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俳優とキャラクターについて


2021 年12月3日

今回は俳優とキャラクター(登場人物)についてお話ししたいとおもいます。
今年度は非リアリズムの演技について議論してきて自分の中で考えたことをまとめられたらいいなとおもっています。

なぜ「俳優とキャラクター」というテーマでの発表にしようかと思ったかというと非リアリズムの演技について考えているときに、その演技をしている際に俳優が演じているものが主にキャラクターであり何らかの型であったり、戯曲に書かれている手がかりであったりがその元でありそれは観客が見たいと願っているものでもあり、それを何らかの手段で実体化するのがいわゆる役作りのように考えられるのでキャラクターというものが俳優の演技の仕事の割と重要な部分のように感じたからです。


特権的肉体

さてまず思い返すのは唐十郎の「特権的肉体論」です。その中に出てくる“特権的肉体”のことです。清末浩平さんの書いた「唐十郎論」では特権的肉体とは俳優その人ではなく戯曲の登場人物のことだという話題が出てくるのですがその論に則らせていただいて話をします。

なぜ特権的肉体が登場人物なのか。また登場人物が特権的肉体なのか。

というかもはや登場人物というか舞台上に表される者という意味のキャラクターになってしまうかとおもいますが。


漫画のキャラクターと漫画の舞台化

宝塚での「ポーの一族」の舞台化について話したいと思います。

この舞台化を知ったとき主人公エドガーを演じる明日海りおさんが好きだし「ポーの一族」も好きだったのでこれは絶対に観たいと思いました。

そして実際に観て大変に感激したのですが。その感動は一体何なのかと振り返りその感動の中にイメージが実際に具現化されて目の前に現れ生きて動いていることへの感動がありました。演技を観ているとき観客には俳優があるイメージを実体化して存在していることに快を感じる感情があると激しく実感したものです。

われらはこの世ならぬもの神のつくりしものにあらず

という作中の歌詞に(これはヴァンパネラのことを歌っているのですが)登場人物という架空の存在のあわれのようなものを勝手に感じたりしたりもしていました。

原型を表すこととずれ

観客はイメージ通りの原型を観ることに快感を覚えるということを身をもって体感したのですが、では俳優の仕事は人間の中にある原型的なイメージを体現して観客に快感を味わわせるということが第一のことなのであろうか?
とか考えてしまうのです。私はどちらかというとそういう演技を好むし志向する方ですがきっと生きた個別の人間がやる以上どこかずれが出てくるはずであり、表される者はすこしずれを持った原型になるはずでそれがまた演技の面白さや個々の俳優の面白さでもあると思うわけです。

俳優は登場人物と体と感情を共有しその舞台の時間を生きるのであるから、普通ありえないような近さで架空の人物と過ごすのでその感覚はやはり特殊なものではないかと思います。そしてその期間ともに過ごしたキャラクターとその期間が終われば肉体を共有することは基本的はなくなるのです。自分の一部を利用して生きたものとして存在させた架空の人物は実社会に存在しないものの肉体をもってその時間その場所にだけは生きて存在する奇妙な存在とあらためて奇妙に感じます。

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