていると思っていたネットの向こうにいる人が突然、この世からいなくなったかもしれない……となるのも、怖すぎるし、辛すぎるし、やるせなさすぎるのだ。

 とはいえ前述の通り、私は私で死にたいと思うこともあるわけだから、死を望む人の気持ちを否定しきれない。専門学校進学後に何もかもうまく行かず死のうとして電車とバスで遠くのダムに行ったことがあった。しかしバスのルートが落石のせいでダムを通らない迂回ルートを回ることになっており、仕方なく川の近くでバスを降りた。
 バス停近くにあった高い橋の上から飛び降りようとしていたんだけど、どうにも勇気がなくて死ねずにいた。

 まごまごしていると、おそらく事態を察した知らないおじさん(釣りに来ていた?)に優しく「こんにちは」と挨拶され、私は挨拶を元気に返し、挨拶返しちゃったわなあ、と、ついに諦めて帰ってきて、ただただ屍のように日々を過ごし、今よりも体重が6kg程度軽かった時期があった。当然運動不足で筋肉もないので、不健康な痩せ方だった。長くなったが、ただただ死にきれず生きる、そういう時期があった。

 こういう経緯があったため、死のうとしている人に、その思考回路の人に、死ぬなと無責任に言うのも違うよな、と思うようになっている。あの時の私に死ぬなと言っても「何を綺麗事を(笑)」と笑われて終わりだっただろうから。道への落石と釣りおじさんの挨拶という偶然があったおかげで、私が浮かぶダムは存在しない世界線になった。

 他者を取り巻く環境、価値観、脳の状態などは、専門家じゃない私のような人間にはどうすることもできないので、無責任に死ぬなとは言いづらい。

 とはいえやっぱり知ってる人が死ぬのは、怖い! 生きてたら、もし元気になったらオフ会だってできる、インターネット上でくだらない言葉、うんことかしっことか言える、だから、楽しいから、生きていてほしいと思ってしまう。

 これまで出会った人たち、今一緒に生きている人たち、インターネット上でやりとりしている人たちが、一人一人例外なくいつかは死にゆく存在なのだと思うと、怖い。当たり前が当たり前じゃなくなる。

 今、思い出した。この感覚は、祖父が「同級生が去年5人亡くなった」と言っていた時に感じたものと同じだ。祖母が年末年始に入院していて、それのお見舞いに行く時の話だった。そうだ、祖母も入院したんだった、退院したけど(最強! 生命力! おばあちゃん大好き!)。
そんなこんなで、今の私は死について考える機会がやたら増えて、それで怖くなってるのかもしれない。

 芋蔓式にどんどん思い出す。ずっと、脈絡がなくてごめん。読んでくれてありがとう。

 この前、とても尊敬している同年代の上司が、オンライン会議でさらに上の人と話している時、ご友人が過去に自殺された経験を泣きながら話しているのを耳にしてしまって、それを想像して私も苦しくなったんだったな。大事な人の死って悲しいよ。

 前述の「友人」に会う直前のことも思い出した。その友人に会いに向かう道中、新幹線のデッキで居合わせた人がいきなり倒れ、最初は声掛けをしても応答がなかった。そして意識回復後に私が持っていた袋でその人の嘔吐物を受け止めた。あの時、その人の「命の危険」を間近に感じてヒヤヒヤした。幸い駅員さん方の迅速な対応や、その場に居合わせた人が看護師さん(なんと結婚前の両家の顔合わせで新幹線に乗っていた、人助けを躊躇わないこの方がどうか幸せであれと願う)だったおかげで、その場はなんとかなったが、あれは……縁起が悪い言い方だと思われるかもしれないが、下手すると死んでいた案件だと思う。

 人は、運と巡り合わせで、なんとかなっている?なんとかならずに命が終わってしまうこともままある? それって寿命とは別に、早く命が終わっちゃうケースがたくさんあるって事実と、わたし、向き合わないといけない?

 あと、物理的な死とは別に、生きていても屍のような生き方を選ばざるを得ない時期があったりするよな。

 肉体の死、精神の死、半殺し状態の生、全てが怖い。考えたらキリがない。どうかこの世の優しい人たちがなるべく穏やかに過ごせたらと思う。あわよくば自分もそうでありたい。不慮の事故や病気、クソみたいな社会、そういうのって……どうにかならないのか。等しく死を穏やかなものにできないのか。福祉ができることってなんだ。個人ができることって、なんだ……。


 人の死って案外身近で、それでいてセンシティブで不可逆で、どう扱ったらいいかわからなくて、怖すぎるな! それは私が無知だからなのか? でも死んだ人の体験なんてスピリチュアルを除いて一切聞けないし、どうしろってんだ。先人たちの本か? 哲学か?

 う、うわああああああ〜〜〜もう死について考えるのこわい! そういうイベント暫く起きないでほしい! みんな穏やかに生きてて! 個人的な都合でごめん! でも、だって、死って怖すぎるから!! 死は救済ってことばがあるけど、それって怖すぎる! 死が救済になってしまうような現代社会を変えていきたすぎる!!! せめて生死のギャップが埋まるように、生を穏やかに終えられるように、この世は、なったほうがいいんじゃないか!! 災害とかもヤダ!! この世こわすぎ! 怯えて生きていくのもヤダ! どっしり構えていきたい、時には凪のようになりたい!!!!


〜〜〜


 突然ですが、自分の気持ちを落ち着けるために、私が死んだら、タイトル通り喪服を着せて弔ってほしいという話をします。私は骨格ストレートで喪服がやたら似合ってしまうので、私の葬儀には私が喪服で参列したいのです。死装束より確実にそっちの方が似合います。

 あと、森に灰を巻いてください。ついでに、灰を撒く際にはドラゴンクエストⅧのサントラを流してください。私は山道をドラクエⅧのサントラを聴きながらドライブする(ペーパードライバーなので、助手席)のが大好きだから……。自然に還してほしいのです。樹木葬? にも憧れる。

 で、それをやってもらうには人手が必要だから、これを読んでいるフォロワー、否、もうあなたたちは友人なので、友人。頼みます。私より長生きして、どうか、やってください。私は決して体が強い方ではないので、多分みんなより早くこの世からいなくなります。

 とか言いながら、一番長生きだったらウケる。その時は、あなたがドラクエやってようがやってまいがドラクエⅧのサントラかけて弔います。布教。名曲揃いなんだよなぁ!

 まだ暫くは誰も死んでほしくないな、いなくなるのって怖いもん、と自分勝手に思いながら、今日は寝ます。

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