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昭和男と実家じまい2

この投稿は、実際の実家じまいについて綴っています。

<以前の投稿>
昭和男と実家じまい1

◉父モードに家を整える

ようやく銀行印を見つけ出し、銀行へお金を引き出すことに成功した私たち。
もちろん、この「お金を引き出す」行為を父に身につけてもらうために、私は4度も銀行につきあって、練習を重ねてもらった。
70歳過ぎてから、新しいことを覚えるのは多分億劫なのだろう。
でも、生きていくためには仕方ないし、それに実は、父はとても記憶力がいい。
日本郵船で船長を歴任し、その後大学の講師をして、退職後もずっと勉強を続けてきた父。
朝、というか夜中2時に起き出しては朝まで勉強を欠かさない。そういう意味では、父だったらある程度は新しいことを覚えるのは大丈夫じゃないかと期待していた。

しかし、お金を引き出せても、父の暮らしをどうするのかという大きな問題がそびえたつ。
頑固な父は、サービス付き老人ホームに入ることは一切拒否し、宅配弁当も、家事サポートでご飯を作ってもらうことすら拒否した。
そして、最後までこの家で暮らしたいと言い張った。
私が住んでいる場所は実家から往復で4時間かかるから、毎日の様に来て、小まめに面倒を見ることは不可能だ。
弟夫婦が隣の区に居るものの、疎遠であったために、頼ることも出来ない状況。
老人ホームは嫌だ、ご飯は作れない、自分で家事をするつもりはない、じゃあ、一体どうやって暮らしていくつもりなのか。
答えは簡単にでなかった。
いろいろ悩んだ挙句、まずは父の生活基盤を整えることから始めることにした。

私には夫と小学生の息子が1人いる。
まず大前提で、私達家族が、実家で父と一緒に住むことは出来ない。
私達には、私達の生活があり、父の都合(我儘)で振り回される訳にはいかないと考えた。
それに私は嫁いだ身であり、夫の母が一人で暮らしている状況なのに、実家の父を優先するのも違う気がした。
直接聞かなかったが、多分、同居は父もしたくなかったかと思う。何せ「好きに」暮らしたい人物だったから。
父が一人で住むのであれば、最低限のことが整わないと難しいのも事実。
その最低限の状況を作るのは、父では無理だと判断した。

まず父にしたのは、洗濯の手ほどき。
葬儀後から溜まっている父の洗濯から始めた。
洗濯機のボタンの押し方、洗剤、柔軟剤の量、分別洗い、それらを覚えるまで、何度も実家に来ては付き合った。
シーツや布団カバーなどの大物洗濯は、私が実家に来た時にするとして、日々の衣服やタオル類の洗濯は何とかなりそうだった。
これならちょっとハードルを上げても大丈夫かなと、気を良くして言ってみる。
「お父さん、掃除ってどうかなぁ?例えば、トイレ掃除とか」
「やらんなぁ……」
やっぱり、やらんか。
よくよく考えると、父は元日本郵船の船乗りで、外国船航路の船長なども歴任してきた。
その時に、下着など自分の洗濯物をしていたので、洗濯物のハードルが低かったのだろう。
掃除は、船では専用のスタッフがいたから、自分で掃除することなんてなかったのかもしれない。
自分が船長に着任した船は、先ずは徹底的に船内を掃除することからさせる、特にトイレ掃除は大事だ、これで事故が減るんだ、なんて昔言っていたが、全て「させて」……もとい、部下に「して」もらっていたのだろう。
いざ自分の家となると、トイレ掃除は、もはや自分でする事と捉えていない。
掃除の問題は先送りすることにした。少々お金はかかるが、ダスキンなどで掃除を定期的に頼んでもいい。知らない人が家に入るのを嫌がる頑固者の父だが、ここはあとで説得すると、心に決めた。

「食べること」にも触れておきたい。これが整わないと、生きていけない。
そこで台所を父仕様に整えることにした。
「整える」と一言で言い表したが、これがとてつも無く大変だった。

台所は母のお城で、母モード満載だ。
前文でも触れたが、母は物を溜め込む人だった。
それに料理がとても上手で、料理ごとに食器を変えて楽しむ人だった。
食器や漆器も大好きで、お正月用の塗り食器やお椀、松花堂の弁当箱、中華用のフルセット、ブレックファースト用のフルセット、和食用の様々な形をした小鉢達、来客用のコーヒーセットが3種類、ティーセットが3種類、茶器、パスタ皿……、もう数え出したらキリがないぐらいにアイテムが豊富だ。
多分、通常の4人家族の3~4倍ぐらいの食器の数だろう。
そして母は、とにかく物を置いておく人だ。
当然、食器だけでなく調理器具も満載だ。
鍋の数だけでも、10は優に超えていた。
そして訳が分からないのが、これだった。
お寿司についているバラン、小魚ケースに入っている醤油、そしてなぜか「和牛」シール(牛肉パックを買った際に、ラップの上に貼っているシール)。
それらが、数限りなく出てくる。
賞味期限、大丈夫か?と小魚ケースの醤油達に思わず語りかけたが、残念ながらケースには賞味期限が印字されていない。
一体いつから溜めていたのか、もしかしたら、何らかの時に使うかもしれない、そういう気持ちで物がどんどんドンドン増えていったのだろう。
それでも、台所を外から見れば何となく片付いている様に見えるから不思議だ。
でも、台所の扉と引き出しを開ければ、物に溢れている。
というか、突っ込んでいる場所も多々ある。
これらを片付けなきゃ、ならんのか。
絶句しかなかった。
しかし、私は曲がりなりにも整理収納アドバイザーの資格を持っている。
先ずは台所の一部分のスペースを決めて、順次いる物・いらない物の選別に取り掛かった。
本来なら、「いる物、いらない物、どうしようか迷う物」に分けるのだが、ここは「いる・いらない」の2択にした。
ここで迷っている暇はなく、早くに父が使える台所にしなければならない。

まず、台所の調理器具関連は、必要最低限にした。
私が来た時に料理する物だけにとどめた。フライパン3つ、鍋は3つほど。
お玉、フライ返し、菜箸、ヘラなどの基本的な器具は1つずつ。
全てにおいて3〜4倍あった調理器具を3分の1以下にするのが目安だ。
その中でも、頻繁に父が使うのはフライパン1つ、鍋1つぐらいだろう。
積み重なって調理器具達が目の前にあった以前よりも、引き出しを開けたら、最低限の物だけが並んでいる状態であれば、父も物を探す手間が省ける。
……と文章では、簡単にまとめているが、ここまで整理するのに筆舌に尽くし難いことが多々あった。
例えば、台所の引き出し一つとっても、全て物を出して、洗い、消毒をした。
実は、引き出しの中にはゴキブリのフンらしき物やホコリがいたる所にあった。
70歳を過ぎて、掃除が行き届かなかったのだろう。
一からそれをひっくり返して、全て洗い、消毒の連続。それらを黙々と進めながら、私は猛烈に反省した。
なぜ、母が生きている時に一緒に片付けをしようと、声をかけなかったのかと。
一つ一つが、母と一緒に台所で立つ時に手にした物が多く、思い入れも深い。
「これいるかな〜?必要ないんじゃない?」と声を掛け合って、話し合いながら和気藹々と物を手放した方が、どんなにかこの思い出深い台所が輝いたか。
今の私がしている作業は、物を省き、捨てることの繰り返しで、何だか母の思い出を塗りつぶしている行為に思えて、涙が止まらなかった。
物を一つ捨てては、「ああ、母はもういないんだった」と思い、「お父さんの生活に、これ必要かな?」と考えて、物を選別していく。
この作業より、母と片付けをする記憶を持ちたかった。

この心理的にも悲しく、身体的にも大変な作業を、癒し系の夫と大きな眼をクリクリとさせた息子は一緒に片付けてくれた。
感謝しかない。ありがとう。こんないい旦那様、滅多にいない。
小さいながらに荷物を運んでくれる息子が可愛らしい。
母を亡くした悲しみの涙と、感謝の涙を同時に流す、不思議な体験をした。

涙ばかりを流していても、悲しいかな、目の前の物達は片付いてはくれない。
洗面所も日々の生活には欠かせない。
この洗面所も一部の父の日用品以外は、母モード一色だった。
洗濯などの水仕事はここに集約されており、掃除道具も洗面所に集結しているから当たり前かもしれない。
兎にも角にも、洗濯と掃除道具の備品が半端なく多い。
掃除アイテムひとつとっても、洗面のカビ取り用、お風呂のカビ取り用、排水溝汚れ用、お風呂洗剤、トイレ洗剤、洗面用洗剤、扉隙間用アイテム、廊下用ワイパー、棚用ワイパー……数え出したらキリがないぐらいのラインナップ。
母は小まめに掃除場所によってアイテムを使いこなしていたのだ。
当然ながら、父にこのアイテム達は使いこなせないだろう。しかし後に掃除をダスキンさんなどの外部の方に頼むのであれば、これらの備品も幾ばくか必要になる。
その事も考慮しても、やはり目の前のアイテムは膨大だった。
それにここも洗剤の液ダレや長年のホコリが積もりに積もっている。
晩年の母は目も見え難かったようなので、汚れが分からなかったのかもしれない。
仕方ない、やるか。
そう自分に発破を掛けて、黙々と廃棄する物を分別しながら片付け始める。
詳細は省くが、台所と洗面所、トイレを片付けて出来たゴミの山は100袋近くになった。

そして、母が今までコレクションしてきた食器達の選別に取り掛かる。
台所の壁一面に配された食器棚と、ダイニングにある食器棚、それらに入っている食器達だ。
食器も実は曲者だと言える。割れるし、かさばるし、重い。それに扱いを繊細にしなければならない。
父が日常で使うなら、お茶碗、中皿、小皿、吸い物碗、マグカップ、ガラスコップ、これらが一つずつあれば事が足りる。
それ以外と言えば、私達が実家にきた際に使う食器と来客時のコーヒー&ティーセット、茶器セットを残しておけば大丈夫だ。
それらを加味してもやはり今ある食器は膨大だ。中には、母が好んで揃えていた作家さんの和食器も数多くある。
私もいくつか欲しくなるが、家はマンションの為、食器棚の余裕がないので持ち帰ることはやめた。というか、自分の家の物を増やすことをしても意味がない。
物を左(実家)から右(自分たちの家)へと移したって片付けにはならない。問題の先送りだ。
目の前の食器達は、もはや処分品でしかないと、心にとめた。
実は片付けで必要なのは、「手放す」ことである。
日々の必要最低限の物は何かを見極めて、手放していかないと、いつまで経っても物は減らない。本来ならこの「必要最低限」のもの達は、生活する父に見極めて欲しいのだが、自分の生活自体を母に委ねていた昭和男なので、何が必要かすら分からないのだろう。
私は母が繰り広げていた日常生活から想像して、ひとりになった父の生活を想像して、必要な物を手探りで取り上げていくしかなかった。

食器を片付けるには、やはり段ボール箱と新聞紙が必要になってくる。
山盛りに積み重ねて、倒れてきたら無残にも割れる運命しかない。
フットワークが軽い癒し系の旦那様が、ホームセンターでダンボールを買ってきてくれた。
私が選別した食器達をダイニングテーブルと、ダイニングの床に並べ置き、それらを黙々と新聞紙に包んで段ボールに詰めていく。
この際、何のメーカーの食器かを段ボールに書いておく事が後々の助けになる。
微々たる金額にしかならないが、買取業者さんに査定してもらう際に、何の食器が入っているのかを選別しやすくなる。
数多の食器達は、何と段ボール10箱になった。
途中から、引越しの荷造りをしている気分になったのも仕方ないだろう。

こうやってどうにか、台所・洗面所・トイレの水回りだけは父モードに整えた。
なお、この作業をしている時、父は関わらなかった。というか、出来なかったのだろう。
自分も何かをせねばと思うが、何をしたらいいか分からない、そんな感じが見て取れる。
でも、ゴミ袋だけは、頻繁に買い足しに行ってくれた。

◉母の名残り

いつまで経っても残っていたのは、母の身に付けていた物達。
服やバッグ、アクセサリー類。
主寝室のベッド近くにあるチェストの上に、母の服がグチャと山の様にそのまま置いてある。
チェスト上の母の服は、目につくと流石に悲しくなってくる。
このぐらいは、軽いものなので、私達が来る次の機会までに処分しておいて欲しいな……と思っていた。私自身、少しぐらい父に片付けを手伝ってもらいたかった。
だって、自分の生活のための片付けなのだから。
でも、それは甘い期待だった。やっぱり、父は昭和の男だった。
昭和男と片付けていいのか、それとも辛くて母のものを片付けられないのか、何だか聞けなかった私も悪いのかもしれない。
だが、実家に行くたびに、チェスト上に母の服は鎮座している。

とうとう私が片付ける決心をした。
チェスト上の服だけでなく、母の服を全て片付けることにした。
そうして、気がついた。
母が救急車に運ばれる前に起こったであろう数々の後処理が出来ずに、そのまま置いてある事実に。
想像するに母は一旦、心臓が停止した。父が一生懸命に心臓マッサージをして、救急車が来るまで対処していたと聞いた。その時に、母はそそうをしていたのかもしれない。
その後片付けが、父には出来なかったのだ。
言ってくれれば良かったのに……
私は、父の生活を整えるのが精一杯で、そして母の亡くなった事実を毎回の様に思い知りながら片付けるのに必死で、主寝室にある母のベッドや、服を片付けるのは後回しにしていた。
このままの状況で、夜、一人で主寝室に寝ていた父の気持ちはどうだったのだろう。
そう思ったら、居た堪れなかった。

踏ん切りをつけて、母のクローゼットを開ける。
母の服は主寝室、2階の和室、納戸(昔の私の部屋)に分散していた。
物が多い……、それは分かり切っていたことで、当然のごとく母は、服持ちだった。
服を売る事も考えたが、今すぐ母の名残を消した方が、父にとってはいいかもしれない。そう思って、一気に服を片っ端からゴミ袋に入れた。
2階の主寝室はゴミ入れ作業場として使っているので、出来上がったゴミ袋は1階の和室に仮置きすることにした。
詰めに詰めた服のゴミ袋は、これも100袋あまり。
このゴミ袋を2階から1階へ下ろす作業を、小学生の息子が頑張ってくれた。
まだ小さいので危なっかしく、1袋ずつ下ろす様に伝えた。
100袋を超えるゴミ袋が出来上がったのだから、階段の往復の数たるや100を超えているだろう。
これは大人でもキツイ。でも、文句一つ言わずに手伝ってくれた息子。
成長したなぁと、きっと、母もそう思っているに違いないと、思わずにはおれなかった。

つづき> 昭和男と実家じまい3

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