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新聞部にススメ(3)

 本格的に編集や制作をしていくことになったのは、高校三年の時でした。
 主力だった先輩方が引退し、その次の学年では私を指名されていたので、私が新聞局の局長として高校の新聞を作っていきました。
 と言っても、私はクリエイティブなことができないので、先輩方のやっていたことをそのまま引き継ぐだけですが。
 それでも維持するだけでも大変でした。
 そもそも、毎月の月刊紙を皆に記事を割り振って取りまとめて、それをワープロで原版に合わせて作り、自分の記事も書き、原版を作成し、それからリソグラフで全生徒分自分たちで刷り、生徒のクラスへ配布する手配をする。
 こうして書き出しているだけでも、結構な作業量だと思います。
 それを、私と同じ学年の副局長と、後輩一人の計三人、たまに後輩は抜けるので二人でほぼやってたのでよくやっていたと思います。
 立て込むと、夜七時とか、スポーツ部が帰宅するのと同じぐらいの暗い時間までやっていましたし。
 とてもやりがいがあって、あまり大変だと感じなかったし、作った新聞をクラスメイトが読んでいる姿を見ると、達成感がありました。
 校長先生に、私がいつも書いていた新聞によくある一面下にある小さいコラムを紹介されたのも嬉しかったです。
 あの時が一番みんなに読まれていると思えて、満たされている時だったかも……(苦笑)。
 それも、高校新聞という名目があったからなんですけど。
 だからこそ、適当なことを書けないなと身が引き締まりもしました。
 三年生の時の新聞部が一番充実していました。
 私の代で初めての試みとなる、確か朝日新聞社主催だったと思いますが、全国高校新聞コンクールへの応募をして、入賞を果たしました。
 五月頃に表彰式のために、浜離宮ホールへ行き、表彰を受けました。
 行けるのが私一人だけだったので、顧問の先生と二人で東京観光して帰るだけでしたけど(笑)。
 それでも、北海道の田舎に住んでいた私には、東京に出るということ自体が輝かしい貴重な経験でした。
 自分としても自信になりました。
 もう三年生でもありましたし、これを継続して、後輩に引き継げるように頑張ろうと思えました。
 それぞれの学年に、一人はやる気のある人がいるもので、一年生にも将来有望な子がいて、その子に仕事を教えながら、新聞局が続いていってくれればいいなと思っていました。

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